第三十一話・「……仁君、起きて」
太陽光を吸い込む水面にも似たきらめきが、うっすらとまぶたの向こうに見えた。
夢と現実の境界があるとすれば、まさにこんな感じだろうと自分勝手に考えてみた。
確証はない。そもそも見たことも聞いたこともない場所に確証など存在するはずがないのだから。それでも、感じることのできる情報を整理すれば、体は軽く、何の抵抗も感じないということが分かる。ゆっくりと落ちていくような、それでなければ、浮かんでいるような。どちらともとれない不思議な感触だった。
母親の胎内、生まれる前から与えられてきた優しさ。愛に満たされた羊水の中。
俺は誰かに揺り動かされていた。
「……仁君、起きて」
聞いたことのある目覚まし時計の音。
きっと世界中の目覚ましを探しても、こんなに優しい声で起こしてくれる目覚ましは見つからないだろう。そんなことをまどろみの中で思っていた。
「仁君ってば」
俺は起きようとすればいつでも起きられるのに、あえて眠ったふりをしている。決してたたき起こすわけではなく優しく体を揺り動かしてくれるのは、俺を思ってのことだろう。起こすというよりは、母の腕の中で聞く子守唄のようだ。
「あと五分……」
寝返りを打つ。声から逃げるようにして布団を手元にたぐり寄せる。
「もう、仁君。毎朝起こしに来る私の身にもなって――」
飛び起きていた。
柔らかな幼馴染みの手を握りしめようと、瞳孔が閉じぬまま手をのばす。眠ったふりをしている自分も、あと五分寝かせておいて欲しいと懇願する睡魔も、乱暴にはじき飛ばした。
「……ここは?」
声のする方向、俺を揺すっていたはずの幼馴染みの手はそこにはない。
空気――幻想――をつかんだかとがっかりしたのもつかの間、俺の握りしめた拳の先には突き抜けるような青空と、純白の綿雲があった。太陽を隠した綿雲は、平原を自分の形に切り取り、黒く大きな影を落す。
影は風に手を引かれて、徐々に場所を移していった。風に揺られて動く雲、横たわる俺。当然、影に覆われていた俺は、太陽の下にさらされることになる。あまりのまぶしさに、睡魔は一目散に逃げていく。
手元にたぐり寄せた布団を小脇に払いのけ、俺は立ち上がった。
「ここはどこだ……?」
右を見る。地平線が遠く果てない先にうっすらと見えた。
左を見る。地平線が遠く果てない先にうっすらと見えた。
見渡す限りの大平原。そよ風が草花を揺らせば、背の低い葉が膝をくすぐる。
うねることのない平坦な大地。目を細めて遠方を眺めても、山も丘陵もない。地平線だけが俺を取り囲んでいる。まるで巨大な輪が俺を閉じこめようとしているかのようだった。
足下。名も知らない白い花の周りには、二匹のモンシロチョウが戯れていた。つがいなのだろうか。楽しそうに花々のウインドウショッピングを楽しんでいる。
音もなく、ふわり、ふわり。
見上げれば、頭上を旋回するトンビの高らかな声。気持ちの良い声が、草原に響き渡っていく。次いで頬を撫でるのは、ゆるやかな風。それは俺の心を癒す、心地のよい手のひら。
肺を解放して空気を呼び込めば、手のひらが連れてきた清浄な空気の匂いだけでなく、足下に咲く小さな花々や、遠くに見える湖畔のみずみずしい香りなども味わうことができた。
緩やかな風が運んできたのは、なにも草花の匂いだけではない。
背後を駆けていく馬群。大地を蹴るひづめの音。地震かと勘違いするほどに力強く下腹部に響いてくる。距離が近いので、たなびく黒いたてがみがよく分かる。
――なんだろう。すごく心地が良い。
太陽の光が雲間から伸び、草原を切り取り始める。あまりの荘厳な景色が胸を突く。
緑色の大地に、青い空。
二色にはっきりと大別された、心和む目に優しい自然の情景。そこに絶えず横たわる静寂。
俺は目を閉じる。
太陽がこんなに煌々と輝いているのに、なんて静けさなのだろう。
こんな太陽の下で見慣れている俺の景色といえば、渋滞する車のクラクションや、参勤交代のような人々の通勤、通学風景。電車に敷き詰められた人々のあまりにも気だるそうな顔や、高層ビルの谷間を揺らす陽炎ぐらいだ。忙しそうに汗を流し、靴底をすり減らす都会の喧噪。機械の稼働音を耳にしない日はない。当たり前に何かが高速駆動し、当たり前に何かが高らかに鳴り、当たり前に時間を縛られる。
そんな日々の雑音に囲まれる日々。
どうして多忙な社会人が余暇に静かなところに行こうとするのか、少しだけ分かった気がした。
それは何も聞きたくないから。自分を縛る忙しそうな音を聞きたくないから、静かなところに行こうとするのではないだろうか。
それに比べ、この見渡す限りの大平原。
モンゴルで見ることのできる広大な地平線もかすむような、この大平原。
――ここは本当に落ち着く。
不思議なぐらい心が安らぐのが分かる。
できるならば、ずっとここにいたい。心底、そう思う。
天国なんていう場所があるのならば、きっとここに違いない。
人類が至る安住の地。ずっとずっと平和に過ごせる安寧の大地だ。
……目を開ける。
風が見えた。本来見えるはずのない風を見ることができる。
一様に整列している草原の草木が風に揺れるとき、草原の形が風の曲線に歪む。初めて見る風景だった。俺は上京した学生よろしく、物珍しそうに風の行く先を見つめ続ける。
ふと、その先に純白が揺れるのを見た。
真っ白なワンピースに、大きな麦わら帽子。背中まで切り取られているワンピースからは、美しい肩甲骨がのぞく。まるで誰かを待っているかのように草原の真ん中に立ち、上空を見上げている。ワンピースから露出した白い肌は、太陽に焦げてしまわないかとついつい心配になってしまう。
「あの背中……!」
すらりと伸びた背中で、俺はその少女が誰であるか分かった。
引き寄せられるように、草原を歩いていく。そよ風を身にまといながら歩き続ける。
少女は逃げることも、隠れることもしないで待ってくれた。
足音に気が付いたのか、少女は俺が声を掛ける前に振り向く。
ワンピースのスカートが従うようにふわりと揺れた。
輝く純白は、まるでウエディングドレス。麦わら帽子のつばをちょこんとあげて、つばの影に隠れた顔貌を俺に見せてくれる。
微笑み。それは白百合が花開くよう。
「――また会えたね、仁君」
正直、なんて声をかけて良いのか迷っていたから。
「俺……会いたかった、ずっと……」
「私も。また仁君と会えるなんて嘘みたいだよ」
その少女――佳乃の声が本当に嬉しかったから。
俺は感情を止めることができなくなってしまった。
細く柔らかい佳乃の体を否応なしに抱きしめ、透き通るような髪の匂いをかぐ。
佳乃は嫌がる素振りも見せずに、俺の背中に腕を回してくれた。
それがたまらなく嬉しい。
自分が抱きしめた分、同じだけ抱きしめてくれる。
伝えた気持ちが返ってくることの至福。
声のやりとりだけではない、肌と肌のやりとり。
互いの鼓動が行ったり来たりする生のやりとり。
幸福が紡ぎ出す草原での風景だった。
「仁君、私……行かなきゃ」
抱きしめた腕の中から声がした。
「……行く?」
「うん、ここにては駄目だから」
別れを示唆する言葉。
抱擁を解くと、佳乃は俺から一歩後退する。
「どうして? ここはこんなにも静かで、のどかで……なにより平和だし、何も縛るものがない。気持ちが安らぐし、ずっとここにいたいと思えるんだ」
俺は佳乃の手をつかむ。別れを惜しむのではなく、決して別れないように。二度と離れないように。俺はしっかりと佳乃の手を握りしめる。
「それでも、行かなくちゃ」
佳乃が浮かべる微笑みの意味が分からない。
我が子のすることを優しく見守る母親のような眼差し。失敗しても成功しても、最後には優しく頭を撫でてくれるような母性愛を宿したような瞳。母親にとって我が子とは存在そのものが愛しいと聞いたことがある。だとすれば、そんな眼差しを向けてくれる佳乃も俺の存在を愛していてくれるのだろうか。
そんなことを考えれば考えるほど自分という存在が情けなく思える。
それは単なる甘えたがりで、寂しがり屋で、情けない俺の都合の良い解釈に過ぎないから。
「もちろん、仁君も一緒だよ。仁君をここに残したままで行けるはずないよ。私は仁君を迎えに来たの。だって仁君、私が起こしてあげなかったらずっと寝てるもん。朝起こしてあげるのは、幼なじみの役目なんだから」
「そ、そうか……はは……」
俺も、一緒。その言葉に俺がどれだけ救われたことか。
「そうか、って……仁君は覚えていないの? 仁君が教えてくれたんだからね。幼馴染み必須五箇条」
人差し指を立てて得意げに胸を張る。白いワンピースを押し上げるふくよかな胸が、今更ながらにまぶしい。
「一、幼なじみは朝起こしに行かなければならない」
毎朝毎朝、早起きして俺の家に迎えに来てくれた。男の朝の生理現象に顔を赤らめながらも、布団を揺すり、寝覚めには優しすぎる声で起こしてくれた。
嫌々ながらの義務を課せられているというよりは、日常の一部分と化していた意味合いが強かった。俺がそう思えるのは、佳乃の毎朝の笑顔で起きることができた幸福によるものだ。
「二、幼なじみは家事ができなければいけない」
のどかな風景の中で、佳乃の声が体に染みていく。
大地に埋もれた種を発芽させ、双葉がぴょこんという擬音を伴って地面から飛び出すような、滋養強壮と肉体疲労時の栄養補給をかねる声。聞くものを元気にさせるヒーリング効果を持った声だ。単なる幼馴染みゆえのひいき目かも知れない。
「三、幼なじみは家が主人公の隣家でなければいけない」
目をつぶり、声高らかに。それは佳乃式暗記述であり、競技大会の宣誓式のようだ。
「四、幼なじみは世話焼きでなければいけない」
予定調和ではない。こんな景色を予定調和は見せてはくれなかった。
見たことのある絶望、繰り返される悲劇。死者に鞭打つようにそれは悲しみばかりを再上映する。視聴率などゼロに近いのに。視聴者は俺しかいないのに、見せつける。
けれど、この風景は違う。絶望の影などどこにもない。空は群青、雲は白、大地は緑。黒などどこにも見あたらない。この世界は、いつか脳裏によぎった爽やかな風景を体現している。佳乃と二人、まるでアダムとイヴのように。禁断の木の実を食することもなく、平穏に過ごしていける空間。そう馬鹿正直に思ってしまえる。
「五、幼なじみは近くに居すぎて恋心に気が付かないでいなければならない。または、口に出せないほのかな恋心を抱いていなければならない」
ここにいたい。佳乃と、二人で。
「以上、幼馴染み必須五箇条でした」
しかし、佳乃は行かなくちゃ、と言う。こんなに綺麗な世界なのに。
「仁君、私ね、幼馴染み必須五箇条のその五だけは守れなかったんだよ」
いつの間にかうつむいていた俺は、難しい顔をしていたようだった。
あわてて佳乃の笑顔を見ると、強ばった体の力が抜けていく。
同様に、眉間に寄ったしわが左右に広がっていくのを感じ、俺は自分が思考に落ちていたのだと知る。
「ほのかな恋心なんてなかったもん」
頬を淡い桃色に染める。
「ほのかな恋心なんて、とっくに通り過ぎちゃっていたよ。あとは溢れるのを押さえるのに必死だったの」
佳乃が自らの胸の中心を手のひらで押さえた。まるで、そこに心があるかのように。
「今さら、なんだけどね」
小さな握り拳で、自らの頭を小突いてみせる。ちろりと出した赤い舌は、自らの滑稽さを歌う。その佳乃の足下をアゲハチョウがくるくると飛んでいた。佳乃を慰めるように見えたのは、蝶と佳乃があまりにも似合いすぎるからだろうか。
「佳乃……」
手を繋いだままの俺と佳乃。繋いでいるというよりは、俺が佳乃を一方的につかんでいる。
手を捕まれている佳乃が、ころころと表情を変える様子。ひどく懐かしく、心地よい。
昔、こんな風景があった。そんな一言で思い出される過去の情景は、いくらでもある。記憶の倉庫に入りきれないほど。あまりにも敷き詰めておいてあるから、取り出せなくて困るくらい。
本当に大事に、大事にとってある。なかなか取り出せなくても、きちんとしまってある。
「……行こう、仁君」
俺が右手でつかんだ佳乃の左手。
佳乃が右手でつかんだ俺の左手。
二人で一つの輪を作るように、腕と腕を通して気持ちが旋回する。
温かい気持ちが巡る。温もりが巡る。二人で作った円の中にアゲハチョウが舞い込んで、ひっそりと円の中心で咲く一輪の花にとまる。羽を休め、蜜を吸う。黒と黄色の美しい装飾が目にまぶしい。
二人で育ててきた心が、そこにあるような気がした。
「連れて行ってあげるね」
手と手を取り合って、長い年月をかけて、大切に育ててきた気持ち。
それは本当に小さい花。地球から見れば、本当にごくごく微細な芥子粒のようなもの。塵のようなもの。けれど、例え小さくても、育てるという行為に大きいも小さいもない。
そして、育て、花開く瞬間に訪れる歓喜には際限がない。
どんなに小さい開花でも、喜びは無限大なのだ。
――俺と佳乃は恋に落ちた。
たったそれだけ。それだけのこと。むしろ、それだけでいい。
それ以外には何も必要がないんだ。ただ、一つだけ、一つだけ欲を言えば。
……その恋に、もう少しだけ時間が欲しかった。
「ううん、一緒に行こう」
アゲハチョウが佳乃から離れて、ふらふらと飛んでいく。元気に飛び回るというよりは、どこか急いで逃げるという気配。
空がにわかに曇りだし、地平線の彼方が薄くかげり出す。風が強くなり、草花が激しく揺れ動く。
「こっち!」
俺の手を引いて走り出した佳乃は、背後を振り返らない。俺は何が起こったのから把握できずに、佳乃に手を引かれながら幾度となく背後を振り返った。
「黒い、波……? いや、違う」
背後に広がるのどかな景色、極楽浄土に見えた平和な世界が、一転して犯されていた。
黒い触手。あるいは、黒い溶解液。天井に広がっていた青空や、大きな綿雲が、漆黒の絵の具を垂らされたようにまだら模様に汚れていく。
驚きは、浦賀に黒船が来港したときの比ではない。比べるべくもない。
エドヴァルド・ムンクの名画『叫び』にも似た背景の混濁が現れる。ムンクが見た幻想、自然を貫く果てしない叫びが、今まさにこの世界で現出しているように感じられた。
しかし、それも色が存在してこそ。
どんな名画も無情な黒の一滴が落ちれば、ただの駄作に変わる。それと同じく、蒼穹に膨大な黒が染みていく。ムンクが描いたような芸術性の欠片もない。
真っ黒なのだ。
なぶり、食らい、襲い来る。
黒の先は奈落なのか、壁なのか。
黒の先は消失なのか、影なのか、暗闇なのか。
黒の先は落ちるのか、死ぬのか、塗りつぶされるのか。
それすらも分からない黒の波。草花を枯れさせ、すぐさま黒で塗りつぶす。
花は落ち、茎は折れ、芽は大地に横たわる。草原を駆ける馬を引きずり倒し、肉食獣のように黒い触手でとらえ、捕食し尽くす。血も涙もない。モンシロチョウの羽はコールタールのような黒が染み込んでゆき、すぐに墜落した。そのときすでに地面には黒があり、蝶は静かに呑み込まれていく。
押し寄せる黒々とした津波に、世界は犯されていった。
「仁、早く立ちなさいよ!」
足がもつれて転んでしまった俺を、佳乃が強い口調で叱咤した。
いつの間に入れ替わったのだろう、気の強い佳乃が主導権を握っていた。判断を下したのがどちらの佳乃であるにせよ、この状況下ではそれが正解なのかも知れなかった。
俺は佳乃と手を繋いだまま起き上がる。
すでに世界の半分が黒で覆われていた。
「駄目だ、追いつかれる!」
絵の具を垂らすなどという生やさしい表現は、もはや背後の景色には合致しない。黒い核爆弾が破裂したかのよう。すさまじいスピードで地平線の彼方からやってくる黒の爆風。
「佳乃!」
俺は佳乃の手を必死に握りしめた。
「仁!」
背後を見るのが怖かった。
世界が黒に浸食されていく様を見るのは、胸が張り裂けそうだった。
再び巡り会うことができたのに。一緒に行こうと笑いかけてくれたのに。
幾億という魔手が、手を取って逃げる二人背後に伸びる。
音はない。だからこそ、余計に恐ろしい。
忍び寄るとは言い難いスピードなのに、無音。
ドロドロとして、重くて、冷たい。
デジャビュを感じた俺は、すでに黒に呑み込まれていた。
佳乃と繋いだ手だけが、ほのかに温かい。
それだけが唯一の救いだった。
……違う、これはデジャビュじゃない。
無いと思っていたはずのものが、再び猛威を振るっているに過ぎない。
平和だと思っていた世界が、侵攻を受けている。逃げられない。
何度も何度も、俺はこの黒い液体に心身を犯され続けた。
呆れるほど苦しんで、呆れるほど身もだえて。
それでもなお、俺を苦しめ続けるもの。
暗闇。漆黒。暗黒。夜陰。暗澹。
いくつもの嫌悪を総称して。
俺はこう呼んでいる。
……絶望、と。