第三十話・「杏里」
感覚のない真っ暗な空間で、俺は誰かの一人語りを聞いていた気がする。昔々、母親に聞かされた昔話のように。まどろむ意識、記憶に残るか残らないかの曖昧な境界線の上で、俺はその声に抱かれていた。その声は、前置きも何もなく、ただ優しい声でこう始まった。
……先輩、聞こえていますか?
杏里が先輩を初めて見たのは、高校に入学してすぐのことでした。
先輩は屋上で楽しそうに友達とお話をしていました。
杏里はまだまだ新入生、若葉マークを貼り付けた生徒でしかなかったのです。
友人と呼べる人も、気兼ねなく話せる親友も……残念ながらいませんでした。なので、ふと訪れてしまう寂しさに、気が付けば昼休みの教室を抜け出していたのです。
誰か呼び止めてくれる人はいないかな、昼食を一緒にとろうと誘ってくれる人はいないかな、淡い期待を持ちながらわざとゆっくりと教室を出ました。
……でも、現実は厳しいものなのですよね。
杏里に話しかけてくれる子は誰もいませんでした。
自分から話しかければ自ずと会話の輪ができあがるのでしょうけど、当時の杏里はあまり積極的ではなかったのです。
引っ込み思案で、自分の気持ちを隠してしまって……。
え、あ、あの、嘘ではないのですよ?
まだ――ここ強調なのです――積極的な人間になれなかったときのことなのですから、あまり詮索はしないで欲しいのです。それに、ここでツッコむのは野暮というものです。話の腰を折るというものなのです。
えとですね……そんな杏里でしたから、何となく楽しそうな先輩達の会話が気になってしまったんでしょうね。購買で買ったサンドイッチ――カツサンド――をちびちびと口に運びながら、楽しそうな先輩の会話を盗み聞いていたのです。
ぽけぽけとした女の子の会話がむずむずする一方で、なにやら騒がしい声がします。
二言目には、お兄ちゃん、お兄ちゃん……間違えました。
第一声からお兄ちゃんだったのです。
その小柄な女の子は、お兄ちゃんであろう男子生徒に向かって猛烈にアピールしていました。
見ているこちらが恥ずかしくなってしまうほどの猛烈ぶりなのです。
あ〜ん、して。
そんないたれりつくせりなシチュエーションが当たり前のように繰り広げられていることに驚きです。今どきの学園生活はどうなっているのでしょう。
そのときは正直不安で仕方がなかったのです。
すみません……そんな兄妹の風景は置いておいて、先輩の話に戻します。
杏里も、まさか話がそれるとは思っていなかったので、大いに反省です。
木の幹に手をついて、頭を垂らして……はい、反省なのです。え……古いですか、そうですか。
えと、ですね……先輩のそばには、とても可愛い女の子がいたのです。
さらりとした髪の毛が太陽の光できらきらと光っていて、まるで手入れの行き届いた三冠馬のたてがみみたいなのです。杏里の見立てでは、凱旋門賞も夢ではないたてがみ――髪の毛具合なのです。でなければ、エリザベス女王杯ですね。加えて、ぱりっとした制服は新入生の杏里が着ているものと変わらないくらいに清潔感が漂っていました。毎日の手入れを欠かしていない証拠なのです。他の先輩達が少しよれっとしているのに比べて、本当に驚きだったのです。
もちろん、可愛いと思ったからには、顔が整っているのは言うまでもないのです。
つぶらな瞳は女の子の誰もがあこがれるし、少し童顔が交っているところは男心をくすぐります。先輩に対する仕草や、先輩を見つめる眼差しも乙女そのもの。
これはもう、恋する乙女。
杏里は一瞬で見通したのですよ。先輩と二人、仲むつまじそうに。まるで光合成でもするように、互いの存在を支え合っているのです。
昼は太陽の光を受け取って元気に活動し、夜は二酸化炭素を吸って酸素を作り出す……。
……例えがわけ分からないですか?
むむ、杏里は小説家ではないのです。それぐらい我慢して欲しいのですよ。
とにかく、そんな二人に……先輩に寄り添う女の子に抱いたファーストインプレッションは、嫉妬を通り越して尊敬だったのです。
杏里もあんな風になれたらな……不覚にも思ってしまいました。
今では、少しだけ後悔しています。やっぱり、不覚だったのです。
会話の内容は、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎてあまり思い出せないのですけど、確か……鹿岡兄先輩に購買で飲み物を買うお金を借りていたらしくて、そのことについて鹿岡義妹さんにいろいろと言われていました。
そのあまりのねちねち具合に怒った先輩の一言なのです。
――購買ごと返してやる!
先輩、学校は買えませんよ?
話に混じっていたわけでもないのに、杏里はくすりと笑いをこぼしてしまったのです。
そんな杏里に気が付いた先輩が、恥ずかしそうに鹿岡兄先輩に八つ当たりしていたのが、ほほえましかったのです。
そんな風にして先輩を一方的に知ることになった杏里は、不意に先輩を見つけると目で追うようになっていました。
不思議です。毎日の日課というか、銭湯の風呂上がりに飲むコーヒー牛乳だとか、温泉でする浴衣姿の卓球だとか、ビールについてくる枝豆だとか、カラオケボックスに店員さんが入ってくると恥ずかしくなって歌うのを止めてしまうだとか……言っていて何が何だか杏里も分からなくなってしまいましたが、とにかく不思議なのです。
杏里は先輩を心にとめておくようになっていました。
楽しそうな先輩。
その笑顔が杏里に向けられているわけでもないのに、杏里は嬉しくなっていることに気が付いたのです。まるで、杏里が気さくに先輩に話しかけたら、先輩は当たり前のように明るい挨拶を返してくれるような気さえしていたのです。
……杏里は馬鹿ですね。
そんなことあるはずないのです。先輩を知ったような気分になっていただけなのです。
そんなこんなで、杏里は先輩を意識するようになりました。先輩は杏里のことをちっとも知らないですけど、杏里はだんだん先輩のことを知るようになっていったのです。
初めに知ったのは、いわゆる先輩がオタクって人種なことでした。見かけによらずですね、先輩。でも、そんなことは、なんの障害にもなりませんでした。一番障害になったのは、杏里の臆病さ加減なのです。杏里は見ているだけで半年、名前を知るまでさらに半年という充電期間を経て、ついに先輩にアタックすることに決めたのです。そんな杏里の桃栗三年柿八年でした。
恥ずかしついでに色々と告白……白状するのです。
いいですよね。ここまで、聞いてくれたのですから、最後まで聞いて下さいなのです。
先輩と廊下の曲がり角でごっつんこしたあの日。先輩と初めてつながりを持ったあの日。
杏里が先輩とぶつかったのは……わざとなのです。
先輩が教室から出てくるのを不審者同然の格好で待っていたのです。
廊下の角から、顔を出して、きょろきょろして。くすくす上級生の皆様から笑われたのです。……恥ずかしかったのです。
ですが、先輩とお知り合いになれるのならなんのその。
杏里は耐える女の子です。お母さんの娘で良かったのです。
お父さんは、もう少しお母さんに優しくするのです。
さて、いざ先輩が現れたらあとは簡単でした。わざと仰向けに倒れて見せて、勝負パンツ(赤)をのぞかせて……いざとなると、恥ずかしいものなのです。もう、やらないのです。ちなみに色彩心理学では食欲増進の色だったりします。
……でも、先輩はそんな杏里のパンツをのぞいたりはしませんでした。のぞいてはくれませんでした。
それどころか、そのときの少し悲しげに杏里に手を差し伸べてくれた先輩の表情が、杏里をつかんで離さなくなりました。
そんな不意打ち、ずるいです。そんなもの悲しい表情を浮かべる先輩がとてもとてもずるいのです。
先輩は杏里の心を泥棒していきました。
……でも、そのときはすでに先輩の心も泥棒されてしまっていたのですよね。
遠く離れていった、あの女の子に。
先輩のそばでいつも笑っていた人。赤い糸で結ばれていた人。宿世から決まっていた人。
――夕凪佳乃先輩。
彼女がいなくなったととうこと。亡くなってしまったということ。
だから、先輩は悲しくて仕方がなかったのですね。杏里の勝負パンツに気が付かないほど。
それでも、ぶつかって転んだ下級生に優しく手を伸ばそうとする健気な先輩。
……本当にずるいのです。
先輩に近付きたくて、夕凪先輩の鞘に収まりたくて、影で企んでいた杏里が醜悪な存在に見えてしまうのです。考えたくなかったのに、先輩のそんな顔を見せられたら、杏里は身も心も捧げたくなるじゃないですか。笑顔にさせてあげたくなるじゃないですか。
杏里は卑怯です。
先輩とごっつんこしたときには、そのことを知っていました。だから、先輩に近付きました。廊下の角でごっつんこして、先輩に近付いて、話せるようになって、明るく振る舞って、先輩の悲しみで空いた心の隙間に入り込もうとしたのです。
杏里は先輩のことをどんどん知っていくのに、杏里のことを先輩はちっとも知ってくれない。
差は開く一方です。
何馬身差ですか? ……違うのです。
まだ先輩はスタートしていないのですね。
杏里ばっかり、杏里ばっかり、焦っているのです。馬鹿みたいです。悲しいです。虚しいのです。 でも、そんな先輩が好きなのです。これだけはどうしようもないのです。
本当に、杏里は自分自身の心に参っています。杏里は先輩には隠し事はしていないつもりです。
醜い杏里のことはもう言いましたよね。でも、それでも先輩に隠していたことがあるのです。
嘘をついていた……と言った方が正しいのかもです。
……先輩、杏里はMではないのです。
驚きましたか? 嫌いになりましたか?
残念ながら、その言葉に嘘偽りはないのです。杏里は先輩に触れ合いたいがために、Mだと偽ったのですよ。女って怖いですね。ずるい自分が怖いのです。
Mは叩かれる痛みが好き、いじめられるのが好き。
なら先輩も、そんな杏里をいじめてくれるのではないか、叩いたり言葉責めしてくれたりしてくれるのではないか……。
それはつまり、先輩に触れてもらえる、話しかけてもらえるということなのです。
安直なのですけど、杏里はそう考えたのです。
そんな杏里は変態ですか?
でも、惚れた弱みってヤツなのです。メス犬呼ばわりされても構わないのです。首輪をつけられても構わないのですよ。
先輩、杏里は先輩のために自分を改造人間のように作り替えてしまいました。
先輩のためにオタクの勉強をしました。アニメだってたくさん見たのです。
先輩の話について行けてるのが証拠なのです。英語が理解できるような感覚で感動だったのです。キャラだって多分立っていると思うのです。
そんなこんなで今では、先輩のために変えた杏里(先輩用)が、本当の杏里自身になってしまいました。
えへへ……馬鹿ですよね。同情の余地もないのです。自嘲なのです。
先輩に見て欲しくて、話しかけて欲しくて、触れて欲しくて、杏里は杏里を先輩色に染めたのです。
……でも、先輩の心の中には、いまでも夕凪先輩がいるのです。
気が付けば、先輩はいつもお外を眺めています。杏里と話しているときもどこか上の空だったりとか、ドアを見ていたりとか、何もない中空を眺めていたりとか。
先輩、そこに夕凪先輩がいるのですか?
いるのですよね?
夕凪先輩が先輩を呼んでいるのですか?
呼んでいるのですね?
夕凪先輩がお外を歩いているのですか?
歩いているのですよね?
夕凪先輩がドアから入ってきてくれると思っているのですか?
思っているのですよね?
……先輩、駄目ですよ。夕凪先輩はもう現実の人ではないのです。現実にいるのは杏里なのですよ。夕凪先輩はいないのですよ。
だから、先輩、杏里を見てください。そばにいる杏里を見てください。声をかけてください。おもちゃにしてください。そして、微笑んでください。
……それでも、先輩はそんな杏里の胸の内を知らずに、お外を見ていました。
夕凪先輩を探していました。
どうしてですか、先輩。先輩は、杏里がこんなにしても見てくれないのですか。
なら、何をしたら見てくれるのですか?
……ごめんなさいなのです。杏里はカルシウムが足りませんね。
ずっと想い続ければ願いは届く。努力すればきっと叶う。
だから、この想いもいつか必ずむくわれる筈なのです。
わがままですけど、報われない恋なんてしたくないのです。
ドラマや、アニメや、映画だって、純情に想っていれば報われるじゃないですか。
本屋さんに並んでいる純愛小説を見てください。みんな最後は結ばれているのですよ。
キスして、抱き合って、幸せになるのです。あこがれるのです。うらやましいのです。うらやましくて、親指をくわえてしまいそうです。
そんな杏里の最後の手段。
それが、夕凪先輩の後がまではなく、夕凪先輩の代わりになることでした。
杏里はいくじなしなのでしょうか。弱い女なのでしょうか。
でも、先輩に愛されたいのです! 好きになって欲しいのです!
どうしようもなく、先輩のそばにいたくて、先輩の体温に温められたいのです。
杏里は先輩に触れられただけで、その指先一つでダウンしてしまうほど嬉しくなります。
あべし! とか、メメタァ! ……って感じなのです。
先輩はたった一さじで人を死に至らしめる青酸カリですね。超強力です。
先輩のそばにいて、夕凪先輩のようになる。それしかないと思ったのです。先輩に好きになってもらうには。
……でも、でも……夏目さんや、ウメ先輩……どうして杏里の場所をとろうとするのですか。
まるで、杏里がここにいてはいけないような、先輩のそばにいてはいけないようなことを言うのですか?
杏里は今が良いのです。夕凪先輩の代わりとして、先輩のそばにいてあげること。先輩の悲しみを取り除いてあげられる気がするし、杏里も幸せになれる気がする。良いことずくめなのです。一石二鳥です。……でもなぜか、少しだけ胸が痛いのです。
……先輩。大好きな、佐々木仁先輩。
不器用で、真っ直ぐで、やせ我慢して、決して涙を見せないオタクな先輩。
誰より寂しがりやで、繊細な先輩。温かくて、優しくて、他人思いで。
知れば知るほど、うち解ければうち解けるほど、触れ合えば触れ合うほど……まるでカイロのように温かく染み込んでくる先輩の純粋な内面。
好きです。とっても温かいです。晴れの日に干した毛布のようです。ばふりと抱きしめたくなります。顔を埋めて、頬ずりして、匂いを胸一杯にかぎたくなります。
だから、独占したいと想ってしまう。
杏里は欲張りで、どうしようもない子なのです。
先輩の心は夕凪先輩盗まれて、取り返せなくて。杏里は、私が盗みました、なんて嘘をつくような感じで。もう、何が何だか分からないのです。自分で言っていて、意味不明なのです。意味なんて無いのかも知れないのです。この通り馬鹿な子なのですよ、杏里は。
ねぇ、先輩。
杏里の、体も、心も、全部あげます。だから先輩、笑ってください。にこにこって。
そして、もし先輩が杏里のことを好きになってくれたら、もしもそんな日が来たとしたら、そのときは……そのときは……。
優しくしてくださいね、先輩。痛くしないでくださいね、先輩。杏里の名前を呼んでくださいね、先輩。
恥ずかしいですけど……てへへです。
最後に、杏里は先輩に恋をして思ったのです。
恋はするものではなくて、落ちるもの。
そこから生まれた感情に付ける、この言葉に陳腐だなんて言わせないのです。
絶対に、誰にもです。恋から生まれた杏里の気持ちは本物です。大事な大事な一生の宝物です。
……だから、杏里は言います。
杏里から、先輩へ。
届け。
心から心へ。
――……愛してます、先輩。