第二十三話・「ただそばにいたい」
翌朝早く、俺は家を出た。
世の中は何も変わっていない。
誰が悲しみ、誰が喜び、誰が泣き、誰が笑っても、世の中は急に加速したりしない。例え深く傷つき、未来が見えなくなっていても、太陽は昇るし、日は沈む。
この世の終わりなんか来ないし、ノストラダムスだって虚言癖だとののしられる。
アフリカの貧しい人たちが何万人死に絶えようと、中東で頻発するテロや紛争で町を焼かれ、家族が殺されようと、相も変わらず電気街では萌えだのメイドだのツンデレだので盛り上がっているし、家に引きこもっては匿名の掲示板に暴言を書き込んで話の腰を折っている。
そうして人は相も変わらず、過ごしている。
俺も生きている。
佳乃を失っても、ウメに拒絶されても……。
「だ〜れだっ?」
朝のすがすがしい風が遮られ、目に映るまぶしいぐらいの朝の町がブラックアウトする。今どき流行らない恋人達の戯れのように、柔らかい両手が俺の両眼を包み込んだ。
「……おはよ」
「おはようです、先輩」
まるで昨日瞳を濡らしたのが嘘のような明るい声が、背中から聞こえてくる。
「ところで先輩、だ〜れだ、です。杏里が誰か分かりますか?」
それはアイデンティティを問うていると考えた方が良いのだろうか?
せめてそういう人間当てクイズをするなら、一人称を自分の名前でないものにしてからの方が良いと思う。私とか、あたしとか、あたい、とかさ。
「……はっ! 先輩先輩先輩! 今のは誘導尋問だったのですね! あ、杏里、一生の不覚です!」
勝手に自分で掘った墓穴に落ちて、墓穴の中でのたうち回っているだけだろ、とは言わない。
「それぐらいが一生の不覚なら、お前の一生は何回あるんだよ」
視力検査よろしくふさがれていた目がようやく解放された。瞳孔が開いてしまった分、朝日のまぶしさを三割り増しで感じる。
「今日も今日とておはようです、先輩」
俺の前に回り込んだ杏里が、にっこりと笑う。子犬が舌を出しながらご主人様の持ったボールを投げて投げてと催促するかのようだ。
「先輩、今日は早いのですね。杏里、結構待たなきゃなって覚悟していたところだったのです」
俺が前進すると、杏里は後ろ向きで歩き出す。常に面と向かって話そうとする杏里のお尻では、後ろ手に持った鞄がウエストポーチのように揺れている。
「今日は、たまたま早いだけだ」
「だったら、杏里はラッキーですね」
嬉しそうに一回転した杏里のスカートが、シャンプーハットの形を作る。そして、再び俺と向かい合う。
「早起きは三文の得って本当なのです」
薬指、中指、人差し指。その三本を笑顔の前に突き出す。明朗で快活な杏里。
俺はそんな杏里にめまいを覚えそうになる。昨日のことが嘘だったのではないか、と。
「二束三文、三文文士、三文判……意味、分かるか?」
「あ、杏里を馬鹿にしましたね! お母さんにも馬鹿にされたことないのに!」
杏里が鞄をぶんぶんと振り回しながら抗議する。
「それじゃ、二束三文は?」
「靴二足で、三文なのです。つまり安っぽいという意味なのです!」
ない胸を張る。なんか、二重の意味で空寒いな。
「……次、三文文士は?」
「さんもん……さんもんぶし……分かったのです!」
分かったって……もともと考えて解くような問題ではないぞ。言うまでもないが、これは知っているか、知らないかの問題だろう。
「三つの問いに答える野武士です」
「その心は?」
「ヤツは暇人」
だから、自信満々にふんぞり返るな。間違ってるから。
例えるならアレキサンドリアの天文学者プトレマイオスが提唱した天動説ぐらいに間違ってるから。放っておけば、天動説のように間違った教えを千四百年間にわたり信じ続け、それこそポーランド生まれのコペルニクスが地動説を唱えて、ガリレオ・ガリレイが木星を見つけるまで杏里は間違い続けるだろうな。
……本当にため息が出る。
俺は一縷の望みもなく、同情半分、憐憫半分の心――つまり百パーセント憐れみで出来ている――で一応最後まで聞いてやる。杏里は犬だから、生類憐みの令ってヤツだ。
「三文判は?」
「ふふふのふです。杏里が知らないとでも思ったのですか? ずばり、かけ声なのです。サン、モン、パン! って感じです。バッターがタイミングを計るときによく使うのですよね?」
「……誰が、野球の話をしろと言った」
鞄の取っ手を強く握り締めた杏里が俺に迫る。
「えええっ! でもでもでもですよ、先輩。、正解と言っても遜色ない筋が通ってませんか!?」
俺は眉間のしわを人差し指で伸ばす。
「違うのですよ」
俺の声を耳にした杏里の顔が、憮然としたものになった。
「……む、真似ですね」
「真似なのですよ」
投げやりに答える。
「杏里の真似しないでください」
「杏里の真似しないでください」
夫婦漫才じみたやりとりに、俺は心なしか足取りが軽くなる。
「むむ、意地悪ですね」
「むむ、意地悪ですね」
杏里が難しい顔をして、鞄を持ったまま腕を組む。
歩くスピードは緩めない。後ろ歩きも慣れたものだ。
「すもももももももものうち」
「すもももももももものうち」
昨日の今日だというのに、朝から元気でいることの出来る自分がひどく人間離れした者のように思えて仕方がない。
「赤巻紙青巻紙黄まひぎゃう」
舌を噛んだらしい。涙目になって口を押さえている。
「赤巻紙青巻紙黄まひぎゃう」
舌を噛んだ痛みで涙腺を緩ませる杏里の姿が、昨日の夜にはじけたスターダストを思い出させる。胸が五芒星の角に突き刺さったようにちくりと痛む。
「先輩のいぢわる、なのです。じ、じゃなくて、ぢ、なのがポイントです」
「先輩のいぢわる、なのです。じ、じゃなくて、ぢ、なのがポイントです」
俺が真似ると、怒った子犬のようにのどの奥から声を出して威嚇する。でも、上目遣いなのでちっとも怖くは映らない。杏里はなにやら思案気に俺の瞳を見つめた後、思ったより簡単に威嚇を解いて立ち止まる。俺も立ち止まる。
「………………杏里好きだ」
「さて、行くぞ」
「ひどい!」
先に歩き出した俺の背に届く言葉。
ひどい、か。……ああ、その通りだ。俺はひどい人間だよな。
本当にうんざりするぐらいひどい。自分でも不思議で仕方がないんだ。何でこんなに明るくしていられるんだろうな。一人でいるときはいくらでも黒い海に沈んでいけるのに。
悲しみに慣れたのか。それとも、忘れてしまった?
……いや、佳乃を失った絶望も、ウメに拒絶された悲しみも、きちんと胸の奥で寄生し増殖し、今もそのテリトリーを広げている。
それとも、ウメのことなんかどうでも良くなったのか?
……それも違うな。
実は子猫のようにかわいらしかったウメの笑顔……佳乃の笑顔が、夏目というただ一人の男に注がれている。
俺はそれが妬ましくて仕方がないんだ。醜い感情でいっぱいになっているんだ。
どうでも良くなるなんて、そんなことあるわけがない。絶対に。
「せめてさっきのことわざの意味教えてください! でないと、杏里は気になって気になって気になって授業中眠れないじゃないですか!」
「禍を転じて福となす、だな。授業中寝ないのはいいことだぞ」
ぱたぱたと駆けてきた杏里が、前ではなく左に並んで歩き始める。
なので、抗議の声も左からだ。
「先輩、ひどいです! 鬼、悪魔、ドS! Mな杏里じゃなかったら放送倫理協会にワンコールしているところですよ!」
ワンコールでは、つながるところにもつながらないだろ。
「馬鹿には付き合ってられん」
「馬鹿だからこそ、教えて欲しいのです。杏里は馬鹿だけど見てください! この溢れる好奇心、溢れる知識欲を!」
どこを見ればいいんだよ。それに好奇心とか、知識欲ってどこから溢れてくるんだ。
そもそも、それは見えるものなのか?
「先輩の目は疑いの目です」
「分かった。分かったよ。色々話がそれたけど、教えてやるよ」
手が少しだけ疲れたので、左に持っていた鞄を右手に持ち直す。
「二束三文、数が多くて値段のきわめて安いこと。物を捨売りにする場合の値段にいうんだ」
杏里がコクコクとうなずく。
「次、三文文士。つまらない作品しか書けない文士。また、文士の蔑称のこと」
どこからかメモ帳とシャープペンを取り出して、細緻でミミズのような文字を走り書きする。お前は、証人喚問の速記者か。
「最後に、三文判。できあいの粗末な印形」
並んで歩きながら俺は杏里に解説してやる。
「どこか辞書を引っ張ってきたような解説ですが、一応メモメモなのです」
一言余計だ。
「そこで、最初に立ち戻るわけだ」
「謎解きですね? どんでん返しのびっくり仰天ですね?」
俺はうっとうしい煙でも払うように左手を振る。
「あー……とにかく、早起きは三文の徳って言っただろ。それって結構得したように聞こえるけどさ、先の三つの三文にもあったように、三文っていうのは実はそれほど価値がないものなんだよ」
「その未来がないようなオチはいただけないですよ、先輩」
疲れて徒手にした左手の小指が、温かい何かに包まれる。
「もっと明るく行きましょう! 杏里は明るい方が好きなのです! ハッピーエンド大好きでなのですっ!」
見れば空いた左の小指が、杏里の右手に包まれていた。
「先輩、気にしちゃ駄目なのです」
なにが、とは言えなかった。
やはり夢などではない。きちんとした現実で、昨日の杏里の涙は本物なのだ。
杏里は、そのことを言っている。鈍感な俺でもそれぐらいは分かる。
「辛かったら辛い顔をする。昨日辛くされたから、今日会いにくい、明日合いたくない……分かるのです」
朝が早すぎて通学路には人影はない。
唯一、犬のリードをもちながらランニングする大学生の姿が、俺達から遠ざかる。洗濯挟みのような流行の白いメディアプレーヤーがジャージの襟元にくっついていて、俺達を抜き去るときマラカスのような音を響かせていった。どんな音楽だったかは分からないけれど、心臓が高鳴るようなエイトビートだったことは確かだった。
「普通、嫌なことからは、苦しいことからは逃げると思うのです。杏里も、逃げ出したいな、って思ったのです。……でも、逃げられないのですよ。杏里は先輩のそばにいたかったのです。近くにいたいと思った人から、遠ざかろうなんて、そんなこと考えられなかったのです」
小指を握られるのは初めてではない。
おぼろげながら記憶がある。
ずっと、ずっと昔の記憶。
「近くにいたいから、傷ついても、傷つけられても良いのですよ。痛くても、悲しくても、涙を流しても、杏里はMだから耐えられるのです。Mだから笑っていられるのですよ」
杏里は今日の朝、俺に会うためにずっと待っていようとした。忠犬ハチ公が、毎日渋谷駅前で帰ってこない主人を待ち続けたように。けなげに、一途に、自らの苦労を厭わずに。
俺が何時に登校するかなんて分からない。もしかしたら、ショックで学校を休んだかも知れないのに。
忠犬杏里。
……本当に馬鹿だ。馬鹿で馬鹿で馬鹿正直で――胸が苦しくなる。
「辛いときは明るく、明るいときはもっと明るく。それが杏里たるゆえんなのです。だから、杏里は笑わなくてはいけないのです。にこにこしなくてはいけないのです。なので……杏里は先輩の分も笑います。そして先輩は、そんな杏里をたくさんいじめてもいいのです。知ってますか? 朱に交わればいつかは赤くなるのです。馬鹿は伝染するのですよ。だから、私が笑っていれば、先輩もきっと心の底から笑えるようになると思うのです」
わざと大きく手を振る。小指を握られているから俺の手もそれに従うことになる。
「なんせ、杏里はことわざの意味も分からないくらいの大馬鹿ですからね。とほほです」
鞄を持った手でこつんと自分の頭を小突いて、おどける。
「杏里……」
どうしてこんなにも、横にいる少女は俺に好意を寄せるのだろう。
真っ直ぐな目で見つめてくるのだろう。
分からなかった。だから、知りたくなった。
「どうして俺なんだ?」
「分からないです。でも、先輩が良いのです。先輩じゃなきゃ駄目なのです」
小指を離して微笑む。
「だから、杏里も参っています」
そう言った杏里の顔は、朝日の輝きに似ていた。俺はあまりのまぶしさに手をひさしのようにかざしたくなる。太陽の下で何度かくるくると回る杏里は、どこか照れ隠し様相を呈していた。そんな杏里の姿を見る度に、俺は毎朝となりを歩いていた幼馴染みの少女を思い出してしまう。
俺を、仁君、あるいは、仁、と呼んでくれた少女を。
その笑顔の輝きを重ねてしまう。
自動的に再生されてしまう追憶の情景を俺は止めることも出来ない。止めることが出来るかもしれないが、もし出来たとしても俺は止めないだろう。過去の風景に身をゆだねることはとても心地よいし、懐かしいから。洗いたてのシーツや、干したばかりの布団に顔を埋めるように怠惰になれるから。太陽の匂いに囲まれながら、甘美な記憶に抱かれることが出来るから。
だから、俺は杏里への罪悪感を抱きながらも、過去という記憶の美酒を味わう。
「おっ、とっ、と……」
俺の少し前を行っていた杏里は、回りすぎたのか通学路の曲がりで立っていたサラリーマンにぶつかってしまう。杏里は尻餅をついて倒れてしまい、スカートの裾を押さえながら恥ずかしそうに被害者にぺこりと頭を下げる。
「大丈夫かい?」
そう言って杏里に手を差し伸べるサラリーマン。
「すみませんです……」
反省する杏里は、申し訳なさそうに差し伸べられた手を取る。
「謝らなくていいよ。こんなところで人を待っている私も悪いんだからね」
一秒後に絡んだ二人――俺とサラリーマン――の視線が、俺の心臓を燃え上がらせた。
黒い炎。黒い溶岩。醜い感情。ぬらぬらと蠕動する。
「改めて初めまして。夏目陽司と申します」
慇懃に頭を下げるサラリーマン。
――私は夏目が好き。夏目のためなら、何だって出来る。
ウメの声がリフレインする。和やかに見えた明るさを一瞬にして吹き飛ばした夏目陽司は、慇懃に下げた頭を戻し、俺の視線を真っ直ぐに受け止める。
正直、俺が簡単に受け止められるような視線を放っていたとは思えない。
男に手を差し伸べられた杏里は、その俺の目を見て体を縮ませていたし、俺にかけようとした声も、のど元で立ち往生しているようだった。
俺はその視線を無意識に作り出していた。
眉はつり上がり、眉間には深いしわを刻み、瞳は燃えさかる火炎をまとう。自分の目を自分で見ることは出来ないが、杏里の姿を見れば分かる。あんなにおびえた杏里を、俺は今まで見たことがない。
「佐々木仁君、ですね」
俺の父とさほど年齢は変わらないであろう夏目は、俺が年下であることをはっきりと分かっていても、ゆっくりと丁寧に問いかけた。俺からすれば、その余裕の態度が癪に障る。
いや、どれだけへりくだっても、どれだけ正しいことをしても、俺は癪に障るのだろう。
夏目陽司をなす構成要素、その全てが俺は憎くて妬ましくて仕方がなくなっているのだ。
もしかしたらウメがその男の体の下敷きになっているのではないかという、妄想の加速。
陶器のような白い肌が男の脂ぎった肌で汚され、あるいは真っ赤な舌でべとべとにされる。まるでナメクジでも這ったかのように、ねっとりとした唾液の筋道を作り、それは高速道路のインターチェンジのように肌を執拗に這い回るのだ。
無精髭の残るあごでウメに頬ずりし、乾燥した唇でウメの耳たぶを食む。耳たぶの次は首筋だ。純白のうなじを皮切りに、鎖骨、胸元と落ちていき、小振りな胸を揉みしだきながら、その先端を口に含む。やがて、へそを舌先でほじくり、くるりと一周させた後、誰も見たことがない女の証へと無遠慮に突き進んでいく……。
昨日、待ち焦がれていた夏目に向けたウメの笑顔が蘇る。
あの小さくて均整のとれた美しい顔が、今度は快楽に染まるのだろうか。
唇同士の接触では、ウメの可愛い舌が男の舌を求め、波のように激しくうねるのだろうか。
唾液と唾液が混ざり、舌と舌が絡み合い、新たなる快楽への嚆矢となるのだろうか。
目をつぶり、一心不乱に。歯茎をなめ、あるいはつつきながら、男の乾燥した唇を、ウメが積極的に自身の唾液で潤すのだろうか。
――止まらない。
俺の想像も、想像の中で繰り返される汚れきった行為も。ウメをおとしめる猥褻な妄想も。
……俺はこんな人間だったのか。
自分ももしかしたら佳乃とそんなことをするのかと考える。しかし、それは夏目とは違い、とても美しく尊い行為なのだと思える。佳乃を愛していく行為なのだと思える。
でも、そんなものは自分勝手な愚考の産物に過ぎない。まるで愛が自分にしか与えられていないような独善的な思考回路。俺が尊いと思っている行為ですら、他人から見れば醜い行為に見えるのだ。当事者には魔法がかかっているから、綺麗に見えているだけ。だから、俺の考えていることは独りよがりにすぎない。
平静になれば、そんなことは当たり前のように分かるはずだ。
例えそれが誰と誰の行為であろうと、互いに愛という目に見えない絆がある限り、尊い行為に昇華される。
それがどんなに醜悪な男と女だろうと。
それがどんなに貧困な男と女だろうと。
それがどんなに馬鹿な男と女だろうと。
例え他人からは醜い行為だと見られ、判断されようとも。
愛は全ての人間に平等に与えられていて、どれも平等に美しく尊いものであるはず。
……しかし、そんなきれい事ですら、何の経験も持たない俺には分からないし、分かるつもりもない。……分かってたまるか。
佳乃が俺に注いでくれていた優しさや、温もり、まごころ、それが夏目という男によって汚されている。蹂躙されているのだ。ウメは佳乃そのもの。佳乃の心臓を持つウメは佳乃と同義なんだ。ウメが佳乃なら。佳乃がウメなら。
――俺を好きでいてくれるはずなんだ。
そうでなければいけないはずなんだ。
……そう考えてしまうのは、ゲームのやり過ぎなのだろうか。
主人公は、周囲の美少女達に大小様々な理由で好かれていって、気が付けば主人公の争奪戦が始まる。全ての少女が純粋で一途。決して他の男に心動いたりしない。もちろん、他の男と付き合ったこともなく、全てが初体験だ。
多難な状況をあの手この手でくぐり抜け、最後には強固な絆で、愛情で結ばれ、幸せな日々を送っていく。幼馴染み、ツンデレ、姉や妹、義妹、天然少女、眼鏡っ子、優等生……。型にはまったキャラクターと繰り広げる、型にはまったシチュエーション。家に押しかけてきて同居することになったり、転校してきたり、婚約者だったり、幼い頃に約束していたり……。馬鹿みたいに単純なゲームだ。
俺もそんなゲームが好きで、幾度となく感情移入してきた。でも、そんな日々の途中で大好きな人を失ってしまったら。不意になくしてしまったら。
俺はどうすればいい?
ハッピーエンドのない物語なんて知らない。俺の知っているゲームは全てハッピーエンドだった。どんなに悲しくても、どんなに大切な者が犠牲になっても、最後には失ったものが元の形になって必ず戻ってきた。多少の御都合主義であっても、結末は明るい未来だったのだ。
佳乃、俺はどうすればいい?
ゲームは何も教えてくれない。幸せになる方法もない。先に待つものがハッピーエンドだなんて保証をしてくれない。だったら、俺は佳乃と、佳乃を構成する要素を守らなくてはいけないのではないか。
佳乃は――ウメは――きっと、俺のことを好きでいてくれるはずだから。
何より、俺は夏目よりもウメを大事にしてあげられる。俺には夏目よりも優れたところはたくさんあるはず。夏目には出来ないことだって、俺には出来るはずだ。
俺は、夏目の瞳を貫くように眼力を込める。
佳乃は渡さない。これ以上、汚れさせたりしない。
心臓が、体が爆発しそうだ。
心臓から送り出されたニトログリセリンが、血管という血管で爆発しかかっている。ミトコンドリアが俺の体を乗っ取って怒りに震えている。
ウメの恍惚とした表情が頭から離れようとしない。
夏目がウメを――佳乃を黒で染めていくような気がしてならない。白い天使が、黒い悪魔へと堕落する。
「佐々木仁君、ですね」
まるで同じシーンを繰り返すように夏目は唇を動かした。ウメの唇を吸い上げたかも知れない唇。未成熟なつぼみを含んだかも知れない唇。醜悪な唇。
「ウメの――山田ウメのことについてお話ししたいことがあります」
夏目はウメの見えないところで作った複雑な表情を浮かべる。
ウメ、そう呼び捨てに出来る間柄だということに、俺はさらなる怒りを得、嫉妬心を覚える。
「出来れば放課後、お時間をいただけないでしょうか」
夏目の丁寧な言葉が、ぎりぎりで俺の理性を保っていた。もしも、夏目が少しでも自分勝手な発言や、ウメを軽視するような言葉を口にしていたら、俺は縮地法さながらに地面を蹴り上げて、夏目に殴りかかっていたことだろう。
「あなたに話しておかなければいけないことがあります」
聞き取りやすい声で話す夏目は、風体とは離れたところで、やはり社会人なのだと理解させられる。問答無用に叩き伏せることはいつでも出来る。俺は沸点温度辺りでさまよう理性と折り合いをつけた。
「……分かった」
「先輩!」
俺の悪鬼たる表情にとまどい、おびえていた杏里。俺と夏目の視線を遮るように前に出て、声を荒げる。
理想の早朝にはほど遠い風景。
「もう止めましょう先輩! その……ウメ先輩に何があったとか、夏目さんが誰なのか私には分かりません。でも……でもでも! 私は嫌なのです! せっかく先輩と一緒にいられる今が、なくなってしまうのはすごく嫌なのです!」
両手を左右に広げて、まるで戦場に行こうとする俺を止めるかのようだ。
「このままでだっていいことも、立ち止まっていてもいいことだってきっとあるはずなのです! 変わらないことが正しいとだってきっとあるはずなのです! 知らないまま生きていていいってこともあっていいはずなのです!」
杏里の左右に伸ばした両腕は、翼のように大きく広がっている。それは、俺の全てを受け止める用意がある、そう言ってくれているような気がした。
ただの身勝手な俺の錯覚に過ぎないだろうが。
「夏目さんといいましたよね。……私、今のままが良いのです。先輩のそばにいられる今が一番好きなのです! ずっと今のように先輩のそばにいられることが、杏里のただ一つの夢だったのです……!」
夏目を振り返り、懇願するように言葉を紡ぐ。両腕はそのままで、それはやはり夏目の行動を抑止するかのように広げられたままだ。
「一年前の先輩には、もうどうしようもなくお似合いの人がいて……私には入り込む余地すら、きっかけすらなくて、ずっと遠くから見ているだけだったのです……でも、でも、でも!」
三回続ける杏里の癖。その後の言葉は、どうやら夏目のみに伝えられたようで、俺の耳には届かなかった。
「……その人は突然いなくなってしまって。けれど先輩はずっとその人のことを探していて……悲しい顔をして、でも普段から楽しそうに振る舞おうとして。そのとき思ったのです。先輩と一緒にいられるのなら、杏里は……その人の代わりでもいいのです。先輩のそばにいたいと思ってしまった以上、もうなりふり構っていられないのです。ただそばにいたい、それだけなのです。だから、今の杏里と先輩を壊さないでください。お願いします」
聞こえない言葉の代わりに、杏里が夏目に対して頭を下げたように見えた。
夏目の苦心する顔が、歪んだ頬から理解できた。優しさだけが言葉となってまろびでる。
「……でも、それを決めるのは残念ながら私ではないんだ。私も話しておかなければならないと思ってここにいる。話すことには何度も悩み、苦しんだ。その末の今日、この朝なんだ」
杏里の目を見つめて、気丈に言い放つ。
「私も同じ。はい、そうですかと簡単に譲れることではないんだ。立場的には、話して欲しくない今の君と一緒だよ。だから、選ばれるべき二つの選択を、選ぶ本人抜きのまま選択同士で話し合い、一つに絞るのはいけないことなんだ。私と君は、選択される側の人間なのだから」
杏里は目を伏せ、壁のように力強く立ちはだかっていた背中の力を抜いていく。肩は落ち、左右に伸ばした両腕――両翼を折りたたむ。
「佐々木君、君が決めて欲しい。私と来るか、来ないか」
「……決まってる」
選択の側にどんな思惑があるのかは知らない。
いや、どんな思惑があったって構わない。
俺の今の怒りを鎮めてくれさえすれば。鎮めることが出来さえすれば。
俺は暴力で解決することも厭わない。
もとより、話し合いだけで解決するような、穏便な結末になるとは思っていない。俺はそれほど大人ではないから。それぐらい俺の黒い炎は、可燃性のある絶望と結託して、感情にさらなる火を加えている。腹の奥で溢れる黒い液体も俺の行動を助けてくれるから、力にも事欠かない。
「俺はあんたについて行く。放課後だなんて言わない。今すぐにでも」
「先輩!」
杏里が持っていた鞄を落として叫んでいた。
「ありがとうございます。実は私も今すぐの方がいいんです。出来ればそうしていただきたかったぐらいです」
頭を垂れる。一応の感謝のつもりだろうか。低姿勢なのか、小馬鹿にしているのか、大人ぶっているのか。その三択を選ぶのも面倒なほど、俺は気がせいている。未だに離れようとしない、ウメのあられもない姿……俺の想像の中で眼前の男と乱れるウメ。
夢想、妄想することの出来る人間の脳を俺は恨む。
「少し歩きますが、付き合ってくださいますか。この先に私の家があります」
俺は何も言わずに、歩き出した夏目の背中に従う。杏里の横を無言で通り過ぎ、通学路とは反対側の道を歩き出す。もはや、学校などという日常は予定から蹴り落とした。
「あの! 私も行きます! 私も行きたいのです、先輩……!」
杏里の指が弱々しく俺の制服をつかんでいた。払えば簡単に手放すであろうその握力。
犬耳を伏せ、尻尾を力なく地面に落としている杏里の姿。まるでガラス細工のように不安げで、もろく見える。
とてもではないが付いてくるなとは言えなかった。
「こんなことを言ったら、おかしいかも知れませんが――」
歩き出して一分と経たずに、一言だけ夏目は告げた。
「私とあなたは、似ているのだと思います」
聞こえた瞬間、目の前に火花が散る。
殴ろうと持ち上げた拳。
しかし、俺は殴れなかった。
杏里が制服の袖を握りしめていたからだ。
……それきり夏目は家に着くまで何も言わず、当然、俺も杏里も口を開くことはなかった。