6. メリー・ウィドウ
馬がお題の2000字小説です
久しぶりに会った悪友たちに「今日は飲まない」と言ったら、疲れてるのかと気遣われ、「明日早いし」と答えたら、槍でも降るんじゃないのと不審がられ、「牧場に馬を見に行く」と白状したら、どうかしてると笑われ、「別に馬が好きなわけじゃないけど」と付け加えたら、馬鹿じゃないのとあきれられた…後で真顔で心配された。
まったくもってそのとおり。今の私は、疲れてるし、どうかしてるし、馬鹿みたいだ。でも絶対にそうすると決めていた。
さらさらの雪を恐々踏みしめる。欠伸を噛みながら朝一の飛行機に乗り、最寄りのバス停からとは言え歩いて牧場に向かうなんて、我ながら酔狂が過ぎる。馬になんか興味ないのに何してるんだか。馬好きだったのは彼で、それはもう終わった話だ。
それにしても寒い。寒さは痛みに似てると考える余裕があったのは最初だけだ。徐々に感覚がなくなり手足が痺れてくる。防寒着や腹巻なんて気休めだ、空港で買った冬靴を履いた足元も危うい。
黙々と歩きながら私は、気を紛らすために彼女に思いを巡らせた。彼女…メリー・ウィドウを初めて見たのは一昨年。彼に連れて行かれた地方競馬場だ。全国交流競走とか言うもので地方から来た彼女は、他の馬とは違い、慣れない場所に神経を尖らせた様子もなく妙に楽しげだった。競走の成績は振るわなかったし、ひたむきに走る健気さもなかったので、血眼になって馬券を握る人たちには人気がなかっただろう。でも彼は、名前の通り陽気な未亡人に見えた葦毛の馬を気に入ったようだった。
忘れていた名前を思い出したのはネットで調べ物をしていた時だ。検索するとメリー・ウィドウはすでに競走馬を引退していた。重賞に出走するような馬でさえ、引退馬の大半が過酷な運命を辿ることは聞いていた。だから牧場のHPで彼女を見つけた時は驚いた。居てもたってもいられず、冬の間は観光客の受け入れはしてないという牧場主に強引に頼み込んで極寒の地に向かった。
ブブーと、背後でクラクションが鳴った。振り返ると軽トラに乗った中年の男と目が合った。
「あんた…電話くれた人?」
あ…と小さな声が出た。雪焼けした柔和な顔はHPで見たのと同じだ。頷くと、男は牧場主だと名乗り、観光客慣れしたなまりのない調子で「本当に来るとは思わなかった」と笑いながら車に乗せてくれた。
車内の温かな空気にほっと息をつく。
「ありがとうございます。助かりました」
「買い出しのついでだ。それより、電話でも言ったけど、柵の外から見るだけだよ、遠くから来てくれたのに悪いが」
「はい」
短く答えて黙り込んだ私に男は訝しげな視線を向けたが、それ以上は何も言わず車を出した。
放牧地は白銀に覆われていた。厩舎の掃除が終わるのを待つ馬たちが、黒々とした足跡を残しながら行き来している。目指す葦毛の馬は放牧地の奥の方にいた。記憶の中にある姿より小さく…でも腹部はふっくらと膨らんでいる。HPで見たとおりメリー・ウィドウは身ごもっていた。馬はほぼ一年をかけて子どもを産む。命をかけて。それはやっぱり喜びなんだろうか。
なら、私は? ……私はどうしたいんだろう。防寒着の上から腹部にそっと手を当てる。彼を…夫を亡くした後で分かった妊娠を私は素直に喜べなかった。ひとりで育てる覚悟も持てず中絶も出来ず、迷う中でメリー・ウィドウを見つけた。答えを探すためにここに来た。でも彼が好きだった馬に会っても答えは出ない。私には、彼がどうして馬を好きだったのかも、自分がどうしたいのかもわからない。
腹巻をしてまで極寒の地に向かい、冬靴を買ってまで慣れない雪道を歩く。体を冷やしたくなければ家にいればいいし、転びたくなければタクシーを使えばいいのに。矛盾した行動と矛盾した想い。かじかんだ足でよろめきながら私は、このまま滑って転んでしまえば、なにも選ばなくて済むと思ってはいなかっただろうか。だとしたら、答え以前に私には母親になる資格などない。もし…興味がないと切り捨てず、もっと彼を理解しようとしていたら、こんなふうに迷わずに済んだんだろうか。
ふっと気配を感じて顔を上げると、メリー・ウィドウが目の前にいた。耳を立て、黒い瞳に気遣わしげな光を浮かべて、私をじっと見ている。
「あんたのこと心配してる」背後から牧場主の声。
「まさか」
「馬は敏感なんだ。それに優しい」
馬は優しい生き物だから。夫の声が不意に耳に甦った。するりと心の中の何かがほどけた。
あなたは幸せ? と問う必要はなかった。彼女の黒い瞳は競馬場でも放牧場でも同じように、笑うような陽気な光を湛えていた。
牧場主を振り返って聞く。
「夏にまた来てもいいですか」
その頃ならきっと仔馬の顔が見れる。馬好きの子はやっぱり馬好きに育つんだろうかと考え、私は小さく笑った。