第二十六話・「どこにも行きませんよね?」
二人だけの公園に、大粒の雨が降る。
雨の作り出すその音は、まるでチャンネル設定のされていないテレビのようで、いつになっても映像を映そうとはしない。俺がチャンネルの設定をして、初めてテレビは俺の記憶を映し出した。
夏目の家での映像が鮮明に浮かぶ。記憶を再生するテレビに釘付けになり、俺は瞬きをすることも忘れて、映像にのめり込んでいく。
夏目が泣きながら俺に言おうとしたこと。ウメに対してしてきたこと。
……そして、夏目がその末に選んだ決断。
俺は夏目を殴りつけた感触思い出す。右の拳を開き、手のひらを凝視する。短い生命線の上に爪痕が克明に残っていた。
結んで、開いて。結んで、開いて。
人を殴った感触。硬質の中に粘土でもつまったような、えもいわれぬ気持ち悪い感触だった。トマトをつぶしたような感触とも違う。スイカを殴り潰すような感触とも違う。
殴った人間にしか分からないであろう、独特の感触だった。
「――くしゅん! ……なのです」
杏里のくしゃみが聞こえて、俺は現実に引き戻された。
俺と杏里は結局学校をサボってしまった。鹿岡兄妹にも、ぽけぽけした友人にも何も連絡をしていない。今頃、心配しているだろうか。普段休むことはおろか、サボったこともないから、心配の前にきっと首をかしげているだろうな。
携帯電話は自宅の机の上だから、メールやら着信履歴やらでいっぱいになっているだろう。
心配性の友人を多く持つと、何かと大変なのだ。
「……風邪か?」
鼻水をすする杏里は、ふるふると首を振る。濡れた制服から透ける杏里の二の腕が、幼いはずの杏里をやたらと女らしさを強調しているように感じられた。
「いえいえ、杏里は大丈夫です。それより、先輩こそ寒くないのですか?」
「俺は……」
寒くないと言ったら嘘だ。夏目の家を無言で出た後、俺達は急に降り出した雨を鬱陶しくも思わないで、黙ってこの公園まで歩き続けた。気が付けば俺の後を無言で付いてきている杏里もびしょ濡れで、俺は近くにあった公園に退避した。
見覚えのある公園。
幼い頃、佳乃と遊んだことのある公園で、最後のデート一日目の舞台ともなった場所だ。
「俺は少し寒いかな」
体中が発火したような熱に覆われていたのに、今は凍えるような寒さで震えている。夏目を憎み、殴るだけでは鎮火しないだろうと思われていた黒い炎でさえ、元々そんなものが存在していなかったとでもいうように胸の奥で眠りについている。
雨の冷たさが、俺の頭を冷やしてくれたのだろうか。……いや、きっと違う。
夏目の言った言葉の一つ一つが、俺の頭の中をぐるぐると駆けめぐっているからだ。
「先輩の手、冷たいのです」
杏里がためらいもなく俺の手を握る。優しく自分の口元まで持ってくると、冬場の寒さをしのぐように、俺の手に息を吹きかけた。ストーブとなった杏里がにっこりと笑う。
「あったいですか? 先輩」
俺達は恐竜の口の中にいる。子供向けの遊具、滑り台。ステゴサウルスの尻尾部分から登りはじめ、背中に生えた互い違いの骨盤を頼りにして恐竜の頂上へ。そこから首を抜けるようにしてトンネルの中を滑っていき、最後に口からはき出される。俺達は丁度恐竜のあごから足を出すような格好で並んで座っていた。肩身は狭いが、雨をしのぐには十分。極貧家族が身を寄せ合って生活するのと同じく、俺と杏里も肩をぴったりとくっつけていた。
「雨、止まないですね」
空に向かってつぶやく杏里。
「――くしゅん! ……なのです」
「本当は寒いんだろ?」
「えへへ……ばれちゃあしょうがないのです」
舌を出し、江戸っ子調でおどけてみせる杏里に、俺はポケットから財布を出してみせる。杏里は目の前に突き出された財布を寄り目になって見つめ、三秒後に疑問符を浮かべる。
「あったか〜いもの買ってくるか?」
「あったか〜い……? 不思議な発音をするのですね、先輩は。あったか〜い、あったか〜い……あれれ、どこかで聞いたような。いや、見た、が正しいのかもです。……はうう、まさか自動販売機に書かれているっ……!?」
杏里は合点がいったという代わりに、手をぽんと叩いて見せる。
「まさかっ!? 先輩は杏里をパシリに使うのですねっ!? 自分で買いに行って、杏里、ほらよ、とさりげなく渡すのが格好良さではないのですかっ!? それを自分がお金を出すからといって、寒い寒いと体を震わせる杏里に買いに行かせるとは……むむむ、先輩のなんたるドS。ドMな杏里でなければ、将軍徳川吉宗が庶民の要求不満などの投書を受けるために評定所の門前に置かせたといわれる目安箱に用紙を大量につっこんでいるところですよ?」
恐竜の口内で大げさな身振り手振り。
「それはいいけど、目安箱ってな、下手をすると投書したヤツは殺されるかも知れないんだぞ」
「ええっ!? それは知らなかったのです! では先輩! 杏里は殺されてしまうのでしょうか!? 市中引き回しの上、打ち首獄門ですか!? 駅前とかにさらし首にされて見せしめにされてしまうのですね!?」
「時代劇の見過ぎだ」
驚きに飛び上がるあまり、恐竜の上あごに頭をぶつけそうになる杏里。俺はそんな杏里に冷静な言葉を返した後、懐かしい感覚を感じ、最後にはトゲを刺すような痛みが滑り込んできた。
夏目の告白に対して少なからず衝撃を受けている俺。それに関しては杏里も同じだ。けれど、杏里はそれでもいつものようにおどけて見せ、笑ってみせる。
飼い主がいつものようにボールを投げてくれるのを信じて。
「それでだ。ほら」
俺は杏里の目の前で財布をちらつかせる。なんだか意地汚い富豪が札束で人を使うような仕草に似ていて行儀が悪い。
「むぅ……出資者だからって無理難題を言うのですね……」
風船のように頬を膨らませ、杏里は俺の財布を受け取った。
「本当に無理難題です……雨の中、こんなに可愛い女の子をパシリに使うなんて先輩オンリーで
すよ。そして、そんな杏里はロンリーです」
……面白いのか、上手いのか。よく分からん。
「男女同権。女だから優しくするは通用しないぞ」
「杏里は女ではないですよ。恋する乙女なのです」
判断に困る表現を残して、杏里は再び雨の中に降り立つ。
雨は公園の樹葉を揺らし、地面を黒く湿らせていく。世界中が雨音で満たされ、何一つ同じ雨音ではないことに気が付く。ベンチに落ちる音、葉に落ちる音、アスファルトの上に落ちる音、砂場に落ちる音、ブランコに落ちる音、恐竜の頭に落ち、口の中に反響する音……。
降水量、落下速度、打ち付けられる角度。
そのどれかが違っただけで新しい音を奏でるのだ。そう考えれば、今聞くことのできた雨の音は、聞けたことそのものが奇跡的なのかも知れない。
――人間と同じだ。
出会い、別れ。行動、言動。それに従って揺れ動く時間、タイミング。
それらは、考えようによっては奇跡なのかも知れない。日常の一つ一つが奇跡。佳乃と当たり前のように過ごしてきた年月も、毎日毎日が奇跡だった。
ただその奇跡に慣れすぎて、俺が鈍感になってしまっただけ。
「ねぇ、先輩っ!」
公園の外に遠ざかりかける背中が、くるりと振り返る。
「どこにも行きませんよね?」
肩の上を跳ねる雨の雫。雨脚はちっとも速度をゆるめない。
「杏里を待っていてくれますよね?」
俺は手を振る。回答に迷った挙げ句、答えをはぐらかす。
「行ってきます!」
杏里の背中が公園の外に消えていく。サッカーをするにしてもペナルティキックぐらいしかも出来ない公園で、俺は一人雨音に包まれる。
「そういえば、雨音って言うけど、雨の音って雨自体の音ではないよな。雨が何かに打ち付けられて初めて音が出るわけだから……そう考えると、雨の音ってどんな音をするんだろうな」
我ながら、臆面もなく詩人をしている。杏里がいなくなって自由の出来た恐竜の口の中、俺は夏目の述懐を再度思い出す。
雨音は記憶を呼び覚ます助力を惜しまない。
――その頃からだ、私がウメにのめり込んでいったのは……。
手で顔を覆い、腹の奥で固まったままの黒い絶望の様子を探る。
動く気配はない。まるで死んでいるように静かだ。でも、絶対に死んではいない。いつまた俺を襲ってくるか分からない。絶望の淵へ連れて行かれるか分かったものではない。
手で顔を覆った隙間から、俺は雨でかすむ公園のブランコを目にする。
――今日家に帰ってね。仁君との一日を思い浮かべるの。映画館で手を握ってくれたこととか、一緒にいろいろなものを見て回ったこととか、こうして二人でお話したこととか……。
加速をつけたブランコから満点の演技で降り立つ。栄光の架け橋だ。そんな実況が聞こえてきそうな見事な着地。
――でも、仁君の笑顔が思い出せないの。
雨の中、佳乃が俺の方に歩み寄る。雨に濡れる様子もなく、水たまりに跳ねる靴音もなく、無音で俺のそばへ。
――どうして、そんな悲しい顔をするの……?
佳乃の白魚のような手が俺の目の前に差し出される。それはまるで天から差し伸べられる救いの手のように神々しい。
差し伸べられた手を俺は心から欲しがっていた。絶望の海で溺れる俺をすくい上げて欲しかった。
「助けてくれよ……佳乃」
触れるか触れないか、そのわずかな隙間。土砂降りにかき消されるように佳乃の姿は消える。霧で出来た幻想。
水滴に貫かれて佳乃は霧散していった。雨に濡れる俺の右手から、体温が逃げていく。
……まるで死人に引っ張られるように。
「杏里のヤツ……遅いな」
財布を預け、お使いを頼んだのはいいものの杏里は帰ってこない。
「どこで道草食ってるんだか」
犬っぽいだけに、本当に道草を食っていそうだ。犬が草を食べるかどうかはこの際置いていくとして、雨の中でも大きく跳ねるように走る杏里の背中を見ていると、今日が晴れの日であると錯覚してしまいそうになる。
「杏里……」
雨の中を笑いながら走っていった杏里の無邪気さに救われた俺がいた。
思えば杏里は、佳乃を失って間もない頃に彗星の如く現れ……いや、彗星の如く、なんて言うととても綺麗なもののように聞こえてしまうから、訂正しておく。
彗星は通り過ぎるから美しいのであって、毎日毎日目障りなほど俺の周りをくるくると、それこそ衛星のように回り続けられたらうるさいことこの上ない。
――先輩先輩先輩。
しつこく三回繰り返す独特の言い回し。
――先輩、笑ってください、にこにこ〜なのです。
脇役キャラクターによく見られる語尾の変化でキャラ割りをさせられるような口癖。
――ひどいです。Mな杏里でなければ、駆込み寺に飛び込んでいるところです。
俺が冷たくしたり乱暴にしたりする度に、涙目で訴える決め台詞。
――先輩先輩先輩! お供するのです。
俺のシャツや袖口をちょこんとつかむその白く細い指先。上目遣いで見つめてくる、まん丸な瞳。
舌を出して、フリスビーを投げて投げてとねだる子犬。お散歩に連れて行ってと、自らのリード線を加えてすり寄ってくる子犬。叩かれても、泣かされても、いじめられても、次の日には全て忘れてしまったかのような笑顔を見せてくれる従順な子犬。飽きることなく笑い、飽きることなくくっついてきて、飽きることなくじゃれ合う愛くるしい子犬。ご主人様の意見などまるで聞いていない、自分の欲望に忠実な子犬。
とにかく、そんな調子で子犬――杏里はそっとして欲しい俺の気分を何度うんざりさせてきたか分からない。
本当にうざったい奴だ。
でも、満場一致だったはずの心の採決は、後日、過半数で可決するようになり、後日、連立政権でしか可決できなくなり、後日、意見がまっぷたつに割れた。
今は、政権を維持するのがやっと。感動した、と大声でパフォーマンスする首相が退陣した後は、本当に足下がおぼつかなくなってきている。
…………本当に、うざったい奴なのか?
杏里が脳裏をよぎる。
よぎった表情は、降りしきる雨を蒸発させるぐらい燦々とした笑顔。
にっこりと笑うその表情はやがて一人の少女の面影と重なり、輝きが増していく。
――仁君。
声が聞こえた気がした。
恐竜の口の中、俺は公園の入り口に目を向ける。
……俺は何のためらいもなく雨の中にゆっくりと身をさらしていた。
体温のおかげである程度乾いていたシャツに、再び雨が染み込んでいく。肩を叩く雨の飛沫が俺の頬に飛びついてきても、俺は拭おうとすらしなかった。拭うぐらいの暇と労力があれば、俺は公園の入り口をずっと見つめていたかった。
「………………ささ、き……?」
凍えるような寒さを身にまとった子猫が、雨に濡れていた。