第五話・「とくとく……とくとく……」
昼休みの終了を告げるチャイムが遠ざかっていく。
晴天の甲子園に響き渡る、試合終了のサイレンのように。入道雲の威容さや、上空に尾を引く飛行機雲が、俺にそんな風景を想像させた。
鹿岡兄妹……特に鹿岡義妹は、ペイント弾で汚れてしまった佳乃の制服を、濡れたハンカチで丹念に拭き取りながら、やはり挑戦的な眼光で俺を見つめていた。
「サボ……るんだよな」
「……うん」
佳乃が俺の小指をわずかな握力で握っている。鹿岡兄妹の背中を追いながら教室に向かおうとした矢先、俺の小指を柔らかな感触が包み込んだ。それが、佳乃の意志。
「初めてなんじゃないか? 佳乃が授業をサボるのは」
佳乃の握力は、強すぎず弱すぎず。振り解こうと思えば容易にふりほどける、微妙な握力。それは、サボタージュが最後の最後で俺の意志にゆだねられているということを意味する。
「見て。廊下に誰もいなくなっちゃった」
「当たり前だろ? みんな授業を受けているんだから」
佳乃が俺の小指を引きながら、屋上から廊下を眺めている。
屋上をぐるりと一周したところで、佳乃は金網に寄りかかった。
「気持ちいい風だね」
風に乗って、グラウンドからホイッスルの音が聞こえてくる。よく見れば鹿岡義妹のクラスだった。午後一で体育とは難儀なものだ。
「この風の匂いや、涼しさ、一度味わった気がするのはなんでかな……?」
ひときわ高らかなホイッスル。クラスを半分に分けての男女混合サッカーのキックオフ。
中央でボールを受け取った鹿岡義妹が、素早くディフェンダーにボールを返し、自らは敵陣に走り込んでいった。
「仁君のために作ってきたお弁当……仁君いつの間にか食べていたよね。でも私……何も食べていないはずなのにお腹一杯なんだ」
「いつもの悪い癖だろ。佳乃はいつもぼーっとしてるから。居眠りしながら食べてると、時間がたつのも早いし、味だってしない。当然記憶にも残らない。でも、満腹感だけは残る。ほら、佳乃の三分クッキング完成だ」
「むぅ……仁君、私のこと馬鹿にしてる」
俺の小指が窮屈になる。むくれた佳乃が握力を強めたのだ。
「私は若年生健忘症じゃないもん」
金網に切り取られたグラウンド。鹿岡義妹はどうやらフォワードのようだった。中央から左翼に開いて、ボールを受け取るスペースを作る。素人とはいえ、オフ・ザ・ボールの動きができているから、いつでもパスを受け取れる状況を作り出している。したがって、ボールをもらう確率も高くなる。
「真奈美ちゃん、生き生きしてるね」
俺の視線をなぞる佳乃。その先には、オフサイドラインぎりぎりでボールを受けた鹿岡義妹がいる。ちょうど屈強な男子生徒に積極的にドリブルを仕掛けるところだった。
対するは、サッカー部期待のホープ木村。
本来はフォワードのポジションだが、お遊びでディフェンダーを買って出ているようだ。
――お兄ちゃんフェイント!
ボールを一度またいでフェイントをかける。素人目に見てもサッカー部相手には引っかからないであろう、明らかに幼稚なフェイントだった。
……だが、なぜか彼は引っかかる。
そして、いとも簡単に体重をかけた方とは逆の方向にボールを通され、鹿岡義妹は体重をかけた方向を駆け抜けた。ボールは右を、鹿岡義妹は左を。それぞれ木村を中間点にして抜き去る。
抜き去った鹿岡義妹は、すぐさまボールと合流し、ゴールに突進していく。
だが、対するディフェンダーはさらに三人。サッカー部ですら、抜き去るには苦難の道程。
――みっきー!
誰もが予期していなかった第三者が、鹿岡義妹のドリブルに介入してきたのだ。
敵か。味方か。
真実は、鹿岡義妹の表情を見れば明らか。言葉よりも先にボールをみっきーに預け、自らはさらに加速していく。
――美樹! みっきー言うな! ……っと、真奈美!
ダイレクトで鹿岡義妹にボールを返却する。一瞬のうちにワンツーパスの完成。
俺も佳乃も、そんな女の子二人の妙技に釘付けだった。
――みっきーはみっきーだよ! これは決定事項なのっ!
言葉のやりとりほど、鹿岡義妹のプレーは生易しくはない。ゴールキーパーと一対一になった刹那、飛び出してきたゴールキーパーをあざ笑うかのように背中を向ける。
――真奈美必殺っ!
右足で止めたボール。体を回転させつつ、すぐさま左足の裏でボールを転がす。ゴールキーパーからボールを隠すように鹿岡義妹は回転し、何もなかったかのようにドリブル再開。
「あ、あれは!」
スピードを殺さず、なおかつゴールキーパーを幻惑する回転演舞。
「ロシアンルーレットだね!」
「マルセイユルーレットです!」
思わず声を荒げた俺と時を同じくして、鹿岡義妹を追いかけるゴールキーパー。だが、時すでに遅し。鹿岡義妹は、軽く蹴り込んで先制点。紫電一閃とはこのことか。
――みっきー見た? 真奈美のお兄ちゃんルーレット!
――はいはい、相変わらずお兄ちゃんを冠につけると切れ味抜群ね。
――お兄ちゃんは世界一だから、そのお兄ちゃんを好きな真奈美も世界一なのっ!
――よく分からないけど……ナイスシュート!
――みっきーもね!
――だから美樹だってば!
アシストしたみっきーと鹿岡義妹がハイタッチしている。
「真奈美ちゃ〜ん! かっこいいよー!」
「馬鹿!」
スタジアムで応援していると勘違いしたのか、佳乃が大声で声援をおくってしまう。両手を大きく振る最悪のおまけ付き。俺たちはサボっているのだ。見つかれば、ただでは済まされない。
「……見つかったか?」
俺は佳乃の頭を抱え込んで、地面にうつぶせになって隠れる。グラウンドの体育教師まで聞こえないと分かっていても、息を殺し、身を潜める。
数秒後、試合再開のホイッスルが鳴ったので、俺は安心して息を吐く。
「まったく、浅はかすぎるぞ、佳乃」
咄嗟にコンクリートにうつぶせになってしまったが、俺は佳乃をかばうようにして地面に伏せたから、佳乃に怪我はないはずだ。
「……ごめんなさい、仁君」
佳乃は俺の腕の中で縮こまっている。
「よし、反省しているようだから許す」
「うん……」
時間をかけて、佳乃の腕が俺の背中に回る。
「私が忘れないうちに、仁君を覚えておくね。仁君の暖かさとか、たくましさとか、いっぱい……」
佳乃の声が、押しつけられる胸の谷間から聞こえてくるようだ。俺の視線は行き場を失い、遠くに広がる閑静な住宅街に漂う。
「どきどきするよ。信じられないくらいどきどきしてる。仁君もどきどきする? 私に抱きしめられてどきどきしてる? 心臓がとくとくしてる?」
高校生とは思えないくらい幼稚な会話。
「ああ……どきどき、する」
俺の返答を確認するように、佳乃が俺の心臓に耳を押し当てる。
「ほんとだ。……とくとく……とくとく……この音を聞くと安心する。仁君の音楽だね。仁君の、人生の音色……」
目を閉じて、俺の心音に没頭する佳乃。長いまつげの一本一本が美しい。
「仁君の生に一番近い場所に、私はいるんだね」
自分の心臓が、本当は自分のものではない。見知らぬ誰かの犠牲の下に生かされている。十年という歳月、佳乃はその感情とともに過ごしてきた。それゆえ、佳乃は人一倍、生に執着するきらいがある。
罪悪感と、安堵感。
生きていてごめんなさい。
生きることができてよかった。
昔とは違って明るさを取り戻した佳乃であっても、その思念は佳乃の心底に根付いている。
「とくとく……とくとく……」
言葉を覚えたばかりの赤ん坊のように佳乃が繰り返す。俺の鼓動を丁寧にトレースしていく。
「仁君」
午後の風にそよいでいく二人の髪の毛。体は急速に火照り、覚醒した耳は、音を際限なく吸い込んでいく。俺は、佳乃の上唇と下唇が離れる音でさえも、聞いたような気がした。
「……キス」
佳乃がとんでもないことを口走る。
「仁君のキスが欲しいよ……」
切なそうに俺を見上げる。媚びるような目。
「私が生きていてもいいって……仁君を動機付けにしたいから」
佳乃が幼馴染みであること。それは当たり前のようで、実はとても重要で。俺が佳乃の幼馴染みえあることすら、佳乃は生きる理由にしていて。
「佳乃……俺も」
俺にかいがいしく、そして従順で、世話を焼いてくれる。それは佳乃元来の優しさや、好意だけではなくて。
――俺が佳乃に依存しているのと同じぐらい、佳乃は俺に依存しているから。
俺の心が振り子のように振れ続ける中、キスをねだる佳乃の顔が、突然切迫したものに変わる。
「胸が……痛い」
「佳乃?」
制服の上から苦しそうに左胸を押さえる。
「おかしいよ……私の胸のどきどき、変だよ……」
佳乃の左手が心臓を押さえ、右手は俺の制服を握りしめる。
「このどきどき、違うよ……幸せなどきどきのはずなのに、なんでこんなに苦しいの……?」
困惑し、瞳が揺れる。
「私じゃないみたいに、心臓が走り回る感覚……私は私なのに……」
俺は佳乃を力強く抱きしめた。佳乃が苦しんでも構わない。力を、思いに変えたかったから。言葉よりも早く、強く佳乃に伝えたかったから。
「仁君、助けて……? 私、仁君のこと好き、ずっとずっと好き。今までも、これからもだよ」
自分自身に問いかけ、確かめるように、佳乃は復唱する。
「仁君が好きなの。なのに、どうして? 誰かを片思いするかのように、苦しくなるんだろう……切なくなるんだろう……?」
人は、自分の体が自分の思い通りに動くことに慣れすぎている。当たり前だと思いすぎている。だから、いざ身体が自分のいうことを聞かなくなるとひどく狼狽する。どうということはない。それは当たり前のこと。
「聞いて? 私は仁君が好き。好きなの。忘れないで」
佳乃は自分がもう一人の自分に入れ替わることを知らない。それが、佳乃をより不安にさせる。
目が覚めると、そこは自分の知らない場所。まるで映画の最中に居眠りをしたかのように、起承転結が判然としない。だから、繰り返し好きと言い、記憶にとどめようとする。この先いつ、もう一人の佳乃と入れ替わってもいいように。
「なのに、こんなに胸が痛い……。こんなの私のどきどきじゃないよ!」
それきり、佳乃は俺の胸の中で沈黙する。
すすり泣くわけでもなく、弱音を漏らすでもなく、ただ静寂を守った。
薄れた時間の感覚を呼び覚ますように、ホイッスルがグラウンドに響き渡る。それは試合終了の合図。
「佳乃、落ち着いたのか?」
授業もそろそろ終わる。休み時間になれば、屋上に生徒が来るだろう。授業をサボって男女触れ合っていたことが知れれば大問題だ。
「佳乃?」
「……う……ん……」
手探りで俺の唇を探し当て、震える口唇を俺のそれにあてがう。前歯がぶつかった少し痛い交接。
……それは明らかにキスだった。
響くチャイムの音。
授業の終わりと、キスの終わりを同時に告げるリズム。
佳乃はそそくさと俺の胸の中から抜け出して背中を向ける。恥ずかしがっているのか、それともまだ胸が痛むのか、佳乃はこちらを振り向こうとはしない。俺は佳乃の背中を見ながら、制服についた汚れを払い、廊下を走り回る生徒の喧噪を耳にする。
「まだ、胸のどきどきが収まらない……」
佳乃は腰に手を当てて、俺を振り向く。
「危うく、佳乃に先を越されるところだったわ」
胸、心臓の位置を押さえる佳乃は強気に笑った。尋常ではない汗の量と、すり切れるような喘鳴。加えて、小刻みに震える足は、死闘を繰り広げた兵士のようだ。
「負けられないのよ。私も、あの子も」
俺は、宣戦布告と言ったもう一人の佳乃を思い出す。
「生きて、仁と添い遂げたい。それだけが、私とあの子の共通の願いであり、譲れない想い」
目の前にいる一人の幼馴染みが、左手で胸を押さえて存在を主張する。
「それこそが、ずっと変わらない二人の気持ちよ」
一人の幼馴染みに、奇跡的に宿った二つの魂。
共有する身体、そして佳乃の中心で震える心臓。
その臓器が冠する文字の意味を、今更に思い知る。
――心。
「……ずっと、今までのような関係だったらよかったのに」
心の琴線を爪弾く声。
俺は、それが二人の意志として感じられて仕方がなかった。
「一つだけ言わせてくれ!」
屋上から去ろうとする佳乃の背中を呼び止める。
まっすぐに伸びた背中。小さな頃からずっと一緒だった佳乃の背中。俺の後ろをついて回るだけだった佳乃の背中。その直立した背中が、ことのほか大きく見える。
……佳乃は、いつの間にか大人になっていたのだ。心も、身体も。
俺が気づかないだけで、時は二人を容赦なく成長させていた。
「俺は、佳乃が好きだ」
なのに俺は、心だけは子供だった。何も分かっていない。ただの萌え好きなオタク。現実を受け止める懐の深さもない、浅はかな人間。
「知ってるわよ、そんなこと」
佳乃は、儚く微笑んだ。