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第三十二話・「目指していた場所」

 絶望が渦を巻いて襲ってくる。暗黒の竜巻が地上にタッチダウンし、幸せを形作っていたはずの世界を暗闇の中に巻き込んでいく。

 場面の転換。草原の次は、俺達の学校。

 気が付けば教室の机にうつぶせになって眠っていて、佳乃はそんな俺を揺り動かしていた。教室には当たり前のように机が整然と並んでいて、黒板には消しきれなかったチョークの跡が残っている。黒板の隅っこを見ると、日直はクラスのぽけぽけ担当こと美緒とその相方である桐岡の両名の名があった。黒板消しを両手に持って拍手をするという掃除方法は、かなりの自爆を招くが、二人にはきっちりとこなして欲しい。


「仁っ! ぼけっとしてるんじゃないわよ!」


 佳乃の声で我に返る。俺は慌てていすを倒して立ち上がると、嫌な予感がして窓の外を見た。

 ……悪い予感は当たるもの。

 校庭には黒い波が押し寄せてきていた。まるで墨汁の津波。三階建ての校舎を呑み込まんばかりだ。伝説のサーファーも驚くほどの高さで、校舎に牙を向く。

俺はすぐさま佳乃とともに廊下に飛び出し、津波に背中を向けて校舎を駆けていく。一棟と二棟を繋ぐ渡り廊下。正方形の校舎の形で良かったと思う。でなければ校舎を昇るか降りるかの二択しかなく、これこそ本当に絶望的な状況だった。


「ここで捕まるわけにはいかないのよ! あんたと一緒に行くんだからっ!」

 渡り廊下を全速力で駆ける頃、校舎の窓から侵入した津波が窓を次々に破砕していく。砕け散った破片のきらめきさえも黒で覆い尽くして、校舎を駆けめぐっていく絶望の波。渡り廊下の先に黒い影がよぎる。

 黒の濁流は、壁と壁にぶつかってきりもみしながら、俺達に接近してくる。トイレのハンドソープを飲み込み、便器をもぎ取り、蛇口をパイプごと引きちぎり、タイルを引きはがし、デッキブラシをへし折りながら。

 背中をちりちりと焼くような焦燥感を覚えて、俺は足をさらに酷使する。いつまでも背中ばかり見ていられない。この先は突き当たりなのだ。

 右に行けば屋上へ通じる登り階段。

 左に行けば体育館に降りる下り階段。

 右に行けば屋上より先はない。常識の通用しない黒の溶岩だ。高さを稼いだところで逃げ場はないかもしれない。しかし、あるいは……。

 捨てきれない可能性。現れる逡巡。

 左に行けば体育館、間に合えば体育館を盾にして逃げられるが……。

 逃げられなければ、呑み込まれてそれで終わり。

 高さをとるか、逃げ道をとるか。

 生まれた選択肢は二つ。

 右か、左か、それとも右。

 左か、右か、それとも左。

 右か左、いや右。

 左か右、いや左。

 左か右か左。

 右か左か右。

 右なのか。

 左なのか。

 左か。

 右か。


「――左だ!」


 急ブレーキをかけて左に方向転換。強烈なオーバーステアを出しながら俺は左を進む。曲がる際にちらりと見えた絶望の波。波と一体化した学校の公共物にさらなる仲間が加わっていた。トイレの扉が三枚ほど呑み込まれている。黒く塗られた扉。そのスピードは呑み込んだ物体全てを凶器と化す。


「馬鹿! 仁! 右よっ!」


 背中越し。佳乃のせっぱ詰まった声。


「――くそっ!」


 即、急速反転。右に逃げた佳乃。左に逃げた俺。

 合流させまいと、俺と佳乃の間に割って入ろうとする絶望の土石流。

 俺は勇気を振り絞る暇もなく、佳乃へ手を延ばす。佳乃も俺を引き寄せようと手を延ばす。迫る三枚の扉。津波の加速を得、ドアは俺を切り刻む断頭台の刃に変貌する。

 一枚目。くるくると回転しながら、俺の頭部をかすめた。髪の毛が何本か持って行かれる。

 二枚目、三枚目は、のけぞった俺の死角から襲ってきた。間に合わない。俺は救世主じゃない。心を解き放って、弾丸を止めたりなどできない。上半身と下半身が離ればなれになる悪夢。上半身からは胃袋の中身がこぼれだし、下半身の大腸からは汚物が上に向かって吹き出すだろう。

 俺は視界を自らの暗闇に落とすしかない。まぶたを閉じ、恐怖から逃げた。体がまっぷたつに避ける過程など見たくない。


「目を開けなさい!」


 脳を揺さぶる声。見れば、佳乃が自らの危険を顧みないで手を伸ばし続けている。


「最後まで目を開けていないと、助かるものも助からないわよ! 奇跡だって起きない!」


 佳乃の手を取る。


「あきらめたら、そこでゲームオーバーよっ!」


 佳乃は俺を強引に引っ張り、床に転がす。俺は綺麗に受け身をとって立ち上がると、佳乃のにやりとした笑いに応えて、再度走り出す。俺達二人を引き離そうとした黒い津波は、それであきらめたりするような軟弱な物体ではない。

 壁に跳ね返り、今度は、教室の備品までも呑み込んで俺達の足跡を踏みつぶしていく。

 机やいすがゴロゴロと音を立てて回転しながら向かってくる。表現は安直だが闇鍋そのものだ。

 何が入っているか分からない。何が入っていてもおかしくない。

 痛み、悲しみ、叫び、そして死。ネガティブなイメージの固まり。カオス。

 俺達はリノリウムの廊下を蹴りあげ、一直線に階段へ。階段はもちろん一段とばしで駆け上る。黒い波も階段を駆け上る。予想していたとおり高さなど関係ない。生き物のように側面にはいずりながら迫ってくる様は、溶岩というよりも物の怪の類だ。

 廊下、壁、窓、天井。それが黒に覆われている。まるで黒い食道にいるみたいだ。俺達は食道に入り込んでしまった食物。消化される運命。目玉をよだれのように落とし、腕の関節がもろくも外れ、骨が丸見えになる。内臓は尻の穴からどばどばとはき出される。

 それが絶望のしようとしている消化に違いない。

 ……背筋を駆け上がる悪寒。

 目の前の扉を抜ければそこは屋上だ。それが最後の望み。

 叩き破るしかない。俺と佳乃のショルダータックルは、希望への前進だ。


 ――インパクト。


「開かない!」


 俺の叫びに佳乃が舌打ちで応じた。

 佳乃はなおも体当たりし続ける。硬質な音が佳乃の肩を痛めつけた。背後を振り返れば、天井を這い回る黒の波。どくどくと脈打ちながら階段を上ってくる。階下はすでに黒の海。

 俺は恐怖に頬を引きつらせながら、佳乃と同じく扉に体当たりする。


「開けよっ!」


 肩をぶつける俺。


「開きなさいよ!」


 扉を蹴り上げる佳乃。

 黒が階段を駆け上る。壁をなめ回す。

 俺達までの距離は残り十三階段。

 それは皮肉にも死へのカウントダウンとなる。

 一段、二段、三段。

 足下から切り刻まれるような戦慄の数え歌。粘着質の漆黒。迫る奔流は、死神の鎌が首筋にあてがわれるような嫌悪。俺達の前方をふさぐ扉は堅牢。蹴り上げ、殴りつけても、せいぜいへこむぐらいだ。

 残り階段数は十。

 秒数に換算したら十秒とないだろう。


「仁、合わせなさい!」


 扉の前で佳乃と視線を交錯させる。


「分かった!」


 背後に接近した死神。俺の背中を袈裟斬りにしようと、鎌を大きく振り上げる。


「チャンスは一回よ!」


「ああ!」


 背後が暗闇に覆われた。おぞましい黒の群れ。

 分かる。追いつかれた。もう猶予はない。


「三秒カウント! 三、二――」


 瞬間、俺の思考に迷いが生じた。


「佳乃! ま、待ってくれっ! それって三、二、一、零になったら飛び出せばいいんだよなっ!?」


「馬鹿仁! それじゃ四秒じゃない!」


 影が大口を開ける。頭上に迫ったそれは、まさしく絶望のあぎと。


「もういいわ! 一、零!」


 再開されるカウント。俺の頭はパニックだ。

 俺と佳乃が飛び出す。

 一斉かどうかは分からない。タイミングは分からない。同時か、時間差か。生と死を分かつ境界。時間差だったらアウト。試合終了。タイミングを確認するか。いや、無理だ。そんな余裕は皆無。ただ賭けるしかない。俺達の絆に。

 俺と佳乃の意志が固いか、それとも扉の材質が固いか。

 勝負の時。

 死神の鎌が俺の首筋をかすめていく。佳乃の髪の毛をつかもうとした絶望の手が空気をつかむ。肩が壊れたっていい。どんな痛みが襲ったっていい。

 開け! 開いてくれ!


 ――インパクト。


 扉が限界までたわんだ。あれだけ頑丈だと思えた扉の蝶番。緩んだねじが、蝶番ごと背後で口

を開ける黒に呑み込まれる。俺達ではない。間違っても俺達ではない。

 扉が前倒しになり、俺達は屋上にまろび出た。何回転かの前転を経て、前のめりの屋上の地面をなめる。

 ……結局、佳乃は四秒を選択してくれた。

 最後の最後まで……本当にツンデレだ。


「違う! ここじゃないわっ! まだ上に行かないと!」


 俺のため息を無視して、佳乃が星一つない闇の空を見る。

 俺は瞳を巡らせる。屋上のベンチ。俺と佳乃の思い出の場所。昼休み、騒がしい仲間達とともに昼食をとった場所。佳乃の卵焼きの味を知った場所。大切な場所。それらは無情にも俺達を執拗に追跡する黒に汚されてしまった。チョコレートのように溶けていくベンチ。なくなってしまう。消えてしまう。

 ……無力だ。逃げるしかない俺はあまりにも無力だ。

 四つんばいになりながらも、俺達は何とか屋上の最奥までたどり着く。背中に転落防止金網のぎしという感触。ついに袋小路だ。歯ぎしりする佳乃。


「あんたと一緒に行くって決めたんだから。あんたを連れて行くって決めたんだから」


 佳乃が屋上にあふれ出した暗闇から俺をかばおうと前に出る。


「必ずあるはず。上に行く道が」


 首を巡らせて屋上のあらゆる箇所に目を凝らす。


「……っ! あった!」


 見つめたのは屋上の隅。壊れかけた金網。


「行くわよ、仁!」


「行くって、どこに!」


 金網の先は真っ暗闇。


「上よ、上!」


 壊れた金網の先。広がる黒の海……その先があるとはとても思えない。光も届かないこの闇に上も下もあるものか。


「上ってどこだよ!」


「…………あんたの本来いる場所。あんたはそこに行くの」


 言葉の意味を詮索する間隙も与えてはくれなかった。


「飛ぶわよ」


「……何をっ!?」


 強引に俺の腕をとって、暗闇に飛び込んでいく。佳乃がしっかりと俺の腕をとっていてくれる感触だけが、はっきりと俺の腕に残っていた。そしてそれが、俺の力の糧になってくれる。佳乃と一緒なら、どこへでも行ける。どんなこんなんにも立ち向かっていける。

 そう思わせるに足る体温が、佳乃から深々と伝わってくる。佳乃は、俺を一体どこへ連れて行こうとしているのだろうか……?

 俺は理解できずにひたすら逃げ続けた。

 訳も分からずひたすら上へと逃げ続けた。

 思い出が、まるで車窓から見える景色のように目の前を通り過ぎていく。

 学校から始まり、行きつけのゲームセンター、よくゲームを予約した電気店、雨の日の公園や、いつもと変わらない住み慣れた俺の家、家族が減っても表札に書かれた名前が消えることのない佳乃の家、割れた写真立ての破片が散らばる夏目の家に、通路にタイヤが敷き詰められたウメの家。

 まるで走馬燈のようだ。記憶の中を必死に逃げ回っている、そんな感じがした。

 ……絶望はどこにでも現れる。

 手始めに学校を簡単に呑み込み、ゲームセンターのクレーンゲームから飛び出し、電気店の大画面液晶テレビから流れ出る。俺の思い出という思い出を黒で染めながら、俺達を執拗に追い回した。俺と佳乃は必死に手と手を取り合い、あるいは励まし合いながら、階段を駆け上がり、はしごを登り、坂を上る。

 走りすぎて息を切らしたかと思えば、しばらくして肺にトゲが刺さったように痛みだし、最後には酸欠で頭痛を誘発する。

 もう駄目かと何度もあきらめかけた。

 けれどその度に俺の前を行く白いワンピース姿の女の子に励まされた。励まされたと言うよりは、尻を叩かれたと言った方がいいだろうか。優しくすることだけではなく、時に厳しく、俺を上へと導こうとする。上に何があるのか。それすら分からないままに、俺は彼女の言葉に従うしかなかった。

 でも、どこかで俺はそれを望んでいたのかもしれなかった。

 もしかしたら、一生こうして佳乃と走り続けることになるのではないか。

 それは、逆に好都合ではないのか。

 心のどこかでそれを望む声がする。そこがどんなに深い闇の中でも、身動きのとれない泥沼であっても、身を切るような茨の道でも、佳乃と一緒なら。佳乃がいれば、俺は耐えられるような気がしていた。

 だから俺は……上に向かった先にあるものなんて、頭から消えそうになっていた。


「……行き止まり?」


 膝に手をついて肩で息をする。頭がくらくらした。

 もしも眼球に照明などという機能がついていたら、きっと死にかけの蛍光灯のようになっているだろう。それぐらい視界が明滅を繰り返していた。貧血で倒れる瞬間というのはこんな感覚なのだろうか。


「……仁、違うわ。ここは行き止まりなんかじゃない。ここが私の目指していた場所……私達が目指していた場所」


 自分の言葉選びに満足がいかなかったのか、佳乃は複数形に言い換えた。あえて複数形にする意味を俺は理解できない。


「かっこよく言えば、そうね……ここは終わりの始まりであり、始まりの始まりなの……って、これだと余計にこんがらがるわね。要するに、ここが終着駅で始発駅なの」

 やはり、自己分析した通りだった。

 俺の中に落胆が広がっていくのが分かる。苦しく上下する肺の奥から、今まで感じられなかった怠惰がひょっこりと顔を出し、吐き出す息とともに広がっていく。

 上に行かなければならない。佳乃はそう言った。

 目的、目標があるということは、進むべき道、先があるということであり、裏を返せば終わりもあるということだ。

 行くあてもないということは、終わりがないことと同じ。

 行くあてがあるということは、終わりがあることと同じ。

 俺が声に出さないまでも、心の日陰で望んでいたのは、行くあてなく佳乃と一緒にさ迷い続けることだったに違いない。

 だってそうだろう。そうすればずっとずっと佳乃と一緒にいられるのだから。

 絶望が追いかけてさえ来なければ、俺はずっとここにいられたんだから。


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