第四話・「一撃でしとめます!」
鹿岡兄妹を交えた昼食は、和やかに過ぎていく。
「お姉様! はいっ、あ〜んしてください♪」
「真奈美ちゃん恥ずかしいよ。ほら、仁君たちも見てるし……」
体を必要以上に寄せ合い、半ばもつれ合うようにして、佳乃の口元にミートボールを持って行く鹿岡義妹。
「もう、真奈美ちゃん、強引だよぅ……んん、んっ……!」
鹿岡義妹は佳乃の言葉を聞きもせずに、無理矢理ミートボールを口に押し込んだ。
「ミートボールに付いていたソースが、佳乃の口元を汚す。それは、べたべたとして、禁忌を犯す液体のように思えた。その一方で頬は桃色に染まり……」
「仁のその独白はどうかと思うな」
ぼそりと鹿岡兄。
「こ、声に出てたのか?」
「思いっきりね」
「いかん、重傷かも……」
頭を抱える俺の目の前で繰り広げられる、女の子二人の絡み合い。今度は、頬についてしまったソースを鹿岡義妹が舌で舐めとろうとしていた。
「こら、真奈美! 夕凪さんが困ってるじゃない。それぐらいにしないと僕も怒るよ」
「むむぅ、レフェリーストップです。これからがお姉様との良いところなのに」
先輩である佳乃を押し倒そうとするその度胸は、もはや年下の枠に収まっていない。名残惜しそうに佳乃から離れた鹿岡義妹と目が合うと、やはり不敵な笑みを浮かべる。
むむ、胸の奥にくすぶるものがあるぞ。
「ごめんね、夕凪さん、うちの馬鹿義妹が……」
「馬鹿っ!? 今、お兄ちゃん、真奈美のこと馬鹿って言った!」
瞳を一瞬にして透明な膜で覆う。
「そこまでひどくないですよ、真奈美ちゃんは」
「お姉様、そこは否定するところです!」
「……ぷぷっ……」
俺がこぼした笑いに、鹿岡義妹の眼光が鋭くなる。メデューサもかくやという眼光に、俺は石化する。
浮かべた涙はどこへいったんだ、鹿岡義妹。
「もう、お兄ちゃんたら。嫉妬しなくても真奈美はお兄ちゃんのものだよっ!」
「真奈美、それは間違っているよ。真奈美は誰のものでもない、真奈美は真奈美自身のものなんだ」
……今のは何気ないが、名台詞ではないだろうか。
そんな兄の言葉に耳を貸さず、用意してきた弁当箱から唐揚げを取り上げて、鹿岡兄の口元へ。
「はい、お兄ちゃん♪ あ〜ん、して♪」
「う……僕にだって、プライドが……」
俺たち二人の手前、何とか一連の萌え行為から逃れようとする鹿岡兄。
「佳乃、良い天気だな」
「そ、そうだね、仁君」
「二人で不自然に目を反らさないで!」
「ほらほら、お兄ちゃん、真奈美の愛を受け取って♪」
何だろう、悔しくもないのに涙が出そうだ。
見つめた青空の下では、トビが気持ちよさそうに旋回していた。
「仁君」
「……なんだ、佳乃。今俺はどうしようもなく黄昏れたいんだ」
腹の奥にわだかまる気持ちを押し込んで、何とかそれだけを伝える。
「はい、あ〜ん」
佳乃が玉子焼きを俺に差し出す。口内に放り込むと、俺に適用された最高の甘さがほっぺたをとろけさせる。絶妙な半熟具合。冷めてもなお、美味という情報が俺の中枢神経を独占する。学食や購買の食事なんて足下にも及ばない。俺にとってデフォルトがこの味だ。俺が美味しいと感じる一定値はもはや飛び抜けて高くなりつつある。嬉しいような、悲しいような。でも、学校生活が続く限りこの卵焼きは食べられるわけで。いやいや、卒業してからも、就職してからも、老後だって……じゅるじゅるり。おっと、心がよだれでべとべとだぜ。
俺は拳を握りしめ、感涙にむせぶ。
「佳乃、俺は史上最高の果報者だぞ!」
「仁君、大げさだよー」
恥ずかしそうに頬を染める佳乃。両手を頬に当てていやいやと顔を振る。俺はそんな佳乃の愛らしい姿を眺めながら、口を大きく開けて佳乃の玉子焼きを口に入れ続ける。
「うん、やっぱり佳乃の玉子焼きは世界一だ」
舌の上でとろけて、芳醇な後味が口内に浸透していく。どこか心までも暖かくしてくれるようだった。
「仁君……嬉しいな」
佳乃の輝くような笑顔。
「すごく不思議……」
「ん? どうした?」
「仁君が美味しいって言ってくれる度に、嬉しいって気持ちが、胸の奥からどんどん溢れてくるの。きっと……史上最高の果報者なのは、仁君に美味しいと言ってもらえる私なんだよ。だから、仁君は史上二番目の果報者」
極上の笑顔。俺は沸騰した顔をごまかすように卵焼きを口内に放り込む。
「もぐもぐ……でも、まぁ、二番に甘んじてやらないわけでもないぞ」
俺は佳乃の頭を優しく撫でてやる。さらさらと、絹のようななめらかさをもった髪の毛が、俺の手の下でくしゃっとなる。
「仁君、くすぐったい……」
佳乃は嫌がる素振りを見せずに俺にされるがまま。
「でも、気持ちいいよ……もっとしてほしい、かも」
……幸せの反動なのだろうか。佳乃が俺に尽くしてくれる心遣いが分かるから、逆に俺は心苦しくなるときがある。佳乃の純粋な奉仕に、俺は応えるすべをもっているのだろうか、と。佳乃がしてくれるものを一方的に受け取り続けている。申し訳なさと、情けなさの板挟みにあいながら、俺は佳乃が喜んでくれるならと、せめてもの感謝をもって頭を撫で続けてやる。
「仁君に撫でられるのって、大好き」
今度は佳乃の髪の毛をすくようにする。佳乃は陶然としたまま、目をつぶる。キスをねだる恋人のように思えてしまうのは、きっと俺のうぬぼれだ。
佳乃の髪の毛の感触を味わい続けながら、俺は愛しさを感じていく。世界でただ一人の幼馴染みに。
「……お兄ちゃん。どうぞ」
「何? 真奈美、どうぞ」
「真奈美は我慢なりません。撃ちます。どうぞ」
「真奈美、そのM82A1スナイパーライフルはどこから持ってきたの? どうぞ」
「もはや、お姉様と真奈美の間に無用な説明はいらないのです。どうぞ」
「真奈美、50口径弾の人体への射撃は威力的に非人道的だよ。どうぞ」
「落ち着いて狙えば大丈夫。真奈美は石。真奈美は石なんです……!」
「――って、鹿岡兄妹、何をやってるんだ?」
ランチマットの上で腹ばいになっている鹿岡義妹に話しかける。
「お兄ちゃん! 目標に気づかれましたっ!」
スコープをのぞいたまま、鹿岡義妹が叫ぶ。話しかけた先の鹿岡兄は、黙々と弁当を口に運んでいた。何とも、対極な光景。
それにしても、そんな大がかりな狙撃銃を、女の子が撃てるのだろうか。蛇足だが、二千メートル先の装甲車を撃破したという伝説をもつ、アンチマテリアルライフル(対物銃)だぞ。
「一撃でしとめます!」
それだけ俺が憎いってことなのかっ!?
鹿岡義妹が引き金を絞るのが視認できた。
轟く銃声。
「真奈美ちゃん、駄目!」
佳乃が俺の前に飛び出す。
「お姉様!」
「佳乃!」
放たれた凶弾。
残酷な一閃は、佳乃の胸に到達する。
ゆっくりと、スローモーションのように佳乃の体が傾いていった。俺はそれを腕の中に受けとめて、佳乃のはかない笑顔を瞳にうつす。
「真奈美は、真奈美は……取り返しのつかないことをしてしまったのですっ……! 愛するお姉様を……っ!」
鹿岡義妹の絶望が屋上に漂う。
「仁君、泣かないで」
「泣いてなんかない、泣いてなんかいないさ!」
下手な笑顔をつくろって佳乃に届ける。
「じゃ、これは何……?」
俺はペイント弾で真っ赤になった佳乃の制服を見て、歯ぎしりする。
助からない(服が)。そう分かってしまったから。
残りわずかな命の灯火を輝かせるように、佳乃が俺の頬に手を添える。
「これは……心の汗さ……!」
俺の涙が、佳乃の制服に染み込んでいく。やがて佳乃はゆっくりと瞳を閉じ――
「真奈美、今日の弁当は少し味が濃すぎたんじゃないかな。梅おにぎりも妙に塩っ辛いし」
次元の違う会話が聞こえてきた。
「だってぇ、朝、お兄ちゃんが急がせるんだもんっ!」
「朝は真奈美が勝手にしたことじゃないか! ……あ、思い出した……教室に戻るのが憂鬱だよ」
「そんな、お兄ちゃんったらぁ、真奈美と離れたくないだなんてっ♪」
「そんなこと言ってないよ! 憂鬱なのはレスリング部の田中のことで!」
「いやん♪ えっち! お兄ちゃんたら、つっこむふりして真奈美の胸を♪」
「触ってないから! それにそんな感触があったことすら気がつかなかったし!」
「な……っ! お兄ちゃん!」
何だろう、この沸々とわき上がってくる感情は。
「仁君、ペイント弾で汚れた制服どうしよう? 真っ赤に染まっちゃって、きっと助からないよ」
佳乃の声も、どこか衛星中継のように遅れて聞こえてくる。
「真奈美はまな板じゃない!」
「うわっ! 危ないだろ! ライフルといい、釘バットといい、一体どこから……!」
乱闘騒ぎを起こす鹿岡兄妹。釘バットの犠牲になった弁当箱から、梅干しの種が弧を描く。それは俺の頭に飛来した。梅干しの種が俺の頭にぶつかって落ちる。
「あ、仁君がキレた」
「誰かつっこめよおおおおおおっ!」