第二十九話・「先輩」
俺がゲームの主人公だったり、ドラマの主役だったり、あるいはこの場面が映画のクライマックスや小説のラストシーンであったなら、きっと十中八九、公園から飛び出していく杏里を追いかけるのだろう。
大切なものに気が付いて、全てのしがらみを捨てて、杏里を力の限り探すのだろう。
――探さないでください。
杏里の去り際の言葉が思い起こされる。
俺はゲームの主人公でもなければ、ドラマの主役でもない。
俺が全力で走っているのは、映画のクライマックスだからでも、小説のラストシーンだからでもない。
飛び出したのはいい、杏里を捜すことを決意したのはいい。
「何がしたいんだ……俺は……!」
大切なものに気が付いたわけでもないのに。全てのしがらみを捨て去ったわけでもないのに。
……俺はどうして走っているのだろう。
雨がそんな俺を追い返そうと、顔面に攻撃を仕掛けてくる。空から槍が降るというジョークも、今なら何となく理解できそうだった。
風が出てきたところで、視界も悪い。横殴りになりつつある雨は、さながら空から降る槍。
自然が俺を追い返そうとしているかのような悪天候の中、俺は何がしたいのかも分からずに杏里を探している。
「……仁、先輩……?」
走り始めて十分ほど経った頃だろうか。
色とりどりの傘で華やぐ駅前通り。傘もささずにびしょ濡れで、なおかつとぼとぼと歩いている女の子を発見した。雨が小降りになっていたのが幸いした。杏里を見つけたとたんに小降りになる雨は、相当に意地悪だと思える。
逆に俺が杏里を見つけるのが運命だったかのように雨が小降りになったと考えれば、多少なりともドラマ的なのだろうが、そんなことは些末ごとだ。神のみぞ知るところに、俺のような凡人の意志を挟む余地はない。
「……探さないでって、言ったはずなのです!」
杏里は向い側から走ってきた俺を目にとめると目を丸めた。ウメを追跡していたときもそうだったが、俺は案外運がよいのかもしれない。
「今、先輩に探されると、本当に醜い人間になってしまうのです……!」
杏里が顔を伏せると、短い前髪から大粒の雫が次から次にしたたっていく。一体どれほどの雨水を吸い込んでいるのだろうか。
いや……それだけ風雨にさらされ続けたのだろう。
「だから、探さないでください!」
接近すると逃げてしまう臆病な草食動物。回れ右して急に走り出すから、相合い傘で仲むつまじく歩いていたカップルを突き飛ばすことになってしまう。
尻餅をついた女の子が大声で悪態をつくのに内心困惑していたようだったが、杏里は謝りもせずに駆けだしていく。そんな女の子の豹変に苦々しく顔を歪めていた男のわきを、俺は駆け抜けていく。
揺れるビニール傘の向こうに杏里が透けて見えた。
準備運動も無しに走り出してから十分以上。運動不足のツケが、体をむしばみ始めていた。
酷使した肺が握りつぶされるような痛みを訴えてくる。呼吸をする度に、のどの奥で何かが引っかかっているような気がしてならない。空気の通り道を何かがふさいでいる。まるでかぎ爪のような鋭いもの。それらが気管のあちこちに生えているような感覚。酸素の出し入れを妨害している。
だから、早く走れない。燃焼が間に合わない。 少ない酸素では、爆発的な力も得られない。
杏里に追いつくこともできない。
体の節々が痛い。骨と骨がきちんとかみ合っていないのではないか。足の骨が外れてしまっているのではないか。こすれてすり減ってしまっているのではないか。
靄がかる視界の中で、俺は舌打ちをする。
「……く……そっ!」
右も左も傘、傘、傘。人混みと、傘の群れ。
ジャングルの羊歯植物をかき分けて進むような奇妙な光景。
色とりどりの傘の色は混ざり合い新たな色を作る。薄い色が濃い色に呑み込まれ、またあるものは透けて見え、杏里の姿にフィルターをかけていく。
セピア色。グレースケール。ネガ反転。ペイント系ソフトウェアで風景写真を加工するように、現実の風景が交わり、色を変えていく。
現実に見るものではない。試したことはないが、ドラッグを服用するとこんな景色が見れそうな気がした。もしくは、ランナーズハイとか、熱中症になる直前とか。
視界がかすんでいく。頭も痛い。足の節々が砕けそうだ。肺は臨界点を軽く越え、メルトダウン寸前。雨でべとつくワイシャツは鋼鉄の鎧のように重く感じられる。
体にまとう全てが鬱陶しい。
――後ろ手に脱ぎ去ったワイシャツは、雑踏と傘に飲み込まれてあっという間に消失した。
「…………な……んだ?」
脱ぎ捨てた瞬間、ノイズのようなものが俺の頭に入ってきた気がした。ひときわ強烈な頭痛が襲ったかと思うと、目の前の景色がテレビの砂嵐のように乱れた。
いや、違う。
俺の頭の中に何かが入ってきたのではなく、出てきたんだ。
俺の頭の中から、まるで……デジャビュのように。
「構っていられるかっ!」
走りながらに崩壊してしまいそうな体をさらに酷使して、俺は杏里の背中手を延ばす。まだ十メートル以上先なのに、すぐにでも届きそうな距離にあるように感じる。遠近感までおかしくなってきていようだ。
傘もささずに俺から逃げる女の子。俺はただその背中を一心不乱に追っている。
車窓から見える風景は、その早さゆえ、細部をとらえられない。後ろに置いてきた老若男女の顔が全てのっぺらぼうだったような気がする。粘土でこねられたような適当な輪郭だったような気がする。……が、今はどうでも良いことだ。
目の前の女の子の背中さえ見ていることができればいい。最低条件として、見失わなければいいのだから。
俺が走ってきた道程とか、ぶつかった人の風体とか、踏みつぶした靴の種類とか、無視した歩行者信号の数とか。本当にどうでもいい情報だ。
俺には、少女の背中だけが鮮明に見える。
曇り空、灰色の景色、雨の斜線、傘の色。
それらはどうでもいい。他の視界は何もいらない。
少女のすらりとした背中。それだけが、視界に映っていればいい。
……ああ、くそ。
もう少し、早く走れないものか。そうしたら、目の前の女の子を捕まえられるのに。
翻るスカート。
運動会、校庭の真ん中で風に揺れる校旗のよう。風を受けて元気よく。
舞い上がる髪の毛。
蝉時雨、運んできた風が揺らす風鈴のよう。耳を癒す清涼な音。
飛び散る雫。
河川敷、遊ぶ子供達が互いに掛け合う水。飛沫がきらきらと輝く。
追いつきたい。手で触れたい。あの背中に。
そのためには、腕を振ればいいのだろうか。足を高く上げればいいのだろうか。
……よし、やってみるか。
もとより筋肉痛は覚悟の上。明日歩けなくなってもいい。入院することになっても、あまり長期でなければ許す。それに、考えるのは後からでもいいはずだったよな。
だから、今はただ追いつくことだけを考えよう。あの背中に。
綺麗で、すらりと伸びて、俺の手を引いてくれるような、優しい背中。追いかけるのは疲れるはずなのに、俺はその背中を見続けることで力が増していくような気がした。
いつまでも、どこまでも、走っていけそうな気がした。
世界の果てというものがあるのなら、そこまで。
宇宙の果てというものがあるのなら、そこまで。
少女を追いかけながら路地裏を通る。路地裏に入って俺を巻こうという算段らしい。そうはさせじと、俺も駅前通りから横にそれる。
二人が作る喧噪の足音に、驚いたカラスの鳴き声が頭上をかすめる。足が地面に付いている感覚がしない。幽霊にでもなったか。幽体離脱して、魂のまま追いかけているんじゃないだろうか。だとしたら、体は置き去りか。それは不味いな。
だが、再び襲ったノイズのせいで、忘れていた感覚が戻ってきてしまった。カラスの鳴き声が甲高いせいだ。襲い来るのは、全身に溶かした鉄を流し込まれたような嫌悪感。痛みと、鈍重さと。
最悪の板挟み。
目の前の女の子、少女………………杏里を追いかけているだけなのに、体とは別のところで痛み出す。これは何だ。
くそ、駄目だ、また考えている。
俺は頭を振って考えを追い出そうとする。
雨がアスファルトを叩く音、遠くで響く車のクラクションが鳴る音、靴底が地面を蹴る音。
それだけでいい。
「……なんで」
前方から虫の鳴くような声。路地裏を出ると、俺は三度のノイズに偏頭痛に顔が歪んでしまう。
視界が開け、再びの大通り。行き交う車のタイヤが、道ばたに泥を跳ね上げる。
「何で杏里を放って置いてくれないんですか!」
走りながら振り返る。
「こんな時だけ……いつも私ばかりで……こんな時だけ!」
咳き込みそうになる呼吸を何とか整えて、杏里は言葉を置き去りにする。ノイズのおかげだとは思いたくないが、なんとか意識がしっかりと定着してくれていた。
時間から切り離されたような、あの独特の感覚はもう味わいたくない。
「探さないでください、ってのは――」
小降りの雨なのに。前を行く少女の目尻には、大粒の雨が残っていた。
「――探してくださいって言ってるのと同じなんだぞ!」
見失いたくない。つかまえたい。この手で。少女の背中を。
「先輩……先輩先輩!」
杏里が駆けていくアスファルトが、ぼんやりと黄色に光っていた。曇り空に晴れ間でものぞいたのだろうか。
「杏里は杏里は……杏里はっ!」
少女が光るアスファルトを踏みつける。頭上は相変わらずの曇り空。太陽が出ている気配はない。見上げた視線を下ろせば、アスファルトの上に光る黄色は、いつの間にか赤に変わっていた。
それは彼女の頭上にある赤が、アスファルトに染み込んだ雨水にわずかに映り込んでいるからだろう。
黄色から、赤へ。
じんわりとしみた雨水が、色を変えていた。
…………信号?
強襲してくるノイズ。
額から化け物が飛び出してくるような痛みだった。頭蓋が割れ、額が裂け、記憶が飛び出してくる。嫌悪感。恐怖感。時間から切り離されるような感触が、俺をまるごと呑み込んでいく。
黒、灰、白、黒、灰、白。
繰り返されるノイズ。現実から引きはがされた時間。
記憶と混ぜ合わせられ、強引に引き延ばされる。
……真っ黒な嵐の中、その景色は重なるように俺の目に飛び込んでくる。
かぎ爪でひっかくような大きな音。ブレーキ音。
今更無駄だ。止まれない。瞬きする間にも迫ってきている。
少女に迫っていく。
鼓膜を引き裂くまがまがしい音。黒塗りの鋼鉄。
俺の前を走っていた少女に襲いかかる。無慈悲なまでに女の子に迫る巨躯。
……ここは俺の絶望の中なのだろうか。
同じ景色、繰り返される悲しみ、変わらない結末。黒い絶望。全ては予定調和。
俺がどんなに手を替え、品を替えようと、全ては同じ道順に戻る。
ゲームのような結末。プログラミングされた結末。
定められた運命。あらがえない宿命。決定的な死。
変えられない。不可避なのだ。俺が何をしたところで。
黒い残像が女の子を連れて行く。まさに死神の黒。それは絶対。
変えられない。変わらない。
予定調和だから。予定調和は。あくまで予定調和で。限りなく予定調和で。予定調和は絶対的。予定調和なんだ。そう、予定調和。……でも。
……予定調和であるとしても。
それでも。
それでも、俺は。
予定調和だと分かっていても。
俺は……。
――俺は、君が好きだから。
助けたい。命を賭して。
俺は無意識に体を動かすと同時に、ありったけの想いを込めて叫ぶ。
俺は心が痛がりで、恐がりで、情けなくて、おまけに優柔不断。
オタクだってことを自覚していても、他人の目が怖かった。まるで違う生き物を見るような視線が、痛くて仕方がなかった。
オタクだと後ろ指を指されることが嫌で、自分が疎外されているような気がして、華やかな若者の街から逃げ出していた時期だってあったほど。
メイド喫茶で騒ぐのは、ほかの喫茶店で同じように騒げないから。
あそこが自分のような種類の人間のみが素直に存在できるテリトリーだと、そう思っていたから。
……でも。そんなとき俺の隣にいた少女が言ったんだ。
――仁、アンタさ、何をそんなにびくびくしてるわけ? 自分は自分じゃない。他人に見せつけてやる、ぐらいの勢いでいなさいよ。そんなんじゃね、私は弱いです、カツアゲなりなんなりしてください〜、って首から看板下げているようなもんなのよ。
東大寺南大門に立つような顔で説教した後は、少しだけ顔を背けて恥ずかしそうに。
――……その、勘違いしてほしくないんだけど。……アンタが不安なときは、私がいるからさ。な、なんなら、私が守ってあげてもいいわよ? ……え? 格好つけるな? 馬鹿、ほかでもないこの私が言ってるのよ。素直に好意を受け取りなさい……よっ!
よ、のタイミングで襲ってきたデコピンに痛がる俺に、クスクス笑いを浮かべる。
――私、こう見えて仁を買ってるんだから、がっかりさせないでよね。アンタの株が値上がりしてくれないと大損なのよ。意味、分かるわよね? ……そ、分かるならいいわ。だったら、アンタは今よりもっと努力して自分の株を上げること。そして、私を…………シアワセにしてよね。
なぜか急に聞き取れなくなった後半の言葉は、当たり前のように聞き逃した。口の動きだけが頭に残っていたから、俺は何度もその口の動きをまねてみる。あいうえおから並べていって、やっと導き出した聞き逃した言葉。
さすが、ツンデレは期待にそぐわない。
俺は、その少女がそばにいないと何もできなくて。
その少女がいたから、俺は俺でいられて。少女のおかげで笑っていられたんだ。
世界中に蔓延する痛みから守ってくれる絶対障壁――それが少女であり、たった一人の幼馴染み。
俺のそばで、ずっと俺の心を守ってくれていて。
俺が間違わないように、後ろから優しく見守ってくれていた人。
俺が、この世で一番好きな人。
俺は限りある時間で、必死に体を動かす。
――俺は、君が好きだから。
助けたい。予定調和なんてどうでもいい。
ただ、想いがそこにあるから。
無意識に体を動かすと同時。
ありったけの想いを込めて叫んでいた。その少女の名前を。
「――佳乃!」
直後、暗転する俺の視界。
二回転、三回転、アスファルトの硬質な感触を身体に受けながら、俺は地面を転がる。
黒、青。黒、青。
空とアスファルトが、ストロボのように入れ替わる。痛みもなく、黒い地面をバウンドした。
軟体動物にでもなったかのようだった。手足が関節を忘れて自由になる。
逆方向にも曲がる気がする。実際、視界の端で曲がっていた。
事故の直後、スローモーションになるってよく言うけれど、あれは半分嘘で、半分本当だ。
実際、俺は事故の直前と直後、時間が止まったかのように、三人称の視点で景色を見ることができたのだから。
一方で、人々の叫び声や、怒号がはっきりと聞き取れない。
歩道の人間が悲鳴を挙げているのは分かるが、皆一様に口をぱくぱくさせているだけ。
聞こえない。何も。聴覚に異常はないことを祈るだけだ。
緩慢に、時間が流れていく。俺の周囲だけ。ひどく静かだ。
「……ぱい…………せん、ぱい?」
俺に触れる人の声が、肌を通して聞こえてくる。
かすむ視界の中で、俺は誰かに乱暴に揺り動かされていた。
何度も繰り返しているが、事故にあった人間をそんなに乱暴に扱わないで欲しい。気道確保とか、体を横に倒すとか、救急救命の知識には疎い俺だけど、とにかく細心の注意を払って欲しい。ブレーキを踏んでいたとはいえ、一トンに近い鉄のかたまりと正面衝突したんだ。
即、命が失われていても不思議ではない。
「いや……いやです……そんなのいやなのです……」
誰かが悲しんでいる。
予定調和なのに。変えられない結末の筈なのに。
あざけってくれていい。これは予定調和なんだ。
俺はまた絶望を繰り返しただけなんだから。
――あれ、ひどい血よ……。
でも、いいんだ。
俺が望んだ絶望なんだから。
予定調和だと分かっていても、俺は望んだのだから。
――助かるのかしら、あの子……。
おそるおそるといった様子で、野次馬が指を持ち上げる。
野次馬の指し示す方向は、他の誰でもない俺だった。
俺はとっさに体を動かそうとする。顔を持ち上げ、周囲の状況を確認しようとする。けれど体は動いてはくれなかった。
指の一本すら動かないというのはどういうことだろう。
ようやく動いてくれた眼球が、俺の体を映し出す。
一目で俺は体が壊れかけていることを知った。次第に視界が赤に染まっていく。腕で拭いたいのにぬぐえない。何とも歯がゆい気分だ。
……でも、それでもいいかと思える。
野次馬が俺を指さしたということは、目の前の少女を助けられたということなのだから。
絶望の中で何度も失って、その度に一年前と同じ絶望を味わって。
何度も何度も味わって。予定調和だと思っていた。
変えられないと思っていた。
でも、俺は変えられたんだ。
結末を、予定調和を。
……これでやっと触れることができる。
これでやっとキスの雨を降らせてやることができる。
これでやっと愛することができる。
長かった気がするし、短かった気もする。
やっと目の前の少女を助けられた。
「……佳乃、よかった……やっと……助けられた」
俺は最後まで腕を持ち上げられなかった。頬を触りたかったし、キスもしたかった。
重くて持ち上げられなくなったまぶたの向こう。
「……先輩……? 杏里ですよ……佳乃じゃないのです……杏里なのです」
頬に落ちてくるのは、雨だろうか。冷たくて気持ちが良い。
「いや……いやなのですよ……先輩……なんで私を呼んでくれないんですか……? 杏里は杏里です……誰かの代わりではなくて、杏里なのです……」
雨にしては大粒で、局地的で、リズムが悪い。
「……駄目なのです……先輩……」
雨がやんでいく。それは感覚が薄れていくからだろうか。
「目をつぶっちゃ駄目なのです! 開けてくださいなのです! いつものようにMな杏里を……いじめてください……先輩……!」
あがりはじめた雨音の向こう。
佳乃の笑顔が浮かんで、消えた。