第三十三話・「愛」
「さてと……何か言いたいことはある? 仁」
俺は周囲を見回していた。
終着駅とは言っても、とてもそんな風には思えない。
丸い球体の中に俺達はいる。暗くて周囲の状況はよく見て取れないが、確かにここはガラス玉のようなものの中だ。赤っぽい粘膜のような壁から俺達を守るようにして、透明な幕が三百六十度を覆っている。球状の水晶のように思えたが、触れてみるとぐにゃりと歪む。水晶ほど硬質ではない。例えるなら材質は薄いプラスチックのようで、少し頼りない強度。匂いをかいでみるが、これといって刺激臭がするわけではなかった。どこか乾燥していて、日照りが続いたあとの砂場のような匂いがした。
ずっとここにいたら、のどが渇いて、最終的には干からびてしまいそうな気がする。
それぐらい水分に富まない場所だった。けれど、水分があった跡のようなものはある。オアシスの水が枯渇し、水分があった証拠として空洞が残るように。川が流れていたという、うねりの痕跡が残るように。
ここには確かに水分があったようだった。
「……聞きたいことがないなら、もう一方の佳乃が勝手に話すから。仁も勝手に聞いていて。私はパス……こういうの苦手だから」
球体の向う側。赤い粘膜のような場所に大きな切れ目が入っているのが見えた。
それは切れ目というよりは何かをかぶせたような感じで、今は閉じられている、という言葉がしっくりくるような継ぎ目だった。閉じられていたものが開いたとき、そこに何があるのか。
もちろん想像などできない。想像したとしてもそれが正解でないことだけは確かだった。
「……この場所にいてね、仁君がどれぐらい私を想っていてくれたか分かったの。あの絶望は、仁君が作り出したんだよね」
白いワンピースは汚れ一つない。黒い絶望の染みも見あたらない。
まるで佳乃自身の心を体現しているかのように美しく輝いている。
「大きくて、果てしなく広くて、本当に深い……私ね、自分で考えていたよりも大きくて本当にびっくりしちゃったよ」
佳乃の瞳は澄んでいて、海の底を彩る珊瑚礁ですら見えてしまいそうだった。
「でも、嬉しかったんだ。こんなにたくさん、仁君が私を想っていてくれたんだなって、感じることができたから」
俺の心の中でうごめく絶望は、俺が佳乃を思う量に比例している。俺が佳乃を好きになればなるほど黒の深さは増していった。マリアナ海溝より深く、同海溝の一センチ平方メートルあたり千キログラム以上という途方もない水圧よりも強い想い。そのあまりの想いの水圧に心が潰されてしまいそうになるくらい。
黒に落ち、予定調和に終わる。俺の絶望を巡る旅。
「佳乃、ここは一体どこなんだ? ここで終わりって……ここには何もないじゃないか」
俺は周囲をぐるりと見回して、両手を広げる。
「どこに逃げても、どれだけ走っても、絶望はついてくる。私達の思い出に入り込んでくるんだよ。たくさんたくさん積み重ねた私達の思い出。誰にも負けない、強くて、優しくて、温かくて、胸の中がふんわりして……自分だけではなくて、誰かにも伝えたくなるような幸せな気持ち」
「佳乃、ここは……」
俺の言葉では佳乃を遮ることはできなかった。
「そういった幸せな気持ちってね、絶望と表裏一体でできてるの。ほら、仁君、幸せっていう字から棒を一本とると辛いっていう字になるでしょ。感覚的にいうとそんな感じなのかな。幸せと不幸せが表と裏であるように、愛と絶望も背中あわせなんだよ」
「……佳乃?」
佳乃が俺の心の中をのぞき込んでくるような肌触り。一本の糸でつながった俺と佳乃の視線は、まるで俺の心をたぐり寄せるかのようだ。
強く佳乃に引かれ、全てを持って行かれそうになる。
弱さも強さも。喜びも悲しみも。俺を構成する全ての要素を認め、許すように。
「絶望は愛でできている。何かを失う悲しみ、喪失感。愛はなくなるんじゃなくて、変わるの。絶望に変化しちゃうの。最初はね、愛はきっと真っ白だと思うんだ。洗いたてのシーツのように真っ白。ううん、おろしたてのシーツのように純白。その真っ白な愛をね、その人を思う気持ち、自分自身の気持ち……感情の絵の具を使って、二人で愛を染めていくの。二色の絵の具でね、一緒に染めていくの。赤く燃え上がったり、悲しくてブルーになったり、楽しそうな黄色になったり、落ち着いた緑になったり。そんな風に二人で一つの愛を……愛の色をどんどん変えていくの」
「おい、佳乃」
佳乃が何を話そうとしているのか分からない。
俺の言葉に応えず、なおも続ける。
「たくさん、たくさん仁君と染めてきたような気がする。手のひらに収まらないくらい。もう、どんなにキャンバスを広げても染めきれないくらい一杯染めてきた。大気圏を飛び出して、月まで届いちゃうくらい。たくさん……染めてきたんだよ。気が付くのは遅かったけど、仁君と一緒に見てきた私の風景は――」
あえてだろうか。
佳乃は少しだけ言葉をためた。
「――本当に輝いていたんだよ」
呼吸をする。吸い込んだ息とともに言葉をはき出す。
「地球ってこんなに綺麗だったかなって、馬鹿みたいに思っちゃうくらい」
にっこりと笑う。真っ白なワンピースを揺らして、俺の周りを歩き出す。
一歩、二歩、三歩……佳乃が地面というキャンバスに描いたのは、思い出の風景画なのだろうか。
懐かしそうに目を細め、頬を恥ずかしそうに淡く彩らせ、口元にゆるやかなカーブを作る。
「春の新芽が芽吹いて、桜が咲いて。仁君と桜吹雪の下を歩いて。髪の毛にくっついてくる桜の花びらを仁君がふとした瞬間に取ってくれるの。仁君の肩には私以上に桜がのっているのにね。……桃色に輝いていてまぶしかった。仁君の背中を見て、桜を見て。幸せな気持ちになるの」
時を思い出せる。
佳乃の頬は桜の花びらのように淡いピンクに染まっていて、見ている俺も恥ずかしかった。
照れ隠しを何度したことか分からない。
ふと、どうしようもなく佳乃に触れたくなってしまって、俺はどうしたら佳乃に触れられるか、下心を介さない範囲で必死に考えた。
その結果が、佳乃にくっついた花びらを取ってあげること。
……佳乃の微笑みが、桜の花びらや、枝の隙間を突き抜ける木漏れ日のように輝いていてまぶしかった。
佳乃の笑顔を見て、桜を見て。幸せな気持ちになった。
「夏の海、空を切り裂く飛行機雲の真下、二人でアイスを食べたよね。私がソーダバーで、仁君がソフトクリーム。私は食べるのが遅くて、手をべとべとにしちゃって。私が甘くなった指を舐めてると、仁君が笑いながら言ったよね。舐め方が嫌らしいって。ゲームのやり過ぎなんだから、仁君は。私が言うと、仁君はむきになって否定して。……そんな仁君の首筋を流れていく汗がまぶしかった。仁君の背中を見て、青空を見て。幸せな気持ちになるの」
佳乃の言っている時間、場所、出来事が俺の記憶であるかのように理解できる。
俺が海に行くのをかたくなに拒否し続けたのに、佳乃はどうしてもってわがままを突き通して。気が付いたら俺は水着をもった佳乃と同じ電車に乗っていた。佳乃の水着は健全な男子には少しきわどくて。どうせもう一人の佳乃の入れ知恵なのだろう、とため息をつきつつも、心の中ではかなり佳乃の水着に期待した。けれど、海に到着してそれも一変、佳乃のビキニを自分の目の保養にするならともかく、他の男の目の保養にされるのは何か汚されているようで嫌だった。子供じみた独占欲だけど、俺は嫌だったんだ。
二人でアイスを食べながら、俺はそんな悶々とした気分にとらわれていた。
某ロールプレイングゲームで有名な、呪われたときに流れる音楽。そのときの俺からは聞こえたかも知れない。でも、ふと佳乃の笑顔を見れば、自分のことなんてどうでも良くなったんだ。俺が楽しいかではなく、佳乃が楽しいか。それが重要なのではないか。
佳乃がアイスに舌を這わせる様を横目に見ながら考えたりした。
……そんな佳乃の胸元に入り込んでいく汗がまぶしかった。
佳乃の笑顔を見て、青空を見て。幸せな気持ちになった。
「秋の紅葉、空に舞う赤とんぼ。黄金色の絨毯に敷き詰められた銀杏並木を、やっぱり二人で歩いて。仁君はそんな銀杏の絨毯を自転車で思いっきり下っていく。背中には私。まるで銀杏と遊ぶみたいに、自転車が通ると銀杏も舞い上がる。仁君は某モビルスーツのバーニアみたいだって得意げになって例えていて。そんな仁君の例えが分かってしまう私にちょっぴり自己嫌悪に陥ってみたり。意地悪な仁君はスピードを上げるの。私が止めていっても聞かないで、どんどんスピードを上げて……でも、そのおかげで仁君の背中にしがみつく口実ができて嬉しくて。逆襲の幼馴染み。ちょっと胸を押しつけてみたら、耳たぶを真っ赤にしてたよね。……そんな仁君の後ろ髪が太陽に反射してまぶしかった。仁君の背中を見て、真っ赤なもみじを見て。幸せな気持ちになるの」
俺はそのとき確かにそこにいて、佳乃に対して同じ気持ちを抱いていた。
二人で作った思い出の数々。二人とも大事にしているから、今でも鮮明に想いを共有できるのだ。
俺は佳乃がしがみついてくれるのが嬉しかったから、思いっきりペダルをこいだんだ。自分でも怖いくらいにスピードを上げて、背中に広がる神経を過敏にして。自分が馬鹿だと思った。でも、佳乃から感じられる柔らかさは、本当に殺人級だったから。俺はペダルをこがずにはいられなかったんだ。
自転車を降りた後、佳乃が少し涙目になっている。俺は、自分自身の若さを呪ったね。自己嫌悪だった。けれど、次の瞬間何もなかったように笑ってくれる佳乃。
……そんな笑顔が太陽に反射してまぶしかった。
佳乃の笑顔を見て、真っ赤なもみじを見て。幸せな気持ちになった。
「冬の雪、道ばたで笑う雪だるま。私達も作るって、二人で暗くなるまで雪玉を転がしていたよね。でも、私達の町は、あまり雪は降らないから、すぐに雪に泥が混じって茶色になって。それでも仁君は、私と競争するっていって、雪だるまを転がし続けていた。二人でどちらが大きい雪だるまを作れるか。結局、その頃には雪はなくなってしまって。そのとき仁君は、仁君のより一回り小さい私の雪玉を、自分の雪玉の上にのせる。茶色ででこぼこしているけど、二人で一つの雪だるま。小枝を二本突き刺して、その先には脱いだ手袋を引っかけて。最後に小石を三つあてがって完成。少し無愛想な雪だるまだけど、私には笑っているように見えたよ。仁君は愛嬌が足りないとかディテールに凝り出して、自分のマフラーを雪だるまに巻いてあげたんだよね。……そんな仁君のかじかんだ手が、一所懸命な仁君がまぶしかった。マフラーをかけてあげる仁君の背中を見て、茶色い雪だるまを見て。幸せな気持ちになるの」
こみ上げてくる、愛しいという想い。思い出は愛しさの積み重ね。どんどん積み重なっていって、俺は思い出に囲まれて。俺は抜け出せなくなる。そこから出たいとすら思わなくなる。
雪だるま作成に佳乃を誘ったこと。佳乃は嫌がっているんじゃないかと思った。でも、佳乃が俺以上に頑張っている姿を見たら、俺も負けてはいられないと思ったんだ。
雪が溶け出して、泥が混ざり出して。濡れているだけだった服も、次第に泥だらけになってしまって。それでも佳乃は小さな手のひらで雪玉を転がし続けてくれた。競争のようになってしまったけど、俺はそんなつもりはなかったんだぞ。佳乃の頑張る気持ちにあてられてしまっただけなんだ。最初から、二人で一つの雪だるまを作るつもりだったんだ。共同作業……聞いていて悪い言葉じゃないよな。出来はお世辞にも良いとは言えなかったけど俺は大満足だった。
おそらくは、雪のほとんど降らない俺達の町で一番大きな雪だるまだったんじゃないかな、あれは。今でも俺の自慢だぞ。
……そんな佳乃のかじかんだ手が、一所懸命な佳乃がまぶしかった。
マフラーをかける俺の後ろで拍手する佳乃の笑顔を見て、茶色い雪だるまを見て。幸せな気持ちになった。
「溢れちゃうんだ……仁君への気持ち。佳乃の中から仁君が溢れちゃうんだよ」
白いワンピースの上から、自分の心臓を押さえる。
まるで、心の位置が心臓と同じ位置にあって、思い出もそこにつまっているような。
「……そんな、仁君と作ってきた思い出がね、喪失感とともに黒く染まってしまうの。あんなにたくさん染めてきた愛が、仁君の中で黒く染まってしまうの。愛と絶望は背中合せ。紙一重だから。愛が絶望に変わってしまった……仁君の中で。それが今、仁君の中をうごめいていて、仁君を苦しめるものの正体」
俺達を追いかけてきた黒が、思い出のなれの果てだというのだろうか。俺達が、思い出の風景の中を逃げてきたのも。その思い出そのものを絶望が呑み込んでいったのも。
全て。
「でもね、仁君……絶望はね、痛くて、悲しくて、苦しくても……」
地面に思い出を描くのを止めて立ち止まる。顔を上げた佳乃が、俺に困ったような微笑みを浮かべた。
「それでもやっぱり愛なんだよ」
佳乃が俺のわがままを許してくれるときの表情と同じだった。
「愛が絶望になるように、絶望もまた愛になるんだよ。愛はね、絶望から生まれるから。この絶望は仁君を苦しめようとしているんじゃなくて、仁君を強くしようとしているの。繰り返し見せる予定調和だって、仁君を強くしようとするからこそ。悲しみに打ち勝つ力を持って欲しくてみせるんだよ。襲いかかってくるのだってそう。全部全部、仁君のため。ライオンが自らの子供を谷から突き落とすように、優しさからだけではなくて、苦しみからも人は成長していけるから。仁君はそれにずっと耐えてきたよね。本当に痛かったよね、苦しかったよね。……全部、私のせい。私が仁君のそばからいなくなったから……」
「そんなことっ!」
両腕を思い切り振って、佳乃の言葉を否定する。
佳乃のせいで俺が絶望にとらわれることになった。そんなふうには思って欲しくない。たたとえ一部がそうであっても、それが真実でも、俺はそう考えたくない。
「仁君、絶望を受け入れよう?」
死刑宣告のようなものに聞こえた。必死に耐えてきたもの、必死に逃げ続けてきたもの。何度も地獄に堕ちるような痛みや、悲しみに耐えてきたのに。逃亡者のように命からがら逃げてきたのに。
「今さら……あきらめろって言うのか? 今までずっと耐えてきたのに!」
「違うよ、仁君、違うの……あきらめるんじゃないの。悲しいことを我慢することは悪いことじゃないよ。辛いことから逃げるのも悪いことじゃないよ」
耐えられるさ。逃げ切れるさ。今までそうしてきたように、これからも絶望から。耐え続けてみせる。逃げ切ってみせる。
「……でも、良いことでもない」
頑張れる。佳乃と一緒なら。佳乃さえいてくれれば。
「時にはね、悲しみを表に出したっていいんだよ」
胸に落ちていく。胸の中にあっけなく落ちていく。胸の底、俺の心象に広がる荒廃した風景に、一陣の清涼な風が吹き抜けていく気がした。崩壊したビル。積み重なるがれきの風景。
「痛いことを痛いって叫んでいいんだよ。辛いことを辛いって、悲しいことは悲しいって、苦しいことは苦しいって、声に出したっていいんだよ」
倒壊した都市。そのがれきの下で小さな芽が顔を出し、その身を懸命に揺らし、背伸びをしているように思えた。
もっと高く。もっと高く。
持ち上がるはずもないがれきを押しのけようと、無駄とも思える努力を飽きることなく繰り返していく。
「仁君――」
太陽の光を浴びたくて。
また花開くときを夢見て。
「――もう、泣いていいんだよ」
芽は確かに息づいていく。