第二十五話・「もうたくさんだ!」
「谷崎潤一郎の小説に『痴人の愛』という小説がある」
夏目の目が真摯に訴えかける。俺は自分の中で物議を醸し出すウメに対しての汚らわしい妄想を見透かされてしまったような気がして、初めて気圧されそうになった。
夏目はそれを知ってか知らずか、幾分声のトーンを落とした。
「ナオミという少女を見初めた譲治という男が、幼い彼女を自分好みに育てていき、やがて色欲に溺れ、奔放な彼女を制御しきれなくなる……という話だ。私はあの小説の再現がしたかったわけではないし、もちろん『源氏物語』で言う光源氏と紫の上の関係を望んでいたのではない。ただ純粋に、親子の関係でいたかっただけなんだ」
唐突に話に登場した古典や現代文の授業めいた出典。授業をしっかりとは聞いていなくとも、内容は頭の中にかろうじてだが残っていた。
――光源氏は、訪れた先で見かけた幼女、紫の上に亡き母の面影を見た。母親が好きだった光源氏は、当然のように紫の上を養女としてもらいうけ、自分好みに育てていったとかなんとか。
……確かそれが光源氏と紫の上の出会いだったはずだ。
初めて聞いたときは、なんてマザコンかつロリコンだ、などと思ったりしたから、かろうじて記憶の片隅に残っていた。
夏目は自分がウメを育てた経緯を例えて言っているのだろうが、そんなことは俺にとってはどうでもいいことだ。もし、それをネタに自分のしてきたことを正当化するというのならば、また俺の拳を振り上げればいいだけの話。
抑え込まれていた怒りの温度が沸点に迫っていく。
「ただ……ウメ自身はそうではない。いつのまにか、私の知る全てが、ウメの全てではなくなっていたんだ。……彼女は一人の女性として生き始めている」
夏目の深い輝きを帯びた目に、温度の上昇曲線が急停止する。
「――愛を受け取るだけの子供ではなく、誰かに愛を注ぐ女性になろうとしている」
夏目の言わんとすることを、俺はにわかには理解できない。
「皮肉としか言いようがない。『源氏物語』を否定したはずなのに、その実は、そこから脱することが出来ないでいる。……光源氏が生涯で愛した女性は数多といるが、常に彼の中にはある女性がいた。母である桐壺更衣だ」
「でも愛したのは藤壺の宮で、彼女に似た紫の上なのです」
俺のわきに控えていた杏里が、夏目の独白に入り込んでくる。
俺は杏里がなぜそんなところに会話を割り込ませなければいけないのか、その理由さえ分からない。
「確かに。……だが、その紫の上と藤壺の宮も、もともと桐壺の更衣に似ているということから始まっている。結果的には、慕うものは同じだ」
夏目は俺に向けていた視線を杏里に向け、そして、やはり最後には俺のところへ戻ってきた。
夏目にとっては、言葉を向けるべき相手は、俺、ということらしい。
「育ててくれた人を愛してしまった点では、ウメも同じだ。そして、前述した谷崎潤一郎ですら、母を必要以上に愛していた。彼は生涯にわたって母の愛を書いている。母親と結ばれるという小説もあるぐらいだ。……『夢の浮橋』がそうだったと記憶している。そして、『夢の浮橋』は『源氏物語』の絵巻の題名でもある」
もはや夏目の言葉は理解できない。まるで研究論文でも発表するように出典を並べ立てられ、関係性を説明されても、俺にはぴんと来ない。
ただの念仏と同じだ。
南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、臨兵闘者皆陣烈在前……なにかの文言だということは分かるが言葉の意味は分からない。それと同じく、夏目の言葉は聞き取れるが、裏にひそむ意味までは理解できない。
「私のしてきたことが必然なのか、それとも偶然なのかはわからない。けれど、物事には原因と結果がある。そして、何が良かったのか、悪かったのかも。物事の全ては大なり小なりつながっているんだ」
夏目の視線に耐えられなくなって、となりの杏里に視線を逃がす。
杏里は夏目の言っていることが理解できているのだろうか、ひどく複雑な顔をしていた。
血がでそうなぐらいに下唇を噛み、俺の袖口を握る指の力も震えるほどに強くなっていた。
簡単なことわざの意味も分らないはずなのに、なぜ杏里は夏目の言うことを理解できるのだろうか。
「私は……もう、ウメを冬美と重ねることはできない。ウメには一人の女性として生きるためのアイデンティティがある。ウメは冬美ではない。彼女を冬美として愛していくのは間違ったことだ」
夏目の独白は続く。
三人を包み込むように暗闇が広がっていく。
ふと外に目をくれれば、いつの間にか青空が色を変えていた。
わたぼこりの色をした雲が空を覆っている。高速で広がっていく鉛色の雲は、容赦なく太陽を覆い隠し、世界に注がれていた光を絞っていく。鉛に埋もれた青空。今にもその痛みで泣き出しそうだ。
「ウメはとても繊細で傷つきやすい子だ」
夏目の声に、俺は外の世界から視線を引きはがすしかなかった。
「自分が誰かに重ねられていることは、すぐに看破することが出来る。私が彼女をそうして育ててしまったことが一番の原因なんだ。そして、そうやって育ててしまったからこそ、他人を敏感に読み取る反面、自分のことに対して鈍感になってしまった」
室内がかげっていく。時間上ではまだ太陽が昇っているというのに。
不気味なほどの静寂を保つ室内に、夏目の声だけが響いていく。
張り巡らされた赤外線レーザー。触れれば爆破装置が起動し、木端微塵になりそうなほどの緊張感。
「ウメもどこかで気が付いているはずだ。私を愛そうとするのは一人の男だからではなく、父親だからなのだということに」
――…………パパ。
朝ウメを迎えに行った時に聞いてしまった彼女の寝言。そして、真っ白な頬を伝った一滴の涙。今でも鮮明に思い出せる、記憶のフォトグラフ。
「ウメはそれを理解するのを嫌っている。だから、佐々木君の前であんなことをしたのだと思う。……なによりも、命を誰よりも大切に思っている彼女が、死を軽く扱う発言をしたことが一番の証拠だ。あれはウメの心からの言葉ではないよ」
ウメは夏目をパパとは言わなかった。
夏目の言うことが正しいとすれば、パパという寝言はウメの深層心理が言わせたのだろうか。
俺の頬に炸裂した二回の平手打ちも、ウメらしくない、突き放すような言葉も、何かを隠すためだとしたら。
「私はウメと生きるべきではない。私はウメの前から消えるべきだ。いくら彼女を我が子のように愛しているとしても、天使のように思っているとしても」
太陽の光が失われていく世界で、夏目の瞳だけが光を放つ。
それは、揺るぎない意志を持った瞳。決意の表れ。
「そして、今日、私はこれからウメにそれを伝えるつもりだ」
夏目の意志の力におされながらも、俺は何とかかかとに力を入れてその場に踏みとどまる。
「……勝手すぎる」
悪役が逃げ去る際に、決まり切った捨て台詞を吐くように、俺は口から言葉をこぼしていた。何の考えも無しにこぼしてしまった言葉は、思いもよらず自分自身に返ってくる。
――なにがデートだよ、なにが宣戦布告だよ……。
自動再生機能の付いた記憶は、俺に無断で再生を始める。
――勝手なんだ……自分勝手すぎるんだ! 佳乃も、俺も!
そうして佳乃を求めて走り出した。
気が付くのが遅すぎたせいで、想いを伝えることも遅れてしまった。その結果、俺は佳乃を失うことになった。迷い、悩み、気が付き、そして走り出した。
けれど、伸ばしたその手は愛する人に届かなかった。気が付くまでに時間がかかりすぎた。
身勝手な自分の思い込みが、どちらかの佳乃を選ばなくてはいけないという思い上がりが、あの暗澹たる悲劇を生んだのではないか。
絶望を生み出したのではないか。
だとすれば。
俺は、同じ過ちを繰り返そうとしているのか……?
馬鹿な。俺のどこが身勝手だと言うんだ。
俺はウメを救おうとしているんだ。佳乃を宿したウメは尊い。佳乃がまだ現実に生きていると証明してくれる生き証人がウメなんだ。
――ウメであり、佳乃。佳乃であるウメ。
そんな彼女を守ろうとすることのどこに、身勝手さがあると言うんだ。
そうだろ、佳乃。俺は、正しいだろ? 間違っていないよな?
「佐々木君……君は私に似ている。だから、君には私のようになって欲しくないんだ」
「俺はあんたのようにはならない。俺はあんたじゃない」
即答していた。今すぐ切り捨ててしまわなければならない言葉、遮ってしまわなければならない言葉に思えた。
「……そう、そしてウメは冬美ではない。ウメはウメでしかないのだと思う。誰かが誰かの代わりになることなんて出来ないんだ」
脇腹に、ゆっくりと何かが刺さっていくような感覚がした。すぐに麻痺してしまうようなわずかな痛みだけれども、確かにその痛みは俺の中に入り込んでくる。
例えるのなら、火鉢で熱した鉄の箸を、背中に差し込んでいくような、体の中に入り込んでくるような嫌悪感をともなった痛み。
……俺はその痛みの原因が分からなかった。
「失われてしまったものを見つけようとするのは、意味がない。同じものは二度と得られないのだから。だから、過ぎ去った道、背後を振り返ったまま立ち止まり続けることは意味がない。もちろん、振り返ったまま歩き続けることも」
俺はいきなり襲った痛みに耐えるべく、腹部に力を入れた。
黒い絶望に耐えるときと同じように。
「……私は、出来ることならば妻ともう一度やり直したいと思っている。願うだけではなくて、声に出すだけではなくて、行動しようと思っている。止まってしまった時計の針を、他でもない自分の手で動かさなければいけないんだ」
夏目は水滴を拭った写真に目を落とし、再び我が子に触れる。
「冬美……すまなかった。お父さんは、そんなことにも気が付くことが出来なかったんだ」
二度三度と愛しそうに我が子を撫でる。
写真に写った冬美という娘は、変わらず幸せそうな笑みを浮かべていた。三人家族の写真の中には、一生変わらない幸福が現像されている。夏目という家族が過ごしてきた過去の暮らしを慈しむように、目の前の男は微笑みを浮かべていた。
「佐々木君……ウメを助けてやってくれ」
一度は笑みに変えた頬を強ばらせる。
「きっと彼女は傷ついてしまうから」
言われなくても、ウメが悲しんでいることを見過ごすなんて出来るわけがない。
身を乗り出しかけた俺の前に杏里が回り込む。
「先輩……駄目なのです」
袖口をつかんだ手を離し、俺を見あげる。
「夏目さんも、どうしてそんなことを言うのですか? ……身勝手です。先輩に何もかも押しつけて、夏目さんの責任は夏目さんが持つべきなのです。ウメ先輩も夏目さんが好きなら、それを望んでいるはずなのです!」
今まで黙っていた分、ため込んでいた分、ダムが決壊したようにまくし立てる。
「もう先輩をこれ以上苦しめるのは止めてください! やっと見つけた私の居場所を壊さないでください! 私は今がいいのです! 先輩と二人でたわいもない話とかしていたいのです! たとえそれが誰かの代わりでも、私は――」
「杏里、もういい」
俺はさっきまで袖口を握っていた手を取って、出口へと歩き出す。
「でも、先輩!」
杏里の金切り声が、俺の心をかき乱す。
言い足りないとでもいうのか、俺の手を振り払おうともがく。
「――もうたくさんだ!」
俺は夏目に対して、杏里に対して、つばを吐くように俺は言い捨てた。杏里は俺の強い口調に肩をびくりと振るわせ、ごめんなさい、と一言だけつぶやいた。
「失礼します」
限りある理性を振り絞って退室を告げる。
杏里には悪いと思ったが、俺は強い力で杏里の手首を握りしめ、引きずるようにして玄関口へ向かおうとする。杏里はそんな俺の強引さに無駄口一つ言わず、されるがまま。そんな杏里の姿は、主人に引っ張られる子犬を連想させた。
「……佐々木君」
呼び止められた俺は肩越しに夏目を見る。
「ウメは本当にいい子だよ」
我が子の写真を胸に抱く夏目の表情は、すっかり暗くなってしまった室内のせいで分からなかった。けれど、夏目がどんな表情をしていても、俺の答えは変わらない。
「言われなくとも、知ってます」
杏里の口が開きかけるが、それはのど元で止まってしまったようだった。
嵐の前の静けさにも似た曇天の袂で、夏目は静かに言葉を紡ぐ。
「その言葉が聞けてよかった」
――そして、雨が降り出した。