8. モーツアルトは聞きたくない
絶望がお題の2000字小説です
うん。もう駄目だ。終わりにしよう。僕はモーツアルトにはなれない。
再生の終わったDVDの静止画面を眺めながら、僕は眼鏡をはずして手の甲で目をこすった。
終わりにすると決めたくせに未練がましく、「夏の演奏会、一緒にやらね?」と匠から渡された音楽ファイルを開く。
流れてきたのは皮肉にもモーツアルトだった。
モーツアルトを連弾とかどんな嫌がらせだ? と毒づきながら、4手のためのソナタの2手では生みえない重厚感のある音の連なりに耳を傾ける。
僕が新谷匠に初めて会ったのは小学生の頃。難関と言われる某ピアノコンクールの控室だった。
緊迫した空気の中でいぎたなく眠りこける匠が僕には異星人に見えた。順番が来ても起きないのでしかたなく肩を揺すると、匠は寝ぼけ眼をこすってニコッと笑い、斜めに折れた楽譜を掴んで舞台に駆けだした。
うまく弾けるはずがない。そんな侮りはすぐに賞賛に近い嫉妬に変わった。
匠の演奏は素晴らしかった。不安定に乱れる部分もあったが、つややかでやわらかな音は心に響いた。匠を選ばなかった審査員は笊耳だ。たとえ片手に余るミスタッチがあったとしても。
苦い気持ちで熱気冷めやらぬ会場から出ると匠が人待ち顔で立っていた。やばいと思う間もなく目が合う。
「おーい、真壁圭吾ォ!」
匠はぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
とっさにバッグを持った手を後ろに回す。
「なな、どうやったらあんなふうに弾けるの? すっげぇ感動した!」
「……別になにも。普通だよ」
「マジで? 天才だぁ」
かっと炙られたように頬が熱くなった。背中に隠した盾と賞状を地面にたたきつけて踏みにじりたい衝動。屈託なく笑う匠を心底憎いと思った。
進学した音大付属の中学校で僕は匠と再会した。想定の範囲だ。本気で音楽に取り組もうと思ったら選ぶべき道は多くない。
匠は嬉しそうに手を差し出し、
「同じクラスでよかった。よろしくな、圭吾」
「うん、よろしく」
まっぴらごめんだ、とは言わず、僕はそつない笑顔で手を握り返した。途端に鮮明に蘇る屈辱と憎悪。あの日からずっと、僕は匠を憎み続けていた。
学校でも家でも僕は寝食の時間すら惜しんでピアノに打ち込んだ。成果は形になって現れ、教師の覚えもめでたく周囲からも一目置かれた。
違う理由で匠も注目されていた。享楽的で努力嫌いのトラブルメーカー。教師など歯牙にもかけなかったが、何故か僕の言葉だけは素直に聞いた。才能だけでは学校生活は送れない。退学寸前まで追い込まれた匠に僕は手を差し伸べた。決して優越感からではない。もちろん善意でもない。
一曲目が終わり二曲目に変わる。これもまた4手のためのソナタ。モーツアルトらしい華やかで技巧的な連弾用の曲だ。
大学でも関係は変わらなかった。高名な教授に師事し寸暇惜しんでレッスンに明け暮れる傍らで、匠のレポートを代筆し別れ話に立ち会い喧嘩の仲裁をした。
どんなに乱れた生活をしても匠はピアノを止めなかった。ピアノからは離れられない。何もかも違う僕らの共通点はそれだけだ。
なのに、最近はレッスンに没頭すればするだけ焦燥と失意に駆られる。血を吐くほど努力を積み重ねても僕はあの時の匠にすら届かない。
例えば僕の演奏は、学科の教授の足を止めることはできるだろう。正確無比な技巧と“正しい”解釈に基づく情感、安定した演奏は賞賛さえされるかもしれない。でもそれだけだ。
匠の奏でる音は音楽に興味のない者の心も揺さぶる。彼らはやわらかな音の生み出す鮮やかな景色と喚起された記憶にしばし身をゆだね、涙を浮かべるのだ。
…神がギフトを与えたのはなぜ匠なんだろう。あの音を…あの才能を僕のものにできるなら、良心も魂も喜んで差し出すのに。
二曲目が終わる。ファイルには続きがあった。短い沈黙の後、録音状態の悪い幻想曲が始まった。プロが弾いた前の二曲とは違う、下部雑音のないやわらかでつややかな音。
…こんなに憎んでるのに、どうして匠の音は僕の心にまで響くんだろう。
DVDで古い映画を見た。罪に懊悩する音楽家の告白から始まる長い長い映画だ。エンドロールを見ながら僕は声もなく泣いた。
僕はモーツアルトにはなれないけどサリエリにはなれる。
それは途方もなく静かで途轍もなく深い絶望だった。
憎悪ならいい。糧にできる。今までだってそうしてきた。だけど…。
僕は耳を引きちぎるように曲の途中でファイルを閉じた。
うん。やっぱりもう駄目だ。終わりにしよう。憎悪が狂気に変わる前に。
終わらせない限り僕は音楽からも匠の音からも離れられない。
執着はいつかすべてを壊すだろう。狂気より深い絶望なんて笑えない。そんなのまっぴらだ。
さよなら、匠。
僕はもう、モーツアルトは聞きたくない。