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その家に草薙響が訪れたのは、梅雨明け直後の日曜日の午後だった。
そこは林に囲まれた静かな一軒家だった。
近づいてはじめてそこに家があることに気づくほどに周囲からは孤立しており、おそらく地図がなければたどり着くのは難しかっただろう。
どこかで小鳥の囀りのような音が聞こえてくる。
都会の喧騒から逃れ、こういう場所で暮らすのも悪くないだろう。そう思った時、それに似た景色をどこかで以前見たような気がしてきた。
(これは?)
いったい何の記憶だろう?
自分が過去の記憶を失ったのは一年も前のことだ。それ以来、新しい自分として暮らしてきたが、時々、古い記憶が蘇ってくる気がしてくる。だが、それはいつも漠然とした感覚として消えていく。
響は気を取り直してその建物へと近づいていった。
そのモダンな雰囲気の建物の前に立ち、玄関脇のチャイムを押す。
すぐに人の気配がして、待っていたかのようにドアが開かれた。
白いフリルのついたシャツに膝下までの長さのピンクのフレアスカートという姿の女性が顔を出す。40代から50代といったところだろうか。
「どちらさま?」
少し高い声で女性は聞いた。
その目が響の顔を見て、少し戸惑いの色に変わる。その反応は響にとって、ある程度予想していたものだった。
響はその視線の意味など気にせずにーー
「長友静江さんですか? 実は招待状をいただきまして」
そう言って、ジャケットのポケットから一通の手紙を取り出した。
* * *
静江は響の手元の手紙に一瞬だけ視線を走らせた。
「確かに長友は私です。しかし、これはあなたに送ったものではないはずですよ」
「はい、藤枝由紀夫さん宛ですよね」
「ええ、でも、あなたは違う」
穏やかな口調だが、その中には失望が入り混じっているのが伝わってくる。
「草薙響といいます。ボクは藤枝さんの代わりに来ました」
「代わり? こういうものは代わりがきくものではないのですよ」
「すいません。ある事情で藤枝さんが来られなくなったんです」
「事情って?」
「その前にあなたのことを聞かせてもらえませんか?」
「私のこと?」
「藤枝さんは、なぜこの招待状が送られてきたのかわからないと言っています。そして、あなたが何者なのかも」
静江は小さく首を傾げた。
「わからない? 本当に?」
「ボクは藤枝さんから依頼され、この招待状の理由を教えてもらいにきたんです」
「依頼? ずいぶんお若いように見えますが。どういうご職業です?」
探るような目で、静江は響のことを見た。
「職業? いえ、警察やら探偵のようなものではありませんよ。ただの高校生です」
静江は響の背後に視線を向け、誰も人が見えないことを確認してからーー
「あなた、お名前は?」
「草薙響です」
「そう、じゃあお話しましょう。入ってください」
そう言って、響を招き入れた。
玄関でふわふわとした白い毛のついたスリッパに履き替え、そのまま右手のドアを開けてリビングへと通される。
真っ白な壁。何もない部屋の窓際に綺麗に真っ赤なバラが飾られたテーブルが用意されていた。きっと、今日のお茶会のために準備したのだろう。
少しだけ静江に申し訳ない気持ちになる。
響がテーブルにつくと、静江はそのままキッチンへと向かった。
一人になって、響は改めて部屋を見回した。そこはまるで生活感のない空間だった。いや、この部屋だけでなく、玄関からここまでの間に人が暮らしているという気配が感じられない。
静江がすぐに真っ白なポットを手にして戻ってきた。
(白い)
どんなに白さの際立つようなものでも、生活感の中では曇りがちになる。だが、この部屋の壁も、その白いポットもまるで曇り一つ見当たらない。
「どうぞ」
静江はそっとカップを響の前に差し出し、ポットから紅茶を注ぐ。「これはロシア産のジョルジです」
濃く綺麗なオレンジ色。部屋全体に甘い紅茶の香りが広がっていく。
響はカップを手にし、一口すすった。
その響の姿を確認してから静江は口を開いた。
「あなたと藤枝さんのご関係は?」
「知り合いの知り合いと言ったところでしょうか」
「つまりは赤の他人ってことね」
「そういう言い方も出来ますね」
響は笑ってみせた。もともと歓迎されるとは思っていない。彼女の目的は自分ではないのだから当然だ。むしろ、怒りをぶつけられても仕方ない。
だが、静江はそうはしなかった。
「せっかくですから、あなたにお話を聞いてもらいましょうか?」
「話?」
「ええ、私の昔の話です。よろしいでしょうか?」
「聞かせていただきます」
静江はニッコリと微笑んでから話し始めた。
「私の家族は殺されたんです」