第三十四話・「佐々木仁」
「もう、泣いていいんだよ」
透明な球体の中で、佳乃が柔らかく告げる。
子供の頃、喧嘩に負けて泣きじゃくって、悔しさに目を腫らしながら飛び込んだ母の胸。母はそんな俺の頭を優しく撫でてくれた。俺が泣きやむまで、嗚咽がなくなるまで、なで続けてくれた。その頭を撫でる手の柔らかさと、頭上からこぼれ落ちてくる母の声の柔らかさ。
その二つの柔らかさを兼ねるような佳乃の声に、俺は思わず胸がつまった。
胸の奥から絶望ではない何かがこみ上げてきそうになる。
「……な、何を言ってるんだよ、佳乃?」
俺は今、ひどく間抜けな顔をしているに違いない。
「我慢してきたんだよね。こらえてきたんだよね」
佳乃が俺との距離を縮める。両腕を抱き留めるように広げて。全てを受け入れると言わんばかりに。
「泣くって何だよ? 泣くはずなんかないだろ? 悲しくなんかない、悲しくないのに泣くなんてそんなのおかしいだろ……?」
瞳をまぶたの裏に隠して、俺を否定しようとする全ての風景を遮ろうとした。けれど、佳乃の姿だけは消えない。まぶたの裏に白いワンピースがぼうっと浮かび上がってきて、佳乃の輪郭を作り出す。ワンピースの純白は、さながら天使の白衣。高みに導く翼、俺を抱き上げる救済の手。受け入れたいし、抱きしめてもらいたい。
そう思っているはずなのに、俺は首を横に振り続ける。
「もういいの、もういいんだよ、仁君。仁君は頑張ったの。一人で耐えてきたんだから」
絶望の溶岩の隙間にきらりと光るものが見えた気がした。黒くて何も見えない中で、それは暗く長いトンネルの出口のように光っている。
点いたり、消えたり。導くように存在を主張している。ただし、そのトンネルを抜けることができるのは自分だけのような気がした。だから俺は分からない振りをする。
理解したくないから。最後まで抵抗していたいから。
「もういいってなんだよ! 頑張ったってなんだよ!」
無心になって、夢中になって首を振る。脳ががくがくと揺れて頭痛に変わっても構わない。
体全てを使って、佳乃の言葉を受け入れたくなかった。
もっと別の言葉を聞いていたかった。
互いの愛情を確かめ合う言葉とか、過去の喜怒哀楽の山ほどつまった思い出とか、その他かけがえのない諸々を。
永遠に、延々と。
いつまでも、いつまでも。
「私のお葬式の時だって、それからの学校生活だってそうだったよね。みんなを悲しませないように振る舞ってきたよね」
佳乃の母親の涙を拭ってあげて。葬儀時、笑う佳乃の写真と必死ににらめっこして。教室で、心配してくれる仲間達に親指を立てて笑って見せて。授業中も自分から進んで挙手をしてみたり、体育の時間に先頭を切って走って、わざと衆目のある場所で転んで馬鹿をやってみたり。大声で挨拶して、掃除もしっかりやって。食事も三食きっちりと取って。栄養のバランスも考えて。
心配させてはいけない。
俺は大丈夫でいなければいけない。
悲しみに耐えるのは、絶望にあらがうのは一人の時だけでいい。
佳乃を悲しむのは俺だけでいいんだ。
ずっと佳乃のそばにいて、佳乃と一緒に成長してきた。その俺が悲しんでやれないで、誰が悲しむって言うんだ。俺の不注意で佳乃は事故に遭った。ならば俺だけが悲しむのが当然じゃないか。
「よく頑張ったよね。必死に耐えて辛い思いもしてきたよね。そんな仁君は格好悪くなんかない。でもね、悲しみは分け合えるの。傷の舐め合いではない、悲しみの分け合い」
「違うんだ佳乃……俺は、俺はそんな言葉が聞きたいんじゃない。そんなことを望んでいるんじゃないんだ……!」
駄目だ。駄目なんだ。こみ上げてくるな。
「仁君は一人じゃないよ。みんなで悲しんで、みんなで乗り越えて。そうしたら、ほら、喜びは何倍にも膨れあがるんだよ。だから、仁君……」
「佳乃……俺は……!」
弱々しく首を振り続ける。
「今だけだよ。今だけ、頑張るのを止めて、涙を流していいんだよ」
佳乃の柔らかい言葉が耳に入ってくる度に、胸の最奥で波紋を広げる液体が、上へ上へと持ち上げられていく。水かさを増していく。井戸水を引くように、あふれ出しそうになる。 定期的に吹き上げる間欠泉のように、温泉を掘り当てたように噴出しそうになる。
「違うんだ……違うんだよ……!」
俺の否定の動作に呆れることもせず、佳乃は俺を優しい瞳で見つめ続ける。
優しくしてくれる。
赤ちゃんが初めて歩き出すときの母親の目。歩行器に捕まってしか歩けなかった赤ちゃん。優しく見守る母親、その最上の庇護下のもと、赤ちゃんは何を思ったか、四つんばいから片手を持ち上げる。
歩行はおぼつかなく、酔っぱらい顔負けの危険な千鳥足。
母親は必死に手を貸したい気持ちをこらえて、我が子を見守る。
できるよ、歩ける。前に進める。そう念じ続ける母親の大きな存在。
……そんなふうにして、佳乃は俺を再び立ち上がらせようというのだろうのか。
佳乃の支え無しでは満足に歩けなかった俺を、今度はたった一人でも歩いていけるように。
雛が巣立つように、子が親から離れ自立するように。
「ほら、仁君……」
佳乃が俺に向けていた手のひらで、球体の向う側を指し示した。
夕陽のように赤く揺れる粘膜。透明な球体の向う側、唯一切れ目が入っていた場所へ。まるで空を駆ける流星を指し示すように。一番星を見つけた子供のように。
佳乃は赤い幕の、閉じられた場所に手のひらをかざした。
「見て」
切れ目の内側。映画でも上映するかのように浮かび上がってくる光の幕。
古い映画のワンシーンのようにセピア色。
その映画は、俺の見たことのある顔で溢れていた。
――佐々木先輩!
飛び込んできたのは、俺を敵視していた鹿岡義妹こと、鹿岡真奈美の泣き顔。
見たこともない彼女の真摯な目が俺に向けられている。鼓膜が破れてしまうのではないかという叫声は彼女自身の涙を震わせる。
――仁君! 目を開けるですぅ! 古文の教科書をうまく読めるようになったのですぅ! 聞かなきゃ損なのですよぉっ!
ぽけぽけ少女、早坂美緒が目から涙をぽたぽたと垂らしている。佳乃の時と同じ涙。
大粒の涙が、ぼんやりと浮かぶスクリーンに向かって落ちてくる。
「何だよ、これ……鹿岡義妹に早坂……」
杏里が俺をのぞき込んでいる。湖面に映る月のように、ぼんやり浮かび上がる杏里の今にも泣きそうな真っ赤な目元。いや、すでに泣きはらした後のようだ。
――先輩先輩先輩、お願いなのです。目を開けて下さいなのですっ! またMな杏里をいじめて欲しいのです! お願いなのです! こんどこそ杏里の……こんどこそ杏里の名前を呼んで欲しいのですっ……!
「みんなが呼んでるよ。仁君を呼んでる」
佳乃の声が耳元で聞こえる。俺はスクリーンから目を離せない。
――佐々木っ! お前までいなくなるなんて許さねぇからなっ!
胸板の厚いレスリング部の田中。大声を張り上げながら、目元を太い腕でごしごしとこすっている。
――真奈美ちゃんを泣かせた罪は重いぞ! 全国義妹協会を代表して天罰を下してやるからな!
義妹の弁当を巡って鹿岡兄と鬼ごっこを繰り広げたクラスメイト達。
そうだそうだ、と賛同の声がこだまする。
見知った顔が入れ替り立ち替り、好き勝手に叫び出す。
ぼんやりと浮かぶ景色に、クラスメイトの顔が映っては消えていく。
まるでビデオレター。遠くにいるあの人へ。
届いているかも分からないのに、声を大にする。
「俺は……こんなものが見たいんじゃない! 今さら、こんなの見て、それで戻りたいだなんて……!」
俺の叫びは、次なる生徒の声に遮られた。
――あんたの死亡的な記事なんて、誰も読みやしないんだからねっ! ほらほら、さっさと可及的速やかに起きなさいよっ!
隣のクラス、新聞部の皆川亜矢子が、ぽけぽけ少女を押しのける。新聞記事をちらつかせて、俺を脅そうとする。
しかし、すでに新聞記事は濡れてしまっている。
涙でも染み込ませたのだろうか。ふやけて破れている。
――佐々木、無茶しやがって……。
桐岡が軍事オタクらしく俺に敬礼をしてくる。
――夕焼け雲に仁の上半身が映り込むような絶望的なこと言ってるんじゃないわよっ!
――貴様……! 我が筋肉の垢にしてくれるっ!
――そうですぅっ! 仁君には死亡フラグなんて立っていないのですぅっ!
――痛っ! 亜矢子、田中! ちょ、待……美緒までっ……!?
――そうだそうだ! 桐岡! 物騒すぎるぞっ!
冗談を交えた桐岡が、周囲から袋だたきにあっている。
その奥で看護士らしき女性が頭を抱えていた。クラスメイトの無鉄砲さに対処不能なのだろう。
「違うんだ……俺はっ……」
こらえきれない。もう、こらえきれそうにない。
馬鹿だ。どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。
――先輩先輩先輩! 杏里はもう佳乃先輩の代わりになろうとなんてしません。杏里は杏里なのです。Mで馬鹿で、どうしようもなくわがままな、先輩にいじめられるのが大好きな杏里なのです! 遅すぎますよね……でも、でもはっきりと分かったのです。だから先輩!
杏里が泣きすがる。どんなにひどい仕打ちをしても、すり寄ってくる子犬。涙の似合わない、笑った顔が華やかな後輩。弾ける涙は、打ち寄せる波のしぶきのように俺のもとへ落ちてくる。
――おいおい、下級生にまで手を出したのか仁のヤツ! ぬぬぬ、帰ってきたら許すまじ。
俺のそばで一緒にスクリーンを見やる佳乃が、肩に手を置いてくる。
「みんなが呼んでいるんだよ。他の誰でもない、仁君を呼んでいるんだよ?」
――ああ、一発シメておかないと駄目だな、これは。
腕を組んで神妙にうなずく男子。
――けどさ、お前がいないと張り合いがないんだよ。……ま、なんだ……オタク仲間が減るのは寂しいしな。
頬をかいて照れるクラスメイトを、乱暴に押しのけて眼鏡をかけた男子が唾を飛ばす。
――貸したエロゲー返してもらってないぞ! ゴルァ!
「何でだよ……俺はここにいたいんだ! 佳乃のそばにいたいだけなんだ!」
スクリーンに向かって声を張り上げるが、どうやら聞こえないようだった。
――ま、静かな教室ってのも悪くないけど……私はどちらかといえば賑やかな方が好きだしね。
男子を邪険に足蹴にして、強面の女子。
――あ、あの……明日の日直、佐々木君なので……ズル休みされると困るって言うか……。
言葉少なめの眼鏡女子が、両手を組んだりほどいたりしながら、もじもじとつぶやく。
――ふっ、こういう場合、主人公は得てして帰ってくるものさ。心配などしていないぞ、私はな。
オーバーアクションで肩をすくめてみせ、親指で自分を指し示す。さすが演劇部は芝居がかった仕草だった。
「絶望を受け入れて、涙を流して、みんな助けてもらおうよ。仁君、それは格好悪いことでもない。情けないことでもないんだよ」
佳乃の声と、クラスメイトの声が、俺の体から忘れかけていたものを呼び覚まそうとする。
――うおおおっ! 仁っ!
鹿岡兄こと、鹿岡健二が、病室に溢れかえったクラスメイトの頭の上を飛び越えて、ヘッドスライディングする。スクリーン一杯に鹿岡兄の顔が広がった。鼻の穴まで拡大されている。
――いてて……の、鹿岡兄妹たってのお願いだっ! 帰ってきて、また一緒に登校しよう! 今度は、僕と、真奈美と、仁と、山田さん、中村さんの五人で登校しようっ! 楽しい、きっと楽しいはずだから! 絶対に楽しいはずだから!
――はいはいはいっ! 杏里が仁先輩起こしに行くのですっ!
鹿岡兄の頬を右の手のひらで押しやり、左手で立候補する。
その後ろでは、鹿岡義妹が兄に抱きつき、その胸元で涙を溢れさせる。
「真奈美ちゃん……鹿岡君……」
かつて昼食をともにした彼らに、佳乃は微笑みを浮かべる。
「絶望を受け入れて、涙を流していいの。みんなに肩を抱いてもらって、みんなに悲しんでもらって。そして、今度、違う誰かが悲しんでいたら、仁君が肩を貸してあればいいんだよ。悲しみを理解して、分かち合えばいいんだよ。二人なら、悲しみは半分に。喜びは二倍になるんだよ。三人なら悲しみは三分の一、そして喜びは三倍になるの。四人、五人、六人……ほら、悲しみは消えてなくなりそうだよ。喜びはこんなにたくさん」
両腕を大きく回して、その大きさを体で示そうとする佳乃。
――佐々木め……うらやましいヤツ。でもな、さっさと起きろよ。遅刻するぜ?
――そそ、早起き的なことは三文の得っ! 決定的よっ!
――そうですぅ、さっさと起きるが吉ですぅっ!
顔、顔、顔。
声、声、声。
クラスメイトの憂慮の表情と声音が、飽きることなく映し出される。
「立ち止まってもいいの。振り返ってもいいの。でも、人は前に進まなければいけないんだよ」
――起きてください! 先輩っ!
――佐々木先輩! 真奈美からもお願いです!
――目を覚ましてくれ、仁!
「私は仁君と同じ時を生きることができないから。仁君の背中を見ていることしかできないから」
――勝手にいなくなるなんて許さねぇからな!
「私は仁君の背中を押してあげることしかできないから」
――佐々木先輩!
「……俺は……」
――佐々木仁!
――仁先輩!
――佐々木!
――先輩!
――仁君!
――仁!
溢れる。
「でも、俺は佳乃と離れたくない!」
……寸前で、俺は声を張り上げていた。
ぼんやりと浮かび上がっていたスクリーンは、俺の絶叫で掻き消されてしまう。
喉がさける。血が流れたっていい、二度と話せなくなってもいい。
佳乃を失うよりはずっといい。
「佳乃が好きなんだ! 佳乃がいないと駄目なんだ!」
佳乃にすがりつく。白いワンピースの裾を握りしめ、情けなくも佳乃を見上げる。
「死ぬってことはね、それきりってわけじゃないんだよ」
命乞いをするように醜くすがる俺に、佳乃はゆっくりと膝を曲げる。ワンピースの裾を握る俺の手に自らの手を重ね、より一層微笑んで見せた。
「仁君の中に降る雨も、やがてあがる日が来る。そして、太陽の輝く世界をもう一度見られる日がきっと来る」
佳乃が俺に伝えようとしていること。それはとても明快で、分かりやすいものだったように思う。難しい言葉を用いたとしても、それをかみ砕いて何度も伝えようとする。まるで、歯の生えそろわない乳幼児が食べやすいよう、柔らかくしてあげるような。
かみ砕いた佳乃自身の言葉で俺に伝えようとする。
「いつか、今ではないいつか……仁君が私との思い出を懐かしむようになる頃、時々だけ私のことを思い出すようになる頃……」
空想の未来図を描く。
「誰かが仁君を好きになって、仁君もその子を好きになって。告白して、二人で手を繋いで。帰り道、別れ際に……キス……とかしちゃったりして。……やだな、なんか考えただけで嫉妬しちゃうよ。でも、いつかそういう日がきっと来るはずだよ」
佳乃の目も光を帯びていた。
透明な膜が覆っていて、水面に垂らした一滴のように揺れている。
「違う! 俺は佳乃だけだ! 佳乃だけがいてくれれば、他には何もいらないんだっ! お前以外に誰も好きになったりしない! 好きになるはずないじゃないか!」
キスをするほど顔を近づけて、俺は叫ぶ。
届いて欲しかった。佳乃の心を変えたかった。
でも、佳乃はそんな俺に涙を浮かべながら告げる。
「私は……夕凪佳乃は、佐々木仁に愛してもらえて幸せでした」
一筋の彗星が、佳乃の涙が頬を滑っていった。
涙は両目に溜まり、落ちたのは左目が先。タイミングがずれた涙は、時間差で頬を伝っていく。
ぽとり、そんな聞こえるはずもない小さな音が、胸の中に響いた。
「えへへ……過去形にしちゃった」
夕立の上がった公園の木、葉先から一滴の雫が落ちるような佳乃の涙。
「嫌だ! 俺はお前が好きなんだ! 今までも、これからも、ずっと好きなんだ! 過去形になんてしないでくれ!」
「仁君……」
俺の手を包んでいた手を離して立ち上がる。
「仁君とは……また会えるよ。いつでも会える。必ずまた会えるの」
駄目だ。駄目だ。駄目なんだ。
もう、こぼれてしまいそうだ。
我慢してきたのに。こらえてきたのに。大丈夫だと思っていたのに。
「今すぐには会えないかも知れないけど、仁君が大人になって、恋愛をして、結婚して、子供が生まれて、パパになって、おじさんになって……やがて、おじいちゃんになって。そして、長い長い年月を生きて、ある日……深い、本当に深い眠りについたら、きっとまた私と会えるよ」
……理解できても、納得できないものがある。
佳乃は思い出せば町中に溢れていた。
思い出という再生機構を使えば、いつどこにでも佳乃は現れた。
自動販売機に小銭を入れる佳乃、ボタンを全部同時に押してみるお茶目な佳乃、レンタルショップで最新の映画が全てレンタルされていてしょんぼりする佳乃、代わりに借りたホラー映画で肩をぶるぶる震わせる佳乃。
佳乃はどこにでもいる。俺の瞳の中になら、必ず現れる。
「死ぬことは、別れることじゃないんだよ。少しの間、離ればなれになるだけなんだよ。仁君とはいつでも会える。だからね、また会える日まで、仁君には私の分もたくさんのことを見てきて欲しいの。外国はどんなところだとか、会社ではこんなことをしたとか、子供の名前とか……仁君のしてきたこと、見てきたこと、感じてきたこと……たくさんたくさん教えて欲しいの」
体中からかき集められたものが、俺の顔面に集中する。
鼻の奥がつんとして、胸が締め付けられて。嗚咽で今にも横隔膜が痙攣しそうだ。
「それまで私は仁君を待ってる」
佳乃がこの世を去った。自動車事故で命を失った。
移植されたとはいえ、佳乃は佳乃でなくなった。
夕凪佳乃という人物は世界から姿を消したんだ。
「ずっとずっと仁君を待ってる」
「なんで……そんなこと……」
俺は葬式の時、佳乃の写真とにらめっこをしていた。
見つめ続ければ、きっと笑ってくれるんじゃないかって。
負けを認めて出てきてくれるんじゃないかって。
佳乃の葬儀が今まさに執り行われているっていうのに、俺は佳乃がどこかできっと生きていると、かたくなに信じ続けていた。
明らかに矛盾している。でも、俺の中でその方程式は成立していた。
そんな風にして佳乃の面影を町中に重ね、俺は自分の殻に閉じこもった。
自分の時を止めたんだ。
佳乃と一緒にいたくて、俺は成長することを止めたんだ。
立ち止まり、佳乃と手を繋いだまま、時間軸というレールを走る電車から降りた。
未来への片道切符を握りしめたまま、駅にとどまり続けたんだ。
駅名の書いてある行先看板には、過去、現在、未来と書いてある。
さっきまで通り過ぎてきた過去という駅、今いる現在という駅、そして、これから向かう未来という駅。
けれど、切符を失った佳乃は乗ることができない。
俺だけが切符を持っている。
佳乃を置いていくくらいなら、俺もここに残る。
そう決めたんだ。
「仁君は、もう分かっているんだよ。誰かがこうしたからじゃなくて、自分がどうすべきか。何が正しいかではなくて、自分が正しいと思えるか。……私は仁君と一緒には行けないから。ずっと一緒にいたかったけど、もうできないから……いくら泣いて祈っても、それだけは許されないから」
佳乃の死を、俺は頭で理解はできても、心で納得することができなかった。
認めたくなかった。認めてしまうのが怖かったんだ。
だから絶望に抗い続け、何度も絶望の中で佳乃を助けようとした。
佳乃の弁を借りれば、俺を苦しめた予定調和は、俺に現実を、前進する意志を教えようとしていたのか。
佳乃はもういない。助けられないと。俺の体に教え込もうとしていたのか。
だとしたら、俺のしたことは。
俺のしてきたことは。
「……無駄じゃないよ。それが仁君のペースだっただけなの。早いか、遅いか。それは人それぞれなんだよ。仁君は、少しだけ回り道をしたの。無駄でもなければ、間違ってもいない。ただ、時間がかかっただけ」
救われるような言葉。
「遠回りしただけ……時間がかかっただけ……俺は……間違ってはいないのか……?」
「うんっ!」
自分のしてきたことを否定されることは、自分自身を否定されることと同じだから。
心が、佳乃の言葉に救われた。
「俺は……」
俺の体が透けていた。
指の先から浸透してくるようにどんどん透明になっていく。
消えてなくなるのではなくて、俺の体が変化していく感覚。
俺が透明な液体になっていく。
「ここは……まさか……」
純水のように透き通った俺の体を見、佳乃を見る。
「そうだよ、ここはね」
水晶のような球体を見、その周りを覆う仄かに赤い皮膚のようなものを見、その皮膚にある閉じられた切れ目を見、佳乃を見る。
「ここは、仁君の体の中。心臓の場所から始まって、心の場所、記憶の場所……そして、ここ。ずっと上へ上へ走り続けてきた……。絶望が私達をつかまえようとしていたから分かるよね。そして、ここは……仁君の目、だよ」
「俺の、目……?」
「仁君が心を解放する場所」
だとすれば、この水晶のような球体は瞳で、あの切れ目はまぶたなのだろうか。
クラスメイトの面々は、俺が病室で実際に見ているもの。ぼんやりと見えているものなのだろうか。
「仁君が自分自身の意志で、自分という殻の中から飛び出していくの」
「佳乃……!」
俺が叫べば、体の一部である水分が音をあげて弾ける。
「ウメちゃんもね、今、仁君と同じように頑張っているの。雨にたくさん濡れて、震えて、救急車で運ばれて……熱が下がらないの。体が弱いはずのウメちゃんが、こうして力を貸してくれたから、私は仁君にまた会うことができた。奇跡なんだよね、きっと。想いがシンクロしているんだよ」
鼻の奥がいよいよもって痛み出す。
みんなみんな頑張っている。ウメも、杏里も、鹿岡兄妹も、ぽけぽけ少女も、桐岡も、みんな必死になって頑張っている。自分のためではない、誰かのために。
馬鹿でお人好しなクラスメイト。馬鹿で変わっているけど、最高の友人達。
みんなみんな頑張っている。
「なんで……俺なんかのために……」
もう、いいのかもしれない。
今までこらえてきたものを、溢れさせてもいいのかもしれない。
「仁君は一人じゃない。佳乃がいなくても、仁君は歩いていけるよ」
「でも! 佳乃の……いない世界なんて――」
最後の一線で、俺は躊躇する。
未来への片道切符をこれでもかと握りしめて。発車のベルが鳴る直前まで、電車に乗り込めないでいる。
そんな俺の唇を、佳乃が人差し指でふさぐ。
「またいつでも会えるから。仁君とは、またいつでも会えるから。……だからね、少しの間だけ、お別れしよう。さようならじゃないよ。別れ際にさようならは悲しいもん」
涙の欠片を目尻と頬に残して、佳乃は心地よい笑顔を浮かべた。
「またね、仁君」
佳乃が小さく手を振った。
「そ、佳乃の言うとおり。仁とは今すぐでなくても、少ししたらいつでも遊べるし。だから、それまでそっちで頑張りなさいよ、朴念仁。正直、あんまり期待していないけど……あ、あんたのさ……楽しい話、待ってるから。間違っても暗い話なんてしたら、地獄にたたき落としてやるんだからね! ……分かった? 朴・念・仁!」
涙の欠片を目尻と頬に残して、佳乃は心地よい笑顔を浮かべた。
「そういうことで、またね、仁」
佳乃が小さく手を振った。
電車のドアが閉まる音。
耳の奥で聞こえた気がした。
水分と化した俺の体が、皮膚の切れ目に吸い込まれていく。
夜行列車。車窓から見える佳乃の姿が遠ざかっていく。
「仁君に、おかえりを言うその日まで……」
どんどんどんどん小さくなっていく。見えなくなってしまう。
佳乃。
電車が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けてくれる自慢の幼馴染み。
佳乃。
物心ついた頃から一緒で、苦楽を共にしてきた体の一部のような人。
佳乃。
俺に初めて愛と絶望を教えてくれた最愛の人。
「いってらっしゃい、仁君」
伝えられたかどうかは分からない。
「いって……きます」
つぶやきながら、俺は切れ目に吸い込まれていった。
それからの記憶は、少し判然としない。
のちに、杏里が言うには。
――そのとき俺は、病床でたった一滴の『涙』を流したそうだ。