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第二十八話・「辛いことから逃げてもいいですよね?」

 雨はまるで空の涙だった。容赦なく世界を灰色に染めていく。


「……杏里の全ては、先輩なのです」


 俺のシャツの裾ではない、自らのスカートの裾をこれでもかというぐらい強く握りしめている。

振り絞る。握力も、声も。


「なのに、先輩が杏里のそばからいなくなってしまったら」


 落ちた二本の缶コーヒーは泥に埋もれている。俺の財布も同様に。


「杏里には……杏里には何も残らないのです」


 救急車のサイレンの音が、耳障りから鬱陶しいにランクアップする。杏里の声を掻き消そうと躍起になっているようだ。


「先輩が好きなのです。先輩を好きって気持ちで、体中がいっぱいなのです。溢れそうです。いいえ、違うのですよ……もう、とっくの昔に杏里から溢れちゃってるのです。溢れてしまって、止まらなくて、あふれ出した気持ちに自分自身が溺れてしまって、どうしようもなくなって、先輩を独り占めしたくなるのです」


 水滴の落下がスローモーションで見えるような、とぎすまされた感覚。

 杏里の一言一言が頭に刻まれていく。


「夕凪佳乃先輩……素敵な人だったのです」


 頭が殴られたような衝撃。めまいさえ覚えた。


「いつも先輩を独り占めしていたのです」


 杏里の口から、夕凪佳乃、という名前が発音されること。それ自体が、未曾有のマグニチュードで俺の脳みそを揺さぶった。音は空気を伝播して聴覚を刺激する。その波動が、ショックウェーブとなって俺を吹き飛ばす。


「私も独り占めしたかったのに、入り込む隙間もなかったのです。遠くから見ているだけだったのです」


 未だたどり着かない救急車は、せめて己が存在を誇示するかのようにサイレンの音量だけを上げていく。ホラー映画の効果的な演出。緊張の糸を引き絞るサウンドエフェクト。


「先輩……杏里は、夕凪先輩がいなくなって、喜んでしまったのですよ。悪い子ですよね。そんな杏里に自己嫌悪です。でも……それでも先輩の隣にあるたった一席の指定席が、自由席になったのです。馬鹿な杏里としては、座らないではいられなかったのです」


 ボーイッシュな髪の毛が雨に濡れている。

 短い前髪から、落涙のように雨がしたたり落ちた。


「…………夕凪先輩の代わりだとしても、杏里は満足だったのですよ。先輩に好きになってもらえるのなら。仮の器でも、注がれた水は受け止められるのです」


 握りしめたスカートの裾は、まるでぞうきんでも絞るかのように水を失っていく。力強く握りしめられているため、水は吸収されることなく滑落していった。

 杏里の振り絞られた声や、感情が、それだけ継続的だということだろうか。


「この体は、先輩でできているのです」


 うつむき加減だった杏里の顔が、真っ直ぐ俺を向いた。小さくて卵のようにつやつやで、丸みを帯びた顔。いつもは元気はつらつとして、血色の良い顔。

 ……それが今は、寒さと負の感情で塗り替えられて真っ青になってしまっている。


「でも、先輩は私から離れていくのですね……夕凪先輩の代わりとしても、杏里自身としても、どちらの意味においても……私のことだけを見ていてはくれないのですね」


 夏目、ウメ、俺……お互いに重ねた面影。

 夏目は亡き愛娘、冬美をウメに重ね。

 ウメは亡き父を夏目に重ね。

 俺は亡き佳乃を、ウメそして杏里に重ね。

 この上に杏里までもが、あえて自分に佳乃の面影を重ねようとしているのだろうか。

 ……いや、重ねてきたのだろうか。

 感情の悪循環。幻に伸ばした手は決して届かない。

 誰かが誰かの代わりになることなんて出来ないと、夏目は言った。

 その言葉を聞いた瞬間、俺は柔らかいところを剣で突かれるような痛みを感じた。

 夏目の言った言葉の意味を。痛みを伴うほどの、本当の意味を。


「ねぇ、先輩」


 杏里の頬を大粒の雨が伝う。涙と雨が頬で合流する。

 目尻で大きな雫となり、重力に引かれてこぼれ落ちる。一筋となる涙は、途中で雨と溶け込み加速する。最後には、あごで両目の涙が一つになって、地面へと還元される。

 杏里の体から離れ、地面に落ちるまで。

 そのほんのわずかな時間、杏里の涙は世界で一番大きなきらめきとなる。


「杏里……空っぽです」


 杏里は壊れたガラス細工のように微笑んだ。


「……どうしましょう?」


 悲しみを押し隠そうとして失敗したのだろうか。それとも自嘲なのか。どちらにせよ、俺には見当が付かない。サイレンが近付いてきていることさえ忘れてしまいそうな俺には、そもそもそんな時間的、精神的な余裕はなかった。

 下手な微笑みを浮かべ、今にも泣き崩れそうなむせび声。

 初めて見る杏里。もろく壊れかけた姿。

 ……そんな時間的、精神的な余裕はない。


「……杏里は、もう駄目です」


 握りしめていたスカートから手を離す。


「胸が痛い……心が砕け散って、杏里の体が空中分解してしまいそうなのです。もう、涙では足らない痛みなのです」


 涙を拭うこともしないで、ただ言葉だけを綴る。


「……先輩、いいですよね。杏里は頑張りましたよね。だから杏里は――辛いことから逃げてもいいですよね?」


 心の琴線が今にも切れてしまいそうな悲哀。


「答えてください、先輩」


 すがるような声。

 杏里の声が、俺のシャツの裾を引くような感覚。

 どうすればいい。俺に何が言える。俺に何ができる。

 佳乃がいなければ満足に生活すらしていけない情けない俺に、何ができるっていうんだ。

 感情すら満足に制御できない俺に、どうやって慰められるっていうんだ。

 自分の心さえ理解できない未熟な人間に、何を理解してやれるっていうんだ。

 佳乃、どうすればいい。

 杏里がそうするように。

 佳乃、俺はどうすればいい。

 俺は幼馴染みにすがりつく。

 佳乃、俺には何ができるんだ。

 俺は、俺には……。


「…………答えてはくれないのですね」


 杏里がふいに浮かべた表情に絶望が混じる。

 何かが終わったような、もろく崩れ去ってしまったような。

 覆水は決して盆には返らない。ただ手の届かないところに消えていく水を、見ていることしかできない。


「さよならです。仁」


 その痛々しい顔に、胸がざわつく。記憶の底から、蘇ってくるなにか。


「えへへ……一度でいいから……呼び捨てで……言ってみたかったの……です……よ」


 もう声にはならなかったのだろう。杏里の声はかすれていた。


「………………探さないでください」


 雨の中を、背中を向けて走り出す杏里。


 ――答えて!


 この公園で。


 ――答えてよ!


 俺は、また。答えられずに。


 ――今日という日は自分勝手な私の……お別れ会。


 ……同じ過ちを繰り返した。

 遠ざかっていく杏里の背中。

 俺がゲームの主人公だったり、ドラマの主役だったり、あるいはこの場面が映画のクライマックスや小説のラストシーンであったなら、きっと十中八九、公園から飛び出していく杏里を追いかけるのだろう。

 大切なものに気が付いて、全てのしがらみを捨てて、杏里を力の限り探すのだろう。

 脚力の差か、やがて杏里に追いつき腕をとる。嫌がって逃げ出そうとする杏里の唇を奪って黙らせた後、主人公らしい格好良い言葉で、達観した愛を語る。二人公衆の面前で抱き合って、ハッピーエンド。

 でなければ、杏里を見失って息を切らせた後、杏里との思い出の場所を片っ端からあたって回るだろう。

 二人で重ねてきた記憶の場所を巡り、最後に一番大切な――有り体に言えば、約束の場所なんてところで、杏里は背中を丸めて泣いている。そして、やはり主人公らしい綺麗な台詞で杏里をさとし、熱烈な抱擁が交わされる。抱擁を解くと、二人熱く視線を絡ませあって、やはりキスで終わり、ハッピーエンド。

 それは、とても良い物語だと思う。

 でも、その物語には続きがない。

 二人仲良く結ばれて、めでたしめでたし。それはいい。とても綺麗な終わり方だ。俺も大好きだ。

 ……けれど、本当はそれだけじゃない。

 キスが終わり、幸せな月日が訪れる。

 三日、一週間、三ヶ月と月日が流れる。そして一年が経っても、ずっと幸せなままではいられない。

 燃えさかる火炎のような恋も、やがては冷めるときが来る。

 四六時中一緒にいれば、やがて疎ましく思えるときが来る。

 映画やドラマ、ゲームはいつだってそうだ。幸せの続きを見せてはくれない。終わりの悲しみを伝えようとしない。

 そして何より。一番大切なことを教えてくれないんだ。


 ――絶望からの再生。


 幸せになる方法は教えてくれるのに、苦しみから立ち上がる方法を教えてはくれない。ハッピーエンドの先を教えてくれない。

 ドラマのような恋はある。映画のような恋もある。小説のような恋だってある。

 本当に格好良いと思う。嘘じゃない。

 なぜなら、俺だってあこがれているから。

 けれど、現実はそれだけじゃないんだ。幸せな日々がずっと続くはずがないんだ。

 キスをして、ハッピーエンドで。それで終わるのが人生じゃないだろ。

 現実は夢じゃない。寝て起きて全てが帳消しになるような世界に生きているわけではないんだ。

 リセットボタンもない。気にくわないからって、セーブポイントからやり直したりすることもできない。

 同じものもない。壊れたからって、買い直すこともできない。

 みんな知っている。そんなことは、誰もが知っている。

 だったら、教えて欲しい。

 馬鹿で、どうしようもない俺に教えて欲しい。

 絶望から立ち上がるにはどうしたらいい。心の傷を癒すにはどうしたらいい。

 どうやって苦しみを乗り越えたらいい。

 どうやったら、大好きな人を大好きなままで、悲しまずに生きていけるんだ。

 ……全ては時が解決してくれるのか?

 でもそれは、本当に正しい解決法なのか。

 誰かに教えられて、正しいと思いこんでいるだけではないのか。

 それなら、佳乃だってそうだ。

 本当はまだ生きていて、俺に見つからないように隠れているだけ。

 俺が失ったと思いこんでいるだけで、本当は次の瞬間に恐竜すべり台の影からひょっこりと顔を出して、いつもみたいにおどけてくれるんだ。


 ――どっきり大成功だね、仁君。


 何が正しくて、どうやったら絶望から救われるのか。

 映画や、ドラマ、ゲームや、アニメ……それらは俺に何も言ってはくれない。

 オタクだの何だのと言われるほど大量に見てきたのに、実際には何もできない。何も参考にできない、学んでいない自分がいるんだ。

 間違いを繰り返すだけの、馬鹿な自分がいるだけなんだ。


「……だったら、走ればいい」


 俺の腕の中で救急車を待つウメが、震える手のひらで俺のシャツを握りしめた。


「考えるぐらいだったら、走ればいい」


 弱くて、すぐに絶望にとらわれて。


「思考して停滞するなら、迷わず走ればいい」


 痛みが、絶望があふれれば、抵抗するすべも持たないで体を抱えて苦しみを耐えるだけ。


「考えるのは、あの子を捕まえてからでも遅くない」


 繊細だなんて言えば聞こえはいい。格好が悪いのを承知で言えば、ただ傷つきやすいだけ。

 心が痛がりで、恐がりで、本当はいつも震えていた。


「何もしないでする後悔。何かした結果の後悔。……私なら、後者」


 オタクだってことも、本当は怖かった。まるで、違う生き物のように見られていたことだって知っている。オタクだと後ろ指を指されることが嫌で、自分が疎外されているような気がして、華やかな若者の街から逃げ出していた時期だってあった。

 それが佐々木仁、情けない俺自身だ。


「間違えるのは若者の特権。……故人はそれを、若気の至り、と」


 毒のある笑みを見せるウメ。きらりと目の縁が光った気がした。

 ウメがこんなにも暗部に富んだ表情ができるとは驚きだった。


「私は大丈夫」


 細い指先が示した先には、民家の隙間を縫う赤い光。


「救急車がくる」


 無理して親指を立てて余裕を見せる。先ほどの毒のある顔とは違って、無表情なところがなんとも怖い。

 俺はそんなウメの瞳をしばらく見つめたあと、無言のまま腕の中から解放した。息も絶え絶えなウメを恐竜の口内へそっと横たえる。

サイレンの音が耳をつんざく距離にまで聞こえてきたことろで、俺は恐竜の口から雨の中へ。

 雨に打たれ続けた体は、氷をまとったように冷たい。

 俺もウメも満身創痍だ。体の節々は痛みを訴え、苦しい、動かすな、と叫び出す。高熱に肌を赤く染めるウメも、このままでは肺炎を併発させるおそれがある。恐竜の口内で体を丸める姿は、まるで耐える子猫。

 ……行くべきか、行かざるべきか。それは、出来の悪いハムレット。


「佐々木、行って」


 その言葉を疑うわけではないが、俺は無遠慮にウメの左胸に触れてみる。

 ウメは少しだけびくりと体を反応させるだけで、俺をとがめようとはしない。

 目をつぶって音に耳を傾ける。

 ウメの内側で音を立てるやんちゃな子は、ウメと心同じくして、まるで俺をせき立てるように足を踏みならしていた。


「私は……大丈夫」


 俺は立ち上がって背を向ける。そして、さらなる雨へ一歩踏み出そうとする。


「私は重ねられるだけの人形だから」


「……う、ウメ……!?」


 背中を向け、片足をあげたままで停止してしまう俺。滑稽な体勢のまま肩越しに振り返る。


「嘘」


 ウメは辛いくせにニヤリとした笑みを浮かべる。やはりブラックで毒々しい。黒猫が肉球から鋭い爪を出すような仕草。いたずらに目がきらりと光る。

 でも、次の瞬間には真剣みを帯びて。


「私は山田ウメ。私は私。私は代わりにはならない。代わりになんてさせない」


 ぽん、と背中を押される感触。情けない、どうしようもない俺を励まそうというのだろうか、この少女は。自らも苦しくて、耐え難い苦痛を抱えているはずなのに。


「ウメ、お願いがある」


「……何」


 子猫のように小さい体で、借りたいぐらいの猫の手で。ウメはウメなりに何かを伝えようとしてくれているような気がした。


「語尾に、にゃ、と付けてくれ」


 ウメは一瞬、目を猫のように丸くする。読み取るのは難しいが、どうやら驚いているらしい。


「馬鹿」


 その声に安心し、俺は雨を払いのけるように疾駆する。


「………………さっさと行くにゃ」


 その声が耳に届くより先に、俺は公園から飛びだしていた。


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