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第二十二話・「何も知らないくせに」

 夜道を急ぐ人の群れを払いのけるように、俺は力の限り走った。そして、改札口で見つめ合う一人の少女の前に躍り出る。星の見えない黒い雲の下、俺はウメに視線を合わせる前に、驚いて目をぱちくりさせている中年の男をにらみつけた。

 よれたスーツを着込んだ男はひるむように眉根を寄せる。いかにも疲れ切った四十路という感じ。

 底のすり減った革靴は光沢を失い、砂埃に汚れている。スーツのパンツは中央の折れ目が消え失せて、清潔感が欠落していた。ワイシャツもぱりっとして乾燥しているというよりは、湿気を含んでどこか重く、今にも臭ってきそうだ。男の風体どれをとっても、とてもビジネスマンのそれとは思えなかった。汗水垂らした仕事帰りならば仕方のないことかもしれない。

 しかし、俺の目から判断すれば、衆人環境に常にさらされ、客に対して愛想良く振る舞う社会人の姿としては不合格だった。滑り止めにも受かりそうにない。

 もしも女子高生に対して嫌いな中年の雰囲気ランキングを実施したら、圧倒的大多数を占めてトップスリーにランクインしそうなその男。禿頭でないのがせめてもの救いだろうか。

 初見、遠目に見たところでは見えなかった男の細かな情報が、俺の瞳に打ち込まれる。


「ウメ、こいつにだまされるな」


 俺はウメをかばうようにして男の前に立ちはだかった。

 どうしても釣り合わせることが出来ない。

 日本美人、無愛想、華奢、緑の黒髪、オニキスのようなつぶらな瞳。

 百人が百人、口を揃えるウメの姿に対して、目の前の男はあまりにも落差が激しかった。せめて、せめてもっと実業家じみたナイスミドルな男であったなら、俺の心で燃え上がる黒い火も勢いをゆるめていたはずだ。


「さ、佐々木……?」


 ウメは背中を向ける俺の登場にびっくりしているようだった。普段はフラットなその声も、今は裏返ってしまっている。


「だまされるな、この男はウメを弄ぼうとしてる」


 男は俺の眼光に言葉を失っているようだ。開けようとした口を再び閉じるその様は、えさをもらえそうでもらえない哀れな金魚を思わせた。


「ウメはこんな事をするべきじゃない。ウメはこんな事をしてはいけないんだ」


 そう。ウメには、ウメらしく生きていける場所があるはずなのだ。

 溝のないタイヤであふれかえっているアパートの通路や、無機質なべッドと飾り気のない部屋なんかよりも、華やかな場所が似合っている。無愛想なのは良くも悪くも特徴だからこのままで良いとしても、服装ぐらいは派手なものを着ても良いと思う。ゴシックロリータ辺りが最適ではないだろうか。くるくると踊れば、パニエで膨らませたスカートの下、ふんわりとしたブルマのような白いドロワーズが見え隠れする……きっとその姿は黒いお姫様だ。

 感情がない――ウメはあくまで無愛想だが――っていうのもプラスに作用するだろうな。黒いクマのぬいぐるみなんかを小脇に抱えたりして、誰もいないところではその黒クマに話しかけたり。口から出るのは精神的に良くないブラックな皮肉。

 想像するだけで殺人的な魅力を秘めている。


「ウメは違うだろ。こんなみすぼらしい男について行くような人間じゃないだろ?」


 ゆえに吐き捨てる。口汚い言葉でののしることも、今は義によって成り立っている。

 丁寧な言葉で言っても分からない人間が此の世にはたくさんいる。だから、俺は強い口調で宣告しなければいけないんだ。

 大切なものを守るために。

 二度と失わないために。

 きっと佳乃は俺を分かってくれるはずだ。佳乃の心臓を持ったウメも俺を分かってくれる。


「……」


 俺の背後で小さく肩を振るわせるウメ。目を伏せ、今にも感情があふれ出しそうだ。


「分かってる。俺がお前を魔の手から救う。汚させるわけにはいかないんだ」


 佳乃の心臓が高ぶっているのだろうか。

 ウメは胸を押さえて、苦しそうに顔を上げた。

 ゆっくりと右手を俺に差し出すように持ち上げる。


「佐々木」


 俺は思わず微笑みがこぼれる。

 ウメが分かってくれたのだ。

 俺はすぐに未来を想像する。

 小さく、それでいて白いウメの手のひらが、俺の頬に添えられる。感謝が込められた指で、優しく撫でてくれる。幼馴染みがしてくれたような柔らかさが蘇り、俺は自らの行いに満足する。

 正しいことをした。佳乃を、ウメを守ることが出来たのだ。

 ウメは佳乃だ。だから、俺は佳乃を守るのは当然で、その当然はウメにもかかってくる。

 幼馴染みとしての権利で、義務。

 俺が愛して止まない佳乃が俺を理解してくれたように、ウメも俺を理解してくれた。

 そして今まさに、ウメの柔和な手が俺の頬に。


「ウメ、もう大丈夫だ。俺がウメを」


 添えられ――炸裂した。


「……守る……から?」


 俺の視界が白と黒を往復する。

 乾いた音を聞いたはずの耳は、ジェット機のエンジン音に似た音で満たされてしまって、それ以外の音を聞くことが出来ない。頬がもげるのではという衝撃の後には、ひりひりとした熱い余波が膨れあがった。


「ウ、メ?」


 頬を叩かれたとき、手が自然と叩かれた頬にいってしまうのはなぜだろうか。


「死ねばいい」


 小さな口から飛び出した強烈な意志。ウメには似つかわしくない低俗な言葉。


「佐々木、死ねばいい」


 左手で胸を押さえ、右手は振り抜いた体勢で静止している。

 ウメの小さな体は、平板な感情や態度を忘れて憤怒に震えていた。


「めざわり」


 目に浮かべるのは、感謝ではなく失望。

 手に込められたのは、優しさではなく怒り。


「何も知らないくせに」


 ウメはしばらくその態勢を維持し、やがてゆっくりと振り切った右手を下ろす。

 胸を押さえたウメが俺の横を通り過ぎるとき、ほのかに彼女の香りがした。

 早足に俺の背後から横へ、そして、男の元へ。

 ひるがえるように揺れた緑の黒髪が、最後に彼女の香りだけを残す。

 胸の奥、肺の奥、心の奥にまで染み込んでとれなくなるような切ない匂いだった。


「行こう」


 ウメが平手打ちの余韻を引きずるように憮然としたまま、男の腕をとる。

 自らの体にあてがうように男の腕を密着させ、猫のように顔をすり寄せると、次第に憮然とした顔も落ち着きを取り戻していった。よれたスーツや、汗が染みついているだろうシャツも関係なく、ウメは男のそばに居続けようとする。より近くにいようとする。

 明らかに親子の関係ではない構図だった。

 のどを鳴らす子猫。感情豊かなウメ。

 二つの丸く大きな黒曜石が男の顔を写し込むから、男の白髪さえもうつり込んでしまうようだった。わがままな彼女に振り回されるように、男はウメに引っ張られていく。


「夏目、早く」


 なつめ、と呼ばれたその男は、俺に対して申し訳なさそうな顔をした。


 ……それは同情か?


 とっさに俺の体が前に傾く。

 気が付いたときには……なんて決まり切った文句を使う気はさらさらない。そんなものは、自分の犯してしまった罪に対する都合の良い言い訳だ。

 俺はウメに打たれた頬の痛みを抱えながら、夏目に飛びかかる。男の腕にからみつく猫を引きはがし、男を地面に引き倒す。男の汗臭さも構わずにウメが密着しようとした、という事実を思い返す度に、俺は燃え上がる黒い炎と、腹の下でうごめく黒い溶岩を止めることが出来なくなった。

 制御がきかない力の奔流。それは、俺の右手を通して、男の頬に真っ直ぐ振り下ろされる。

 男は車に轢かれる直前のカエルのような声を出して顔を背けた。


「駄目!」


 声は左方向。引きはがしたはずのウメが、俺に体当たりを敢行した。振り下ろす当てのなくなった右腕が虚しく宙を切る。俺は馬乗りになる体勢からバランスを崩して、コンクリートにうつぶせに転がった。

 事の次第を傍観していたであろう一般人のつま先が見える。

 尻餅をついたまま体を起こしてウメを見やると、ウメは大慌てで男を助け起こそうとするところだった。男のスーツを白い手でぱんぱんとはたいてやり、立ち上がりやすいように肩を貸す。小柄なウメの体と、一般の男の体型。その差は子供と大人だったが、ウメは足腰に力を入れて、何とか男を支えようとしていた。

 けなげで、思いやりに溢れたウメ。

 胸が締め付けられるような思いだった。

 ウメと佳乃が重なって見えるだけに、その光景は俺に槍を突き刺す。肋骨を貫通し、肺を破り、背中に抜ける。串刺しにしたものは、心。


「何でだよ……!」


 第三者から見れば、俺は一体何に見えただろうか。

 彼女に別れを宣言されても、みっともなくよりを戻そうとする元彼だろうか。


「ウメ、お前は間違ってる! お前がこんな事をして良いはずがないんだ!」


 地面に尻餅をついたまま、俺は虚しく吠えるしかない。


「佳乃だって、分かっているはずだろ! なぁっ! ウメ!」


 俺の存在を無視して男の支えになっていたウメが、その言葉に動きを一瞬だけ停止させる。


「ウメであり佳乃であるお前なら分かるだろ!」


 男の支えになっていたウメが、男の元から離れる。尻餅をついた俺の目の前まで進み出ると、もう一度その小さな手のひらを振り抜いた。

 迷いもなければ、容赦もない。


「私は、山田ウメ。佳乃じゃない。それに」


 重ねられた平手打ち。腫れ上がるような痛みが、寄せては返す。寸分の狂いなく同じ右頬をとらえたせいか、痛みの連続から、痛みの麻痺、感覚のしびれへと推移する。


「私は夏目が好き。夏目のためなら、何だって出来る」


 ウメの言葉を聞く夏目は、ウメの背後で少しだけ困った顔をする。

 その意図がよく分からないうちに、ウメは俺に愛想を尽かしたように顔を背けた。見えたウメの手のひらは、鬱血したように赤く染まっている。平手打ちをされた俺だけではなく、した方であるウメにも痛みがある。その証となる赤みだった。


「行こう、夏目」


 赤い手で夏目の手を取るウメ。この場を去ろうとうながすウメに対して、夏目はひどく複雑な表情を浮かべた。


「……ウメ、それでいいのかい?」


「いい。間違ってない」


 抑揚のない声に、夏目は閉口する。とりつく島もないと感じたのだろうか、手を引くウメの後に従うだけ。

 ウメと夏目はすぐに見えなくなった。

 二人が夜の喧噪に消え、駅前が毎日の混雑を思い出しても、俺はその場を動けなかった。口内を巡る鉄の味に、俺は平手打ちでも口の中を切ることがあるのだと初めて知る。


「佳乃……」


 救いを求めるようにつぶやいていた。


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