12. あかい実
廃がお題の2000字小説です
ライトバンのドアを開けると草いきれでむっとした。
まだ4月だというのに初夏並みの日差し。暑苦しいスーツで中年には辛い傾斜の野道を歩くと思うとうんざりだが、これも仕事だ。私は里道に車を置いたまま歩き始めた。
はこべ。かたばみ。はるじおん。
表札の外れた門塀の奥、我が物顔で庭を蹂躙する草花。春の花と言えば聞こえがいいが、結局は雑草だ。
季節の花を丹精していた原口さん夫妻は、半年前に息子一家との同居を決めて村を出た。向かいの山田さんはいつだっただろう。人が住まなくなった家は瞬く間に荒廃する。硝子が割れ、根太が朽ち、静かに死んでいくのだ。
今や死は村全体に広がっていた。
限界集落…いや、超限界集落。数年前の市町村併合で隣接した市に飲み込まれた小さな村は、コスト削減という都合のいい言葉で、役場を失い、学校を失い、何かを失うごとに一人二人と人までも失い…。すでに消滅集落への移行は止めようのない段階に来ている。市は再生よりも廃村が合理的と結論を下した。私の仕事はわずかに残った住人に移住を促し村にとどめを刺すことだ。…嫌な役目だ。やる気のなさを反映してか丸一年を過ぎても仕事は終わらず、上司の小言のバリエーションが増えるばかりだ。
更に数軒の空き家を通り過ぎようやく目的地が見えた。廃墟のような古い家屋。かつては青々としていた畑も今は雑草に埋め尽くされている。
軒先で子どもの背丈ほどの木に朱い実が熟しているのが目に止まり、私は足を止めた。砂をまぶしたように細かく白い点を散らした小指ほどの赤い楕円。名前を思い出せず眉を寄せた時、元気な声がした。
「また来たとね」
首を巡らせると、無人だと思った畑の隅にほっかむりをした小柄な老婆の姿があった。
「こんにちは、松枝さん。あの…」
さっそく用件を切り出そうとする私に、松枝さんはにかっと笑いかけた。
「よかよか、麦茶でも飲まんね? 暑かったろうが」
「あ、はい」
喜寿も過ぎた先達からすれば私などまだまだ若造だ。
開け放された縁側に腰掛ける。
手渡された麦茶は香ばしくどこか懐かしい味がした。
松枝さんが隣にちょこんと座った。
「谷田さんとこな、どげんさしたと?」
「娘さんご夫婦と同居が決まって…」
「そうね」
「松枝さんも町に移りませんか?」
「うちは娘も息子もおらんけん」
「施設を用意します。ここは不便だし独りじゃ大変じゃ…」
「そぎゃんことなか、慣れとぉけん。電話もテレビもあると。大丈夫ばい」
そう、完全に廃村にならない限りは、最低限のインフラは供給しなくてはならない。それが問題なのだ。
「でも、いざという時に困るでしょう」
「じいちゃんに聞かんと決められんよ」
私は横を向いて深く皺の刻まれた松枝さんの顔を見た。
「じいちゃんに?」慎重に言葉を重ねる。
「勝手に好いとうごとしたら怒りんしゃぁけん」
「あの、おじいちゃんは今どちらに?」
松枝さんはにぃっと笑うと、達者な足取りでつかつかと奥に行き、無造作に襖を開けた。
白檀の匂い。仏壇には今年の冬亡くなった頑固そうな老人の遺影が飾られている。
「……」
もし松枝さんに痴呆が始まっていたら、同意なく施設に移ってもらうことも…という、私の浅はかな考えは御見通しらしい。
「もういっぺん富有柿ば食いたかって言うとらしたけんねぇ」
「柿、お好きでしたよね」
覚えている。釣瓶落としの秋の日、朱く燃える空と橙の果実。老人から渡された柿は驚くほどに甘かった。
「食い意地ん張っとうしゃぁけん、困っと」
連れ合いが生きてるように言い、松枝さんはころころと笑った。
ぐるりと家の中を見回す。
…生きている。苔むした沓脱石、焼けて毛羽立った畳、埃と古い家屋の匂い。道中で見た空き家より廃屋らしくても、この家も人もちゃんと生きている。
「あ…」
去年の春、憂鬱な気持ちを隠して訪問した私に、松枝老人が赤い実の話をしたのを不意に思い出した。
「グミ…もらってもいいですか」
「よかばってん、すゆかばい」
立ち上がってざらりとした赤い実をちぎり、スーツの袖で拭いて口に放り込んだ。酸味と渋み…そして微かな甘み。確かに人生みたいな味だ。
「…今日は帰ります」
「まだよかろうもん。奈良漬ば食べていかんね」
「いや、仕事がありますんで」
上司の小言を聞くのも仕事のうちだ。
「代わりに、今度柿を食べさせてください」
「…よかよ」
なずな。たんぽぽ。のぼろぎく。
野道を埋める雑草達。村の荒廃は刻一刻と進んでいく。松枝さんが意地を張ろうと、私が上司に無能と罵られようと、この村は遠からずに廃れ、緑に飲まれるだろう。
いい人ぶりたいわけではない。私がもう一度あの夕日に照る赤い実を見たい。甘い実を食べたい。それだけの話なのだ。きっと。