エピローグ・「再生への産声」
思い返せば……と言うか、思い返すほど長い年月を生きてきたわけではないけれど、ふと思い出せば、そこには色々な人とのつながりがあったように思う。
絆……なんて言葉で言うと格好良いように聞こえるけれど、俺にはその言葉が一番しっくり来る。
自動車事故にあった人間の部屋に大勢で押し寄せて、包帯でぐるぐる巻きにされている――つまりは絶対安静、面会謝絶されるぐらいに大怪我だった――にもかかわらずクラスメイト全員で病室に押し寄せたばかりか、目を覚ました俺を全員で胴上げするものだから、俺の意識は再び暗闇の中に落ちそうになった。
ペナントレースでリーグ優勝を果たした指揮官みたいな感覚。ただ一つ違っていたのは、それはそれは怪我の痛みがすさまじかったということぐらいだ。
とりあえず、しばらくは入院を余儀なくされ、今は松葉杖をついてやっと自由に病院内を散策できるくらいにはなった。うずくような痛みが忘れた頃にやってくるので、退院はもう少し先だろうというのが俺の読みだ。
「早く学校に行きたいよ」
病院の廊下を必死になって歩きながら、枝から枝へと渡っていく小鳥に目で追う。
松葉杖で歩くのがこんなにも大変な作業だとは思わなかった。
入院後しばらくして松葉杖で歩く練習が始まった。松葉杖なんて……そう馬鹿にしたのがそもそもの間違いだった。練習などせずとも大丈夫だと高をくくっていたら、バランスを崩して転んでしまった。
激しい痛みにもんどり打った。
当たり前のように歩けていたのに、いざそれができなくなる。
目の前が暗転する。本当、愕然、ってこういう状態をいうんだろうな。
それでも、あきらめないで練習すれば、大抵はなんとかなるものだ。
人間、努力と悪あがきだけは忘れてはいけない。格好悪いことを恥ずかしがらない。
胸の大きな看護士さんがそう言っていたっけ。
噂をすれば何とやら。車いすを押している噂の看護士さんとすれ違う。すれ違いざまに彼女は俺に笑いかけてくれた。俺もそつなく笑い返す。そんな看護士さんの背筋の伸びた背中を横目に、俺は病院の廊下を亀のように遅々として進み始める。
……そうそう、同じ病院に運び込まれていたウメが先に退院して、俺のところにお見舞いにやってきたことがあった。
ウメは相変わらず無愛想だったけれども、それはそれで彼女らしかった。
あれは、太陽も山に引き寄せられて、顔を半分ほど隠してしまった頃。
病室に差し込んでくる橙色の光線に、花瓶に飾られた名も知らぬ花が悲しげに首をもたげてしまう頃。
花瓶に反射する光の向こうに、空を滑る夕焼けの雲がある。
故人曰く、過去の思い出に引っ張られそうになる時間帯。
突然響いたノックに、俺は反射的に、どうぞ、と言っていた。
「元気?」
ミイラ男のようになっている俺を見た開口一番だ。
「この状態を見てそれを言いますか」
「そ、ならよかった。じゃあね」
病室に入って一歩。その場で回れ右。
「お、おい! 一体何しに来たんだよっ!」
思わず身を乗り出しかけた体に痛みが走った。痛みが俺をベッドに押しつける。
抵抗力のない俺は、力なくベッドに身を預けるしかなかった。
「お見舞い」
肩越しにつぶやくウメには相変わらず感情の色というものがなかった。
雨の中で交わした会話の数々や、奇跡のような微笑みは一体どこへやら。
あの光景が、夢の中の出来事ではないかとさえ思えてしまう。
「そ、その……せっかく来たんだからすこしだけ話に付き合ってくれても、罰は当たらないと思うぞ」
正直、病室というものは暇で暇で仕方がない。
常に受け身な態勢でしかいられないから、娯楽には不向きなのだ。
娯楽というものは、自分から楽しもうという姿勢があってこそ初めて楽しく思える。身動きすらまともにとれない状態でできる娯楽といえば、本を読むか、携帯ゲームにでも興じるか、誰かと話すかぐらいだ。
活字に読み疲れ、ゲームのやり過ぎで目にも負担がかかってきた頃合いで、ウメの登場はものすごくありがたい。
最近では学校やら、部活やらで忙しく、なかなか見舞いにも来られないクラスメイトに、これ以上わがままを言うわけにもいかなくなってきた。
当然、訪問者も――ある一名をのぞいて――なかなか現れず、病室では閑古鳥が鳴いていた。
誰かと話すことに飢えてしまっている俺がいるというわけだ。
「分かった」
ウメは回転扉のように振り向くとわずかにうなずいて見せた。
「元気?」
「まだ言うか……」
ベッドの隣に置いてあるいすに腰掛けて、ウメは俺を見下ろす。
「元気?」
「だから、元気だったらここにはいないっての」
「元気?」
「あのな……」
英語の授業で先生に、リピートアフタミー、とでも言われているような気分だ。
「元気?」
「ウメ、俺はな……」
俺の瞳をじっと見つめていたウメに気が付く。
「元気?」
「……。げ……元気……じゃないかもしれない」
ぽつりと本音を漏らしてしまう。
そんな俺に、ウメは満足げに少しだけ頬の筋肉をゆるめたようだった。
はたから見れば変化のないその表情にもずいぶんと慣れてしまった。
少しだけ現れる変化の兆候を読み取るのも、今ではだいぶ上達した。
「……ウメは? 元気か?」
「寂しい」
「寂しい?」
無表情でつぶやくウメにおうむ返し。
「夏目がいないのは寂しい」
「……そっか」
夕闇がそうさせたのだろうか。
それから十分以上も無言を貫き通した俺とウメ。病室の光量だけが徐々に減少し、ウメの表情もかげり出す。言葉で何かが変わるレベルのものではないことは分かっていた。
沈黙が美徳であるのは日本文化だけと言われているが、今このときだけはそれが美徳でも何でもないと心底思ってしまえる。
一瞬で憂鬱を消し去ってしまえるだけの言葉を、俺は持っていない。
果たしてそんな言葉があるのか。
……きっと、ないだろう。
言葉でひとくくりにしてしまうのは、あまりにも身勝手すぎる。
「それじゃ」
ウメが音もなく立ち上がる。
「あ、ああ」
「……忘れてた。これ、返す」
立ち上がってから気が付いたのか、ウメがバッグの中をごそごそとあさり始めた。
「佐々木の」
取り出したのは、俺が公園で杏里に渡した財布だった。
俺とウメを見たショックで杏里が地面に落とし、直後、俺は公園から飛び出した。それっきり行方不明……と言うか、存在そのものをすっかり忘れていた財布だった。
中身もほとんど入っていなかったから、思い出そうともしなかった。
「ウメが持っていたのか」
「そう」
「でも、なんで?」
「落とし物は届ける。常識」
「……そっか」
自然とうつむいてしまった。
何かを期待してしまったのだろう。俺の心が残念がっている。
自分のことを他人面して言えることではないが、自身、訳の分からない期待をしていたようだ。
「じゃ」
統率された兵士のように背中を向けるウメ。
「……佐々木のおかげで、佳乃に恩返しできた」
背を向け、ノブを握ったままで小さくつぶやく。
「財布、佐々木の匂いがした。心がシンクロして、佳乃と佐々木をつないだ。佳乃が佐々木の命をつなぎとめた」
ウメが唇を噛んでいるように見えた。
「………………少しだけ、うらやましかった」
「うらやましい?」
「うん、うらやましかった……かも知れないだろうと多分思う」
「……ど、どれだけ推定にするんだよ」
そう言ってドアの向こうに消えたウメの姿と、遠ざかっていく足音。
音楽を流してもいないのに、病室に哀調を響かせる。それはまるで悲しみのワルツを踊るかのように耳に残った。
「さて……そろそろ、行くか」
頭を振って回想を終了する。
松葉杖で病院を歩き回ると、杏里がうるさいからな。
――先輩先輩先輩! 先輩は病人なのです! 安静にしていないといけないのです!
水を交換するために持ってきた花瓶をぶんぶんと振り回す。
鼻先をかすめていく花瓶に一抹の悪寒を感じながらも、俺はすごすごと病室に引き下がっていく。もしこれが夫婦のやりとりならば、俺はきっと尻に敷かれているに違いない。……いや、もちろん夫婦ではないから、尻に敷かれることはない。
ま、Mな杏里に限ってそんなことはあり得ないけどな。
「たまには――こっちから帰ってみるか」
自分の病室からは遠回りになっているのを承知で、別ルートに歩を進めてみた。まるで何かに引き寄せられるように、俺は松葉杖を動かし続けていた。
いつの間にか。気が付けば。今の俺にはそんな言葉がふさわしい。
我ながら不思議なくらいだ。逃げる少女の背中を追いかけるように、進む必要のない廊下を夢中になって歩き続け、登る必要のない階段を額に汗浮かべながら必死に登っていた。
絶望の学校で二人手を繋いで、上へ上へと逃げ続けた。
屋上への扉が開かなくて、やっとの思いでこじ開けた。
俺の記憶の中で溢れる二人の息づかい。
階段を駆け上がる足音。揺れる視界。
躍動する筋肉。彼女の呼ぶ声。
足の痛みも忘れて、屋上へと続く扉を開けはなつ。
「これは……」
額を流れ、シャツに染み込む汗など気にもとめずに、俺は視界を埋める白を見つめていた。
たくさんの物干し竿に干された、たくさんの真っ白なシーツ。整列するように屋上のスペースを埋め尽くしている。屋上を吹き抜けていく風に揺られてはためいている白、白、そして白。シーツから漂う太陽の匂いや、風を受けて国旗のようにはためくシーツの音。思わず顔を背けてしまうほどに輝く白さを誇り、頬ずりしてしまいそうになる肌触りが、俺の体をくすぐる。見渡す限りに純白で、その隙間からのぞく突き抜けるような青空。吹いてくる風の涼しさに、酷使した体が冷やされ、思わず大きく息を吸い込んだ。
何か心を洗い流していくような光景だった。
爽やかな風が俺の体の中にまで入り込んで、停滞していた空気を吹き飛ばしてくれるような。真っ白に洗い上げられたシーツが、俺の肌にまとわりつく暗い色を払拭してくれるような。それら全ての心地よさは、まるで生まれたての赤ん坊の純粋さに戻してくれるような救いさえ感じられた。
俺は真っ白なシーツの真ん中をゆっくりと進んでいく。
気持ちがいい。なんでだろう、本当に気持ちがいい。
太陽が輝き、雲一つない青空がある。鳥のさえずりがどこからか聞こえ、真っ白なシーツがひるがえる。まるで、いつか見た地平線に囲まれた大平原のような気持ちよさだ。
転落防止の金網の前まできて、俺は空を見上げた。
最後の二日間も、雨の日の事故も、全てが幻であったかのような青さ。
屋上から見える町の俯瞰図は、常時スモッグに覆われているにしてはどこか驚くように綺麗で、遠くに見える観光名所のタワーまでも綺麗に見ることができた。首輪を付けられたようにデパートから逃げられないでいるアドバルーンや、ビルの谷間をすいすいと縫っていく飛行船の輪郭が、驚くほどくっきりと見て取れた。
俺が生まれ育った町。
佳乃と出会った町。
……不意に心が痛むのが分かった。
まだ、佳乃は俺の心の中にいる。幼い頃からずっと一緒にいた幼馴染み。
佳乃が言わんとしたことは分かる。理解できる。
佳乃らしい言葉で、優しくさとしてくれた。
――また会える。また、きっと会える。
そう思ってはみるが、本当にまた会える保証なんてどこにもない。けれど、俺はたとえそれが嘘でも信じていたかった。他の誰でもない佳乃の言葉だから。俺に嘘を言ったことのない佳乃の言葉だから。
俺は馬鹿みたいに信じるんだ。
ちくちくと痛む胸に手を置きながら、俺は佳乃と再会できるまでの長さに歯ぎしりする。俺はそれまでずっと苦しみ続けるのだろうか。クラスメイト達に迷惑をかけ続けるのだろうか。佳乃がいた頃の、あの明るかった教室に溶け込むことができるのだろうか。
不安はいくつもある。細かい不安をあげればきりがない。
何よりも俺は、佳乃が好きだ。
理屈じゃないんだと思う。
佳乃をこのまま愛し続けていく純愛も悪くないんじゃないかと思う。手に触れることのできない佳乃を愛して、一生を終える。後世にまでたたえられるほどの純愛ではないか。でも、それは佳乃が望んでいたことではないのかもしれない……。
目頭が熱くなるのを感じて、俺は瞳を閉じた。
「俺は……佳乃、お前が……」
一陣の風が屋上を駆け抜ける。
「先輩っ」
背後から声がして振り返れば、そこには杏里がにこにこしながら立っている。後ろ手に手を組んで、純白のシーツを背にする。シーツが輝きながらはためくから、その光を受けた杏里の笑顔がいつもより数段まぶしい。
「あ、ああ……悪い。病室戻るな」
何もなかったように笑顔を作ると、松葉杖を使って方向転換しようとする。町に別れを告げることもせずに、屋上の出口に一歩踏み出す。
「先輩……叫びましょう?」
屋上に転がっている砂利を踏みしめたところで、杏里から聞き慣れない言葉を聞いた。
「叫ぶんですっ! 先輩っ!」
シーツがはためく。白が視界を覆う。
「知りませんか? 青空は全てを呑み込んでくれるのですよ。だから、心にあるもの全てをはき出してもへっちゃらなのです」
叫ぶ。
杏里の言葉に胸がざわめく。
絶望ではない。
愛でもない。
その二つを一緒くたにした言葉では表現できない感情が、俺の体中から出たがっている。
「杏里がお手本を見せるのです」
杏里が俺の横を通り過ぎて、転落防止の金網に指を通す。
屋上に溢れる爽やかな空気を肺にめいっぱいにため込むと、声に変換。
世界を覆う青空の下、青空に向かって、青空の中で声を爆発させた。
「先輩の馬鹿――!」
シーツの間を風が通りすぎていく。
「先輩の優柔不断――!」
風が杏里の言葉を受け入れるように、杏里の声を運んでいく。
白い洗いたてのシーツの間、俺達の町、飛行機雲。
その全てに杏里の声を届けようとするかのように。
「でも――」
足を踏ん張って、金網を力強く握りしめて。
「杏里はそんな先輩が――」
肺に空気を送り込で、腕を伸ばして、まるで山の頂上から人々が快哉を叫ぶように。
「好きなのです――!」
杏里は世界に声を届けていく。
「ほらっ! 先輩もっ!」
杏里が笑顔で振り返る。その言葉に俺は胸が大きく高鳴った。
胸を突き破らんばかりに、心臓が肋骨を叩いた。
どくん。
俺を内側からたきつけるかのよう。
青空が近付いてくる。シーツの白さが俺の思考を奪う。無心の中で、俺は体が震え出す。
視界が明滅し、心が破裂しそうになる。胸の奥でため込んでいたものが、繋がれていた鎖や足かせを引きちぎって、駆け上がってくる。
抑えきれない衝動が、俺の手から松葉杖を取り落とさせる。
「俺は……俺は……っ」
屋上に響く、松葉杖の転がる音。
俺は包帯の巻かれた足で、走るように、もつれるように金網に取り付き。
「俺は――」
そして。
「佳乃が好きだ――!」
叫ぶ。
「佳乃が好きなんだ――!」
空よ、受け止められるものなら、受け止めてみろ。
そんな挑戦をしたわけではないが、俺は生まれて初めて本当の叫ぶという行為をしたように思える。
人はいつから叫ぶことをしなくなったのだろう。
気持ちをあからさまにぶつけることをしなくなったのだろう。
人は大人になればなるほど、叫ぶことをしなくなる。わがままな想いを、生の想いを、生まれた瞬間の言葉そのままに、衝動的にぶちまけることをしなくなる。
格好悪いから。社会的におかしいと思えるから。人から変な目で見られるから。
そんな制約が、大人になるに従って増えていく。
叫びたくても、叫べない。
そんな抑圧の日々の連続。本当は誰しも我慢していることや、打ち明けたいこと、不平不満から、愛の告白まで必ず持っているはずなのに。
「佳乃が好きだ――!」
屋上で俺は叫んでいる。
シーツのはためきも、風の音も、何も聞こえない。自分の声で耳がふさがれてしまう。
「………………先輩、頑張るのです」
だから、そんな杏里の声も耳には届かず、俺は気持ちを振り絞る。
持てる心を全て解き放つ。
力の限り、息が続く限り、喉が張り裂けない限り、叫び続けるのだ。
足の痛みなんか関係ない、格好悪いのも関係ない。
今はただ叫びたいんだ。
全てを叫びに変換してしまいたいんだ。
俺は自由だけれども、生きにくい世の中に生きている。
辛いことだってたくさんある、悲しいことだってたくさんある。これからも、それらをいくつも経験するのだろう。
挫折したり、泥まみれになったり、傷ついたり、起き上がれなくなったりするだろう。
それでも、俺は生きていくのだろう。
生きていかなければならないのだろう。
「佐々木仁は――」
たくさん学んで、たくさん経験して、たくさん間違って、たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん、たくさん、本当にたくさん……脳みそというハードディスクがクラッシュしてしまいそうになるまで、たくさん詰め込まなくてはいけないから。
だから、どんな困難が待っていても、どんな壁が立ちはだかろうとも俺は生きていくよ。
必ず、生き抜いてみせるよ。
いつか絶対、お前にたくさんの思い出話を聞かせてやりたいから。
「夕凪佳乃を――」
分かった。やっと分かったんだ、佳乃。
「愛していました――!」
現在進行形から、過去形へ。
胸を突かれるような心痛を乗り越えて、今、叫ぶ。
「夕凪佳乃が――」
今ではないけど、今すぐにとはいかないかもしれないけど、俺は佳乃ではない誰かを好きになるかもしれない。
好きになってもいいのかもしれない。
佳乃との数え切れない思い出を胸に秘めて、心の片隅にしまって、佳乃ではない誰かを受け入れてもいいのかもしれない。
過去にする、なんて言葉で表現すると少し乱暴に聞こえてしまうかもしれないけど、俺は今を生きているから。
過去があってこそ、現在があって、現在があってこそ未来に続くから。
俺は前に歩く。
立ち止まってばかりではいられないんだ。
一枚きりの片道切符を握りしめ、いつまで続くか分からない人生という名の線路を行く。
佳乃は途中で下車してしまったけれど、それは悔やんでも戻ってきたりはしない。
「好きだった――!」
佳乃はもう、この世のどこにもいないんだ。
「愛していた――!」
いなくなってしまった人間に引っ張られることはもうしない。
他の誰かに佳乃を重ねたりなんてしない。
時には、重ねてしまうかもしれないけれど、佳乃の思い出に浸ってしまうかもしれないけれど、それでも俺はそれをしてはいけないことだと言えるから。
前に進むことに決めたから。
誰かが言っていたっけ。
青春とは、振り返らないことだって。
だいぶ振り返ってしまったけど、今からでも遅くはないよな。
三歩進んで二歩戻ったっていい。
少しずつ、少しずつ、俺のペースで前進するんだ。過去を糧にして、未来へ前進するんだ。
最悪、三歩進んで三歩戻ったっていい。
立っている位置は変わらなくとも、進んで戻った合計六歩という足跡は、必ず自分自身の経験となるはずだから。
だからさ、佳乃、お前はそこで俺の背中をみていてくれよ。
俺が馬鹿をやるところを指さして笑っていてくれよ。
俺がたくさんの思い出を抱えてそっちに行くまで、俺を見守っていてくれよ。
「好きだった! 愛していた――!」
俺のたった一人の幼馴染みとして、さ。
「……先輩、格好悪いです」
涙を流しながら、杏里が笑う。
そして、俺の隣で声を張り上げる。
「でも! そんな先輩が好きなのです――!」
金網から手を離し、涙を袖で拭った杏里が、俺の服の裾をくいくいと引っ張る。
気が付いた俺に対して、真っ白にひるがえるシーツの隙間を指さす。
俺は腹を抱えて笑ってしまいそうになった。
シーツの隙間から小柄な影が透けている。
見られていたという恥ずかしさ。自分の滑稽さからくる笑いの衝動。
知らず目には涙が浮かんでしまっていた。
長い髪の毛が風と戯れていて、シーツの黒と対比するようで美しい。
青空の袂、輝く太陽に照らされた黒髪。
まさに風景画そのもの。
まさに芸術の域。
真っ白な肌はシーツの純白に溶けてしまいそうだ。儚げで、それでいて無愛想。感情を表に出さないクールビューティーさは、全校生徒の間ではすでに有名。
クールな妖精、その名は山田ウメ。
ウメは俺達を無表情で見つめていた。でも、どこか頬が強ばっていて、何かに必死に耐えているようだった。
「ウメ! お前も一緒に!」
「山田先輩も一緒に!」
二人でウメに手を伸ばした。ウメは驚いたように顔を上げ、つぶらな瞳に俺達を映す。
ウメも同じだったんだ。
そう、みんな同じ。
みんな辛いんだ。悲しいんだ。
俺だけじゃない。
当たり前だ。
世界には、生きとし生けるものの数だけ悲しみが存在する。
大きさなんて関係ない。
悲しいものは悲しいんだ。
だから、叫んでいい。
みんなみんな叫んでいいんだ。
「ウメ!」
「山田先輩!」
杏里と俺、二人で思いっきり手を広げ、思いっきり腕を伸ばす。
ウメは心臓に手をやり、葛藤を繰り返しているようだった。
けれど、それも一瞬。
服をかきむしるようにして無表情というペルソナを地面に落とす。
ペルソナのとれた相好から現れたのは、無表情にはほど遠いくしゃくしゃの顔。
目尻に涙を一杯に浮かべて、感情を露わにする。
手を伸ばした俺達には構わず、金網に取り付いた。
「夏目の馬鹿――!」
すんだ青空に吸い込まれていく、ウメの叫び。
こんな高い声がウメの口から出る。その発見が嬉しい。
「こんな私を育ててくれて――」
ウメの横顔が、年相応の感情に溢れている。
これが本当のウメでではないのか、そう思った。
いや、それは違うのかな。
「嬉しかった――!」
無表情なのも、感情的なのも、どれも全てがウメなのだ。
こんな人間的な部分が隠れているからこそ、ウメは誰よりも魅力的なのだと思う。
ツンデレが好きな俺だからなのかもしれないが……それはそれ、これはこれだ。
「夏目が好きだった――!」
半裸のウメを見て欲情すらしなかったのは、きっとそんな隠れた部分のウメを知らずに、佳乃と重ねてしまっていたからなのだろう。今さらながらに、しみじみと振り返ることができた。これからは、もしかしたらドキドキしてしまうのではなかろうか。
それはそれで、困るような気がするな。
俺と杏里の目が合う。
俺がかすむ視界で微笑むと、杏里も目に涙をためて微笑んだ。
……なんだよ、ここにいる三人とも泣いているのか。
「俺は――」
「杏里は――」
「私は――」
三人で清浄な空気を吸い込んで、三人で真っ白なシーツはためく屋上で。
病院の窓から、たくさんの人が俺達をのぞき込んでいるのも構わずに、俺達は群青の空に向かって愛を叫ぶんだ。
――再生への産声を上げるんだ。
響け、どこまでも。
三人で、金網を握りしめ。
三人で声を放つ。
「佐々木の馬鹿――!」
「先輩の馬鹿――!」
「ええっ! 何でっ!?」
俺達はこうして生きていく。
【終わり】
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
本作『多重人格な彼女』の作者であるNAOと申します。後書きでなので、色々と言いたいことがあるのだろうなと推測されると思いますが、実のところ作者的にはとくにありません(笑)
立つ鳥跡を濁さずです。
というわけで、今作を読んでいただいた方には、ありがとうございます……とだけお伝えして、そそくさと次回作を頑張りたいと思います。あ、最後に宣伝をば。お時間がいただけるのであれば、この直接的なお話である『多重人格な彼女【特別編】』の方も読んでいただけると嬉しいです。作者名NAOで検索していただければもれなくHITすると思います。
それでは、長らくお付き合いありがとうございました。
ご愛読、ご声援、ご感想、作者の栄養になりました。