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第二十七話・「重ねていたのかもしれない」

 臨終まぎわの猫が、さよならを告げるべく、にゃあ、と言うように、入り口に立ちすくむその少女も、雨にもかき消されそうなか細い声で俺の名前を呼んだ。

 アジアンビューティーもうらやむ長い黒髪がずぶ濡れだ。いつものしなやかさが消え失せて、鈍色に光を反射している。髪の毛が濡れた制服の輪郭に沿うように張り付いているから、ウメの体の細さがはっきりと分かった。

 雨の中でたたずむその姿は、月に帰ろうとするかぐや姫のように儚く、浦島太郎を見送る乙姫のように寂しそうだ。


「ウメ……」


 俺が絞り出せたのはその一言のみ。何をしたらいいのか分からない。分かったとしても、それを実行する勇気がない。その際にどんな顔をすればいいのかも。第一に、ここにいていいのかすらも。

 視界を遮るような雨が降っていて、なおかつ耳をふさぐような雨音がなかったら、俺は沈黙と緊張に両側から押しつぶされていただろう。


「……私、どうしてここにいるの……?」


 小さい小さいウメの体は、雨によって虐げられている。曇天から降り注ぐ雨の直線は、ウメの頭、肩、にぶつかり、跳ね回っている。

 ぐっしょりと濡れてしまった制服には、濡れて肌に張り付く部分と、空気が入って白い筋のようにふくれた部分、その二つしかない。ウメの下着の色は真っ白で健康的な色だった。


「どうして、この公園にいるの……?」


 俺の姿を目に写したウメが、信じられないといったようにつぶやく。


「ここにいる理由が分からない……」


「ウメ……」


 佳乃、なのだろうか。佳乃がこの公園へと導いたのだろうか。

 確信までには至らないにしても、そう考えることも出来るはずだ。

 佳乃がまだ健在だった頃、幼馴染みである佳乃と、ツンデレである佳乃の記憶は共有されていた。ツンデレの佳乃のみが共有出来る一方的なものだが、記憶は確かに共有されていたのだ。

 心臓が媒介だったのかは分からない。俺は医者ではないから。

 けれど、そう考えることが出来れば、ウメをここに導いたのは他でもない佳乃であるということになる。佳乃がウメの記憶を垣間見ることが出来て、ウメの意識が休んでいる間に、体を借りて言葉を発することが出来て、自由に考え、話し、行動することが出来たのだとすれば。

 ……だとすれば。

 だとすれば、俺はもう一度佳乃に逢えるかも知れない。

 俺はまるで引き寄せられるようにウメへと近付いていく。

 もう一度、逢えるのかも知れない。

 あの声で、あの抑揚で、俺をののしり、あるいは慰めてくれるのだろうか。


 ――仁君。


 あの温もりで、優しさで、俺の頬を、頭を撫でてくれるのだろうか。


 ――仁。


 ぬかるんだ公園の泥土を生きる屍のように歩いていく。ジョージ・A・ロメロ監督の映画「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」で像の決定づけられたゾンビのように、生者の匂いをかぎ分け、新鮮な肉を食らうべく、目の前の生け贄に吸い寄せられる。

 そう、生きながらに死んでいる人間が、愛する人間の魂を求めて彷徨しているのだ。

 ……いや、これではゾンビではないな。

 ゾンビは一度死んだうえで生ける屍であって、生きながらに死んでいる人間ではない。


「佳乃……そこにいるのか?」


 ウメに手が届く位置。

 それこそゾンビのように頼りなく伸ばした手。

 かすかな意志の宿る指先が、ウメの頬に触れる。

 雨にさらされていたにもかかわらず、とても熱い頬だった。


「……やめて……」


 俺の言葉が原因か、それとも触れたのが原因か、ウメが拒否反応を示す。体を強ばらせ、敵意のこもった目で俺を見上げる。熱いものにでも触れたように慌てて身を退くその姿は、少なからず俺の心に傷を負わせた。

 露骨な拒否ほど、胸に突き刺さるものはない。


「……私は人形じゃない」


 どこかで聞いたことのあるような台詞だったが、今の俺にその台詞の出所を探る検索力はなかった。


「私は山田ウメ……夏目や、佐々木を慰める人形じゃない」


 俺と夏目が並列に扱われる。

 雨をはねとばす強い意志が、瞳から外へと放たれていた。無愛想で、無表情、そんな無機質な評価を覆すほどに感情が込められている。一般人に比べれば感情表現には乏しいが、今までのウメに比べたら、それは人が変わったように感情的だった。


「違う、俺は……!」


 俺は夏目とは違う。

 そう口にしようとしたところで、俺ののどは言葉をせき止めた。まるでそこから先に行かせないとでも言うように、声帯を震わせまいと踏ん張っている。


「私は山田ウメ」


 簡単に嘘をつくことができない自分。嘘を吐く手前で無意識に躊躇をしてしまう自分。


「俺は……」


 ……夏目と同じ、なのだろうか。

 夏目を否定することが出来なくなっている俺は、夏目と同じだと自ら認めてしまっているのではないだろうか。


「……私は私。私以外の何者でもない」


 ウメの瞳が揺れる。


「私は一人の山田ウメ」


 リバースしたテープを巻き戻して再生するように、その言葉は寸分の誤差も存在していなかった。


「……私は人形じゃない」


 大口径のリボルバーに込められた弾丸。連続して引かれるトリガー。同じ弾が何度も俺の心臓を貫き、風穴を明ける。


「私は……」


 そこで初めて、スムーズに再生されていたウメの言葉に齟齬が生じた。

 見れば、ウメの頭が振り子のように揺れている。右に左に、前に後ろに。平坦な地面の上に立っているはずなのに、平均台の上にでも立っているように見えてしまう。


「山田……ウ、メ……だから……」


 俺はとっさに何が起こりかけているのかを理解した。

 触れた頬は発熱していたし、ウメは熱にうなされるように同じ言葉を繰り返している。大粒の雨をシャワーのように浴びて冷え切っているはずの体。なのに上気した頬。そんな状態で言葉を無理に言おうとすれば、感情的に見えてもおかしくはない。

 そしてウメの体は、唐突に力を消失した。


「か――」


 ――の。


 一文字だけを言葉にし、残り一文字は心の中で。

 ためらいもなく飛び出していた俺の腕の中に、ウメがうつぶせに倒れ込んでくる。だらりと垂れ下がった腕には俺をはねのける力もない。俺のシャツに吐き出した荒い呼吸が、シャツを通して肌に染み込んでくる。

 案の定、ウメの体は火の精霊の加護でも得たかのように熱で覆われていた。溶鉱炉に大量の水を注ぎ込めば、すぐに水は蒸気と化す。ウメの体をなめる水分がまさにそれ。ほのかに白く煙るウメの体からは、男の動機を加速させる女性らしい香りが匂い立つ。

 熱い吐息に、上気した頬、そして、蠱惑的な匂いと無防備な姿。

 ちらりとでも考えてしまった俺は、不謹慎にもほどがある。

 右の拳で自分の頭を小突くと、心臓を締めつけられるような気持ちになりながら、ウメを何とか恐竜の口の中へと運び込んだ。この公園で雨をしのげる場所といったらそこしかない。

 長くはいられないだろうが、当座をしのぐには十分だ。あいにく近くに病院はない。救急車を呼んで、救急隊員が駆けつけるまでの間で構わない。すぐさま俺はウメを抱いていてやることに決める。

 濡れた指先で携帯電話を操作し、我ながら初めてとは思えない機敏さで、救急車の手配をすませる。こういった緊急事態にすんなりと対応できるのは、目の前で見た惨劇や血の量、そして、良きにしろ悪しきにしろ繰り返してきた絶望の風景による耐性なのだろう。


「……人形……じゃない」


 体が小刻みに震え、あわせるように唇も細かく震えている。

 雨に濡れ、震える子猫は、俺の腕の中で華奢な体を丸めて苦しんでいる。


「……私、は」


 現在進行形で力が抜けている体からさらに力を振り絞り、ウメは言葉を紡いでいた。

 恐竜の口の中でずぶ濡れのウメを腕の中に抱く光景は、他人から見ればひどく勘違いをされそうな光景に違いない。


「……私だから……」


 なおも繰り返すウメの呟きは、雨音にかき消されそうなほどに弱々しく、かつ平板だった。

 俺はその一言一言を聞き逃すまいと雨音の中から必死にウメの声を探り出し、耳の中に滑り込ませていった。


「私、は……山田、ウメ」


 夏目は失われた我が子をウメに重ねていた。夏目がウメを愛し、注いでいた愛は、本来夏目が我が子である冬美に注がれるものであって、ウメに注がれるものではなかった。

 君のものだ、とずっと腕の中に捧げられてきた花束。両腕に抱えきれないほどある美しい花束が、次の瞬間には別の人に捧げられてしまう。それまで抱え込んできたものが腕の中からなくなってしまう。

 腕の中に残るものは何もない。空っぽだ。花びら一枚残らない。残り香すらない。でも、それは当然のこと。だって、元々花束はその人のものではないから。ただ代わりに持っていただけだから。

 花束をもらった喜びも、伝えてきた感謝も。ぬか喜びに過ぎない。

 仮の人形でしかないその人間には、結局何も残りはしないのだ。


「俺は違う……俺は夏目とは違うんだ。違うはずなんだ。間違ってはいないはずなんだ」


 言葉で否定してみても、それは俺の自己暗示に過ぎないのかも知れない。それに、声に出して言うのは、誰かに同意して欲しいからだ。

 間違っていることを間違っていないと否定して欲しくて、俺が正しいのだと背中を押して欲しくて、俺はつぶやいている。

 安心したくて、声に出す。……虚しい自己弁護。


「ん……う……佐々木……」


 苦しそうにぎゅっと閉じられていた目が、かすかに開かれる。

 夢の中でうなされていたのだろうか、どこかうつろでおびえた感のある瞳の光は、揺れながら俺の顔を映し出す。俺はウメの額に張り付いて、ウメの視界を遮っている髪の毛を取り払ってやり、額に浮かんでいる雨とも汗とも付かない雫を拭ってやる。ウメは荒い息をしながらも、俺のなすがままにされていた。

 ……ただ単に、抵抗力がないだけかもしれない。


「ウメ、大丈夫か……? もうすぐ、救急車が来るからな」


 心配しつつも、夏目に向けたウメの笑顔が思い出される。俺には一度も見せたことのない、輝くような笑顔。

 例えるなら、真夏の夜にひっそりと咲くくちなしの花。

 誰にも知られずにひっそりと咲くが、誰にも知られない分、ひとたび目にすれば驚きに変わる。満月にも勝るとも劣らない、純白の輝き。花開く六枚の真っ白な花弁は、見る者を魅了してやまない。

 だからこそ、俺は夏目がうらやましかったし、悔しかった。憎しみさえ抱いた。暴力に訴えることすらしてしまった。


「……」


 ウメは無言のまま、俺の視線を探し出した。俺はそれを見つめ返すしかない。


「なぁ、ウメ、俺は間違っているのか……?」


 夏目に抱いた醜い感情の数々。それは、ウメが佳乃を宿し、佳乃そのものであるという意識があったからだ。もちろん、今もある。腕に抱いている姿こそウメではあるが、その胸の内側で脈打つものは佳乃なのだ。

 佳乃が生きているんだ。

 俺は無遠慮にもウメの左胸に手を延ばす。

 決してふくよかとは言えない弾力の向こうに、元気に弾む幼馴染みがいる。

 胸にそっと触れると、湿ったシャツの感触を追いかけるように、柔らかく温かい感触に見舞われた。

 肌を通して得られるそれらいくつもの情報の最後に、俺は鼓動を感じ取る。


 とくとく、とくとく、とくとく、とくとく。

 とくとく、とくとく、とくとく、とくとく。


 ――佳乃だ。


 俺が大好きな幼馴染みであり、ツンデレでもある、佳乃だ。

 ……軽快に公園を走る少女との思い出。

 小学校の頃、二人だけで追いかけっこをした。公園の真ん中に立つ電灯を中心にして、ぐるぐると佳乃を追い回した。佳乃よりも体力のあった俺が、疲れてペースの落ちてきた佳乃のランドセルをつかむと、佳乃は足をもつれさせて倒れてしまった。

 二人でもんどり打ってもみくちゃになった後、大きく肺を上下させて酸素を求めた。


 ――仁君、私、こんなにドキドキしてるよ。仁君もドキドキしてる?


 幼かった二人は、純粋な好奇心のみで互いの胸の鼓動を聞いた。

 佳乃が俺の胸に耳を当てると、くすぐったくて俺は口元を緩ませてしまう。


 ――仁君の中をお馬さんが走っているみたいだね。黒いたてがみのお馬さんだよ。でも、私の方が必死に走っているみたい。だって、速度が違うもん。仁君の速さと、私の速さ。仁君は男の子だから、ゆっくりあるっても大丈夫。私は仁君について行かなきゃいけないから、早歩きだね。えへへ、仁君の音……。とくとく、とくとく……。


 佳乃の声と、俺の手のひらを通したリズムが重なっていく。


「……佐々木……?」


 佳乃なんだよ。


「駄目だ」


 俺にとっては、佳乃なんだ。


「好きなんだよ……」


 夏目の言うことは正しいのかも知れない。

 夏目が愛娘をウメに重ねたように、俺もウメに佳乃を重ねたのかも知れない。

 いくら心臓が佳乃のものだとしても、夏目から見ればそれは重ねている行為に過ぎないのだから。夏目がしきりに俺と夏目が同じだといったことも、当然の帰結だったのかも知れない。

 ……俺は町中に溢れる佳乃の記憶を探している。

 今でも、佳乃は生きているんだ。俺の視界の中で、笑顔を見せてくれる。声を聞かせてくれる。思い出せば、いくらでも出てきてくれるんだ。


「俺は……佳乃が好きなんだ……!」


 夏目の言うことが正しいとしても、どうしようもないんだ。

 夏目の言うことを理解したとしても、納得できないんだ。

 佳乃を忘れたり、佳乃以外を見たりできないんだ。

 俺の記憶は佳乃とともにあり、佳乃によって作られてきたと言い変えてもいい。

 振り返れば佳乃がいる。目覚めれば佳乃がいる。ドアを開ければ佳乃がいる。

 大好きな佳乃がいるんだ。

 好きだよ、佳乃。好きだ。大好きだ。

 伝えたくて仕方がないんだ。

 この想いを、張り裂けそうな想いを、お前に伝えたくて仕方がないんだ。


「俺は……佳乃がいなくて寂しいよ。胸が張り裂けそうだよ。ずっとずっと色褪せないんだ、お前の笑顔が。毎日毎日夢にも見るよ……馬鹿みたいに広くて真っ暗な海の中で、お前を探しているんだ。……佳乃、死ぬって何だよ……? 俺のそばからいなくなるって何だよ……? ちっともいなくなったりなんかしないじゃないか! ただ触れられないだけで、俺のそばにずっといるじゃないか!」


 船底に穴の空いたボート。心の底から溢れてくる愛という水で、船が満ちていく。水をかき出すことのできないボートは、船内に満ちていく水の重量に耐えきれず自沈していく。二度と、前に進むことも浮き上がることもない。海溝深く沈没し、腐乱していくだけ。


「……一年経って、やっと慣れてきたと思った。でも、そんなの嘘だ。楽しくみんなと過ごしていても、ふと一人になるとお前を探してる。祭りの後みたいに寂しくなると、腹の奥から黒いのがやってくる……結構さ、苦しいんだよ。大の男がうずくまってるんだぜ。痛くて、寒くて、何より寂しくて……我慢しつづけるしかなくて、抵抗できずにうずくまるしかないんだぜ……? やっと我慢できたと思って弁当を食べようとすると、今度は卵焼きをよこせってほっぺたがうるさいんだ」


 秘めた心の叫びなのか、声に出したモノローグなのか、それすら分からない。ウメがいることも忘れて、俺は自身の思いの暴走を許している。自分自身、どんな顔をしているか分かったものではないが、そんなことは思慮の外。気にしている余裕なんかない。


「屋上に行くと、お前が俺を待ってくれているような気がするんだ。学校行くまでにお前を思い出さないことなんてない。お前のいない場所なんてどこにもないんだ! こんなに、こんなに好きなのに、愛してやる準備ができてるのに、お前がいないって何だよ。触れられないって何だよ。ふざけるなよ! 何でいなくなってから、いままでよりお前が輝いて見えるんだよ! ずるいだろ……いなくなってから綺麗になっていくなんて、ずるいだろ……」


 涙の流れない自分の涙腺が、不思議だった。悲しいはずなのに涙は流れない。

 佳乃の葬式の時も、みんなが泣いているのにとうとう俺は泣くことができなかった。

 地球の層でいうマントルぐらい……いや、底なしに深い悲しみの筈なのに。

 涙が出ない。


「そんなの、ずるすぎるだろ……」


 閉じた瞳の奥で、見慣れた黒が蠢き出す。何百、何千という黒い大蛇の群が、俺の周囲を囲み、体をうねらせながら近付いてくる。

 血のように赤い目を爛々と不気味に光らせながら、俺を品定めしている黒い捕食者。

 血のように赤い二股の舌をちろちろといやらしく動かしながら、袋小路に追い詰める捕食者。

 格好のえさである俺は、真っ暗闇に灯る赤い灯火に怯えるしかない。

 黒の中で唯一色づく赤。それは映画『シンドラーのリスト』で赤い服を着た娘が、結局殺されてしまうのと同じ。印象に残る赤。死を記憶させるための演出。

 始まるのだ、また。繰り返される絶望の宴が。死で終わるエンディングが。

 ……しかし、ふいに俺の頬に蛍のように儚い光が添えられる。

 驚くほど温かいそれは、大蛇のとぐろに捻り潰される俺に染み込んでくる。

 頬から、顔全体へ。首、胴体に浸透し、やがて四肢、指先へと。

 平行し、黒い大蛇がぼろぼろと崩れていく。

 燃え尽きて灰になった新聞紙が、風に揺られて容易に四散するように、大蛇とその赤い目は光によってかき消されていく。

 耐え抜くことを免除された俺は、接着したようにつぶった両まぶたを持ち上げていく。

 恐る恐る、異世界への扉を開けるように。

 扉の隙間から、光がこぼれた。


「……佐々木、不細工」


 ウメが微笑んでいた。


「……佳乃のこと、分かった気がする。佐々木の気持ちも」


 無表情だったはずのウメ。

 苦しそうに眉間にしわを寄せていたはずのウメが、微笑んでいる。

 目尻がわずかに下がって、少しだけ目を細めて、口の端がいつもより大きくカーブを描いて、細い眉が緩やかに下り坂になる。

 淡い光が内側から広がっていくようだった。

 ダイヤモンドでも、太陽でもない。そんな神々しいまでの光ではない。薔薇のような気高く見目麗しい花でもない。

 その微笑みは、まるで道ばたで見つけた何気ない花。例えるならばタンポポの綿毛のような。ぽかぽか陽気、春の風に誘われてふんわりと舞い上がるような。たくさんの綿毛が、そよ風と手を繋いでいっせいに空へと昇っていく。

 俺はそんな白くて淡い光達に包まれていく。

 優しくて、触れたら壊れてしまいそうなデリケートなものだけれども、大切に思えるもの。

 夏目に向けたものとは違う、ウメの微笑みの形。くちなしに例えたはずの笑みも、実際に向けられてみて、初めて分かる真実の顔。

 それが、ウメの笑顔だった。俺に向けられた初めての笑顔だった。


「……私にも分かる」


 俺の頬に添えられた手。


「……夏目が好きだから」


 俺の冷たい頬を撫でてくれる。


「同じ。私も……夏目と、佐々木と同じ……」


 微笑みはあっけなく消えてしまう。やはり苦しいのだろう。ただでさえ表情に乏しいのに、微笑みを描いて見せたのだから、無理がたたるというものだ。それでもウメは手を下ろしたりしない。それは俺の頬に添えた手で感情を伝えるかのように。


「……私も重ねていたのかもしれない」


 俺の腕の中で、臨終まぎわの子猫のように震えている。

 本当に同年代かと疑いたくなるほど、病的に軽い。乱暴にすれば壊れてしまうような、ガラス細工然とした繊細さ。華奢が誉め言葉に聞こえないウメの姿。色白で、雪国が似合いそうな。

 ……そんな白い子猫。


「寂しかったから」


 ウメは何を見ているのだろうか。視線は俺を向いてはいるが、俺を見てはいない。そぼ降る灰色の雨の中、過去の小舟を俺とウメの中間に浮かべているようだった。


「欲しがっていたから」


 サイレンの音が近付いてくる。ようやく救急車のお出ましだった。まだ山彦のように聞こえてくるだけで、白い体躯を現してはないが、三分と立たずに到着するだろう。

 耳障りな音。

 耳を切り裂くような、過去を掘り起こすような忌まわしい音が少しづつボリュームを上げる。


「だから、同じ」


 ウメのかすれ声が、サイレンよりも耳に入ってくる。


「夏目と、佐々木と、私は……同じ。……みんな……誰かに誰かを重ねてる」


 今、ウメが声ににじませたのは後悔なのだろうか。そう言って閉じたウメの唇が震えている。

雨音が沈黙を埋めた数秒ののち、再びウメの唇開かれた。


「――どこにも行かないでって」


 俺の耳に何かが落ちる音が飛び込んできた。

 財布の小銭が落ちて暴れる音。

 一本目の缶コーヒーが地面に落ち、泥にまみれる音。

 二本目の缶コーヒーが、一本目の缶コーヒーにぶつかる音。

 スチール缶らしい硬質な音の狭間。


「杏里を待っていてくださいって」


 ウメの声ではない、もう一人の声。


「それなのに先輩は、杏里のそばからいなくなるのですね……?」


 ――杏里の声。


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