第六話・「私か、佳乃か」
校舎の屋上での会話の後、俺は魂を吸い出されてしまったような足取りで家路についた。いつも隣を半歩遅れて歩く佳乃は伴っていない。
何度も確認しているのにもかかわらず、俺は斜め後ろを確認し、佳乃がいないことを知ってため息をつく。後ろから足音が聞こえてくると、ビーチフラッグの選手もびっくりするような速度で背後を振り向き、また嘆息する。そして、家に到着するやいなや、鞄を放り投げて、ベッドにうつぶせに倒れこむ。
シーツの匂いを思いっきり肺に吸い込むと、とたんに眠気が襲ってきた。振り返りすぎて痛む首と、鋭敏化しすぎた聴覚の疲労は、自分が思っていた以上のようだ。
「佳乃……」
俺は顔を枕の中に隠して、情けなくつぶやいた。デパートで迷子になって、母親を呼ぶ子供そのもの。
「幼馴染み……ツンデレ……佳乃……」
名前を呼んで安心する。その名前を聞いただけで、なぜか暖かくなれる。南無阿弥陀仏、と唱えれば極楽浄土にいけるように、俺は佳乃の名前を唱えるだけで、俺はどこか救われていたのかもしれない。
「情けない声出さないでよ。気持ち悪い」
「……佳乃?」
「そうよ、佳乃よ。仁が大好きで大好きで仕方がない佳乃様よ」
腕を組んで、ベッドにうずくまる俺を見下ろしてくる。
「……どっちの意味にも取れるな、今の台詞」
俺が佳乃を好きで仕方がないのか。
佳乃が俺を好きで仕方がないのか。
「ま、両方でしょうね」
臆面もなく言ってのける佳乃。
「そうか……って、佳乃! お前、人が感傷に浸ってるのに勝手に入ってくるなよ!」
屋上でのやり取りがあった直後だからか、いつもよりオーバーなアクションでベッドの上に立つ。腕を組む佳乃に指差し、つばを飛ばして声を荒げる。佳乃は、俺のつばにものすごく嫌な顔をし、そのままこぶしに血管を浮かび上がらせると、問答無用で鉄拳制裁が執行される。ベッドに顔面からめり込むが、スプリングのせいでまたもとの位置に飛び上がる。
「馬鹿! 痛いだろうが!」
「あ、今、馬鹿っていったわね! 関西人にとって馬鹿ってのは結構傷つくのに! せめてアホにしなさいよっ!」
再び下る鉄拳制裁。
だが、俺とて早々いつまでも甘んじて受けるわけではない。うまく体をひねって佳乃の鉄槌を回避する。佳乃はそれを予期していなかったようで、バランスを崩して前のめりに倒れこんでしまう。
「……黙ってぶたれていればいいのに」
佳乃によってベッドに押し倒される態勢となった俺は、必要以上に近づけられた佳乃の瞳に釘付けになる。
佳乃の髪の毛が、重力にしたがって俺のほうに流れ落ちてくる。それはまるで、俺と佳乃だけの空間を演出する緞帳のようで、周囲の景色を遮断していく。
「だ、黙ってぶたれるなんて……俺は、マ、マゾじゃない」
あまりの至近距離に顔面が熱くなるのを感じて下方に視線をそらせば、そこには俺と佳乃の密接した上半身と下半身があった。
年齢に相応しい佳乃の小柄な体。年齢に相応しくない佳乃のたわわな巨峰。それは髪の毛同様に重力に引かれ、凶悪なやわらかさを誇っていた。
俺は視線のやり場に困りに困って、結局は佳乃の瞳に落ち着くのだった。
「なし崩しみたいになったけど……私、こうなればいいって思ってたのよ」
ベッドのスプリングが二人の体重に悲鳴を上げる。そんな音でさえも卑猥に聞こえてしまう俺の煩悩は、きっと百八個では足らないだろう。
けれども、俺はそんな本能的な欲望の渦中にありながらも、かすかに残る理性が佳乃の瞳の中にある焦燥を看破する。
「……な、なんで……そんなに焦ってるんだよ」
佳乃は、急に鼻白むような顔つきになって俺から距離をとる。距離をとるといっても、ほんの二、三センチ程度だ。
「焦ってなんかいないわよ」
「いや、焦ってる」
佳乃の眉間にしわが寄る。形のいい眉はそれに引っ張られるようにVの字に変形した。
「じゃあ、逆に仁は何でそんなに落ち着いていられるのよ」
「落ち着いてなんかいない。胸だってどきどきしてるし、今にも狼になりそうなくらい――」
「誰も止めやしないから、狼になれば?」
佳乃の瞳が揺れる。
「止めやしないって、佳乃、お前……」
「据え膳食わねば男の恥、でしょ?」
主導権が自分に移ったことに満足したのか、怒りはどこかへ消えて、今度は挑発的に微笑む。
これほどまでに蠱惑的な佳乃を誰が想像できるだろうか。
本来の佳乃からはありえないほどの妖艶な潤いをたたえた唇と、その潤いを作り出す朱色の舌。長いまつげは今にも俺の目に付き刺さりそうなほどに反り返っている。それでなくともつぶらな瞳なのに、それはよりいっそう佳乃のまなざしを際立たせる。
「私がいいって言ってるんだから、仁はそれに応えるべきじゃない? 屋上で言ってくれたじゃない。私のことが好きだって」
あれは嘘ではない。
嘘偽りなんかではない、俺の本当の気持ちだった。
……でも、それは。
「仁?」
俺は佳乃の肩を押しやって、自分の燃え上がろうとする欲望の炎に蓋をした。誘惑という酸素を得ることのできなくなった炎は、徐々に力を減退させていく。
「このままの関係でいたかった……なんて言うと、ありふれた物語みたいだけど」
佳乃の肩をつかんだ手に力を込める。
「俺は佳乃が佳乃のじゃないときでも、佳乃が佳乃であるときも、佳乃は佳乃だって、そう思ってた」
佳乃は困惑しているようだった。俺の瞳を覗き込み、必死に真意を探ろうとしている。
「けど、佳乃は佳乃じゃない。二人の佳乃なんだ。……どこかで分かってた。おかしいだろ? 俺さ……佳乃が佳乃でなくなっても、嬉しかったんだ」
格好悪い。
佳乃の肩をつかんだ手が震えている。慣れないことをしているのもあったが、一番に言えるのは、それが借り物の言葉ではないからだ。
アニメや、映画、ドラマの名言ではない、自分だけの言葉。
心を全力で搾りあげて、やっとのことで零れ落ちる一滴。
俺の中で溜め込んできた雫は、やがて大きな水溜りとなり、湖となり――
「幼馴染の佳乃が、ツンデレの佳乃に変わっても嬉しかったし、その逆でも嬉しかったんだ。二人の佳乃が笑ってくれて、その笑顔の違いに心が跳ね上がってさ……。幼馴染の佳乃は、タンポポのように、優しくて柔らかい笑顔で……眉毛が垂れていって、目じりがうっとりするほど可愛いんだ。ツンデレの佳乃は……なかなか笑ってくれないけど、いざ笑ってくれたときは、俺の心臓が爆発しそうなくらいに喜ぶんだ。華やかで、顔面の筋肉を全部使って笑ってくれてさ、太陽のようで……」
――そして、溢れ出す。
「ああ、佳乃はこんな笑い方もできるんだなって、嬉しかったんだ」
佳乃は苦しそうな表情に変わる。先ほどの妖艶さは一過して、今はただ心苦しそうに頬を歪めるだけ。
「だけど、変わらないものなんてないんだよな。いつまでも、その二つの笑顔の真ん中で生きていくことなんて、できないんだよな」
「仁……」
その言葉が零れ落ちると、佳乃は顔を伏せた。
「……できない。仁の言うとおり、いつまでも私たちは一緒にいられないの。佳乃も、仁も、私も」
ベッドのシーツが、佳乃のこぶしの中に巻き込まれていく。
「二人でひとつの体を共有することはできないの。それでは、人は生きていけない。体に存在できる心はひとつだけ。日常生活に齟齬がきたすのは目に見えてる。……いずれはどちらも駄目になるわ」
佳乃の肩が震え、俺の手も震える。
二人の心が震え、言葉も震える。
「もう、二人じゃいられないのよ!」
佳乃がかんしゃくを起こしたように叫んだ。言い換えるとするならば、慟哭。
「だから……ね」
顔をあげた佳乃に涙はなく、そこには作りなれない笑顔が仮面のように張り付いているだけ。
「仁、デートしなさい。これは命令」
肩に置かれた俺の手を乱雑に払い、ベッドから降りて立ち上がる。その粗暴さだけが、ツンデレな佳乃であることを示していた。
「ちょうど明日、明後日は、土日で休みだし」
「二日連続で?」
俺はシーツにつけられたしわを見下ろす。アイロンをかけなければ元に戻らないようなしわ。佳乃の感情の握力が、そこに刻み込まれているような気がした。
「違うわ。一日だけよ」
屋上で見せた儚げな笑顔。
「明日は佳乃と、明後日は私と。二人で一日ずつ」
佳乃のしようとしていることが理解できた気がした。
「それで決めて欲しいの」
その先を言って欲しくないという俺の思いは、もろくも打ち砕かれてしまう。
「私か、佳乃か」
自らの胸に手のひらをあてがう佳乃。自分の心の中で聞いているかもしれない本来の佳乃に言い聞かせているかのようだった。
「まったく同じデートコースで、まったく同じものを食べて、まったく同じ服で……」
それは、ツンデレ佳乃なりのフェア精神なのだろう。
「仁……お願い」
意思とは裏腹に、動こうとしない首の筋肉を無理矢理に動かして、首肯する。
「ありがと。好きよ、仁」
佳乃は慣れないウインクに手間取って、両目をつぶってしまう。そんな自分をかっこ悪く思ったのか、素早くドアの向こうに姿を消す。
「ったく……スタートダッシュかよ……」
ベッドには佳乃の残り香。
一本のきらめくような彼女の髪の毛が、シーツに流線を描いていた。