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第二十一話・「行かせてくれ」

 ……体が寒い。

 それが俺の体にべとつく大量の汗と、外気の温度差だということに気が付いたとき、俺の目の前で涙ぐむ杏里が安心したような笑みを浮かべた。


「……先、輩? ……先輩先輩先輩……っ!」


 目尻に張り付く涙の雫。心配を絵に描いたようにまなじりを下げる杏里を無視し、俺は視界の隅をかすめた電光掲示板に焦点を合わせる。


「八時十八分」


 あれから十分しか経過していない。気の遠くなるほど長く先の見えないトンネルを、気の遠くなるほど長い時間をかけてくぐり抜けてきた。

 俺は往来の真ん中、赤い絨毯のそばで慟哭し、天をつくような叫び声を上げた。佳乃の血液は生暖かく、まるで手中で温める携帯カイロのそれだった。吐息も凍る真冬、握りしめたカイロから体内に染みこんでくる温かさ。我ながら、無粋な表現だと自分の感性を嘆きたくなる。非現実な出来事が、現実の中に入り込んでしまえるという一種の倒錯的な状況を、俺は数え切れないほど続けてきた。

 慣れたと思っていたのに。腹の中に押さえ込むことができるようになったと思っていたのに。現実問題、そんなものは無きに等しかった。

 俺は、駄目だ。もう駄目なんだ。

 佳乃がいないと本当に駄目で、どうしようもない人間になってしまう。悲しみすら満足に表現できないで、日常の中にとけ込もうとしている。

 鹿岡兄と馬鹿話をし、そんな様子を見た彼の妹には半ば嫌われ、ぽけぽけな美緒は口癖のように相方である桐岡の心配をしている。レスリング部の田中は毎日暑苦しい筋肉を汗で濡らしているし、新聞部の皆川亜矢子は新聞に載せるような事件がないかいつも耳を大きくしている。笑いが絶えない。優しさで溢れている。そんな日常は楽しい。嘘ではない。すごく楽しい。


 ……でも、俺の心は例外なく冷めていく。


 俺の隣の机上にあった花瓶が取り払われてからも、俺がふと隣に目線をずらせば、そこには透明な花瓶が置いてあった。

 教室の窓から入り込んでくるそよ風。花瓶に生けられた名も知らない花が、そっと揺れ始める。ゆらゆらと、そして悲しげに揺れている。

 それはまるで、授業で退屈した佳乃がいたずらに花びらを指でつついているようで、俺はそのたびに心が冷えていった。

 ふと噴水に目をとめれば、ウメの小さな背中が寒さに震えているように見えた。

 待ち人は未だ来ず、ウメらしくもないそわそわとした態度で、改札口をちらちらと眺めている。

 一瞬、もしかしたら俺を探してくれているのではないか、と思った。

 本当はパパなんか存在しない。ウメは俺に話しかけられるのをずっと噴水の前で待っている。パパを待っているなんて、そもそも俺が考え出した誇大妄想に過ぎないのだ。ウメは恥ずかしくて、俺に言い出せなくて、話しかけてくれるのを待っているだけ。反対多数で否決されるはずの自己中心的な考えが、俺の脳内参議院を危うく通過しそうになる。


「先輩……どうしたんですか? 杏里は心配したんですよ? 急にベンチにうずくまってふるえだして、いくら話しかけても答えてくれなかったのです……」


 俺の肩に触れる杏里の手がひどく煩わしく思える。

 杏里の手が、俺の思考をさえぎる余計なものに感じられて仕方がなかった。そして俺は、そんなことを当たり前のように考えられる自分の身勝手さにあきれ果てると同時に、そんな自分でも佳乃は好きでいてくれたのだから、このままでいいのでは……と悔い改める意志を失わせていった。


「救急車を呼んだ方がいいのかな、とか考えたのですよ? ひどく震えて、寒いのかなって思って先輩の手を握って、でも先輩は目を見開いたまま細かく体を揺らすだけ……。呼びかけても呼びかけても呼びかけても、揺すっても揺すっても揺すっても、答えてくれなかったのです……。ずっとずっと放置プレイだったのです。いくらMな杏里でも、身を切られるようにつらいです」


 感情に流されてまくし立てる杏里の声が、鼓膜にぶつかって痛みをうながす。


「あのですね、先輩……杏里言いましたよね。杏里は先輩がそんな風に苦しんでいるのはすごくつらいんです。悲しいんです。かわいそうなんです」


「…………俺が、かわいそう?」


 俺の隣で小さくなっている杏里の犬耳が恐怖に伏せられる。

 ああ、俺の目におびえているのか。……だろうな。鏡を見なくてもわかるさ。俺は今、そんな目をしてる。

 否定はしない。

 したくてしてるんだからな。


「あ、杏里は……。先輩、誤解です。そんなつもりで言ったのではないんです」


 俺と目を合わせた瞬間に犬耳は力なく伏せられ、視線は足下に逃げ出していた。膝の上で握りしめられた拳はふるふると震え、強制収容所に入れられた敗残兵のようにおびえている。


「先輩……すみません。違うのです。杏里は、杏里は、杏里はですね……」


 その先の言葉が出ないのだろう。

 いや、出ないのではない。出せないんだ。


「……だよな、俺、哀れだよな。同情したくなるよな」


「先輩、違うのです!」


 うつむいていた顔に涙をいっぱいに浮かべて、杏里は俺にすがりつく。


「気を遣うなよ、杏里。いつもそうだっただろ、俺たちはさ。今更になって隠し事なんてやめろよ」


 声を凶器に変えることが、こんなにも簡単なことだったのかと、俺は内心で驚いていた。


「隠してなんか無いです!」


 叫びにも似た声音。周囲の数人が俺たちを振り返った。


「杏里は先輩に隠し事なんてしていないのです!」


 目を覆う透明な膜と、目尻にためる透明な粒は同じもの。透き通っていて、それでいて潤っている。

 一見、純水のように美しく見える。しかし、涙というものは、どんな悪人でも殺人者でも、透明できれいなものだ。涙自体の性質に変わりがあるわけではない。涙は人間性に反映されない。元から豊潤で透き通ったものなのだ。


「もし杏里が先輩に隠していたとしたら、それは、先輩と私の――」


 杏里との話し合いに、俺は勝手に終止符を打った。噴水の縁に座ってそわそわしていたウメの背中。子猫のように丸めて人を待つ寂しそうなその背中が、すっきりと伸びたのだ。

 立ち上がり、改札口に小さく手を振るウメ。


「――って、先輩?」


 杏里が言葉を切り、疑問符で俺の袖を引く。


「ウメ、それは違う」


 俺の口から、無意識にまろび出るつぶやき。

 声の届かない噴水の向こう側で、ウメが俺に背中を向けていた。ひらひらと待ち人に対して揺らす手は、どこか待ちわびたように嬉しそうで、今まで俺が見た中で一番活力に満ちていたように思えた。

 俺に見せたことのないウメがそこにはいる。

 改札口から現れたのは、頭に白い毛が混じりだした中年の男性だった。初見、穏やかそうなその男は、噴水で待っていたウメに気がつくと、目尻にしわを寄せて微笑み、ウメと同じように手を振った。どこか疲れたような足取りなのは、仕事帰りだからだろうか。それほど大きくない体を前に傾けて、ゆっくりと噴水へ歩を進めていく。

 ウメはその遅々とした歩みがじれったいのか、自分からその中年男に近づいていく。ウメが自分から誰かに近づこうとしていることが信じられなかった。

 たった一人で長いこと待たされ続けても帰ろうとせず、いざ待望の人がやってきても怒ることもせず、手を振り、近寄っていく。


 ……まるで、主人に甘え、足下にすり寄る子猫のように。


 そんなウメを俺は見たことがない。

 違う、そんなウメはウメではない。

 俺が知っているウメが、ウメのすべてのはずだ。

 無愛想で、無口で、なぜか憎めなくて。やっと口を開いたと思ったら毒霧で、でも少しだけ優しくて。加えて、日本人形顔負けの緑の黒髪と清楚な顔立ち、小柄で華奢で牡丹雪のような色の白い肌をした美少女。

 それが山田ウメ。

 俺が知っているすべてで、ウメ自信であるはずの情報。

心臓が銅鑼を叩いたように大きく跳ね上がる。痛みが尋常ではない。


 ――ウメの顔が見たい。


 俺はその一心で、ウメの顔が見られる位置に移動する。俺に背中を向けたまま男に近付いていくウメの表情は……。


 ――ウメの顔が見たい。


 違うよな、ウメ。俺が思った通りだよな。お前は佳乃の心臓を持っていて、佳乃そのものだ。だとしたら、そんなこと許されないだろ。純粋で、一途で、幼馴染み思いで。人の道に外れるようなことがあるはず無いじゃないか。


 ――ウメの顔が見たい。


 場所を変え、角度を変えると、ウメの表情が噴水に隠れてしまった。モザイクのような水の壁に遮られるウメの顔貌。しかし、そんなことは些細な問題。もう少し、もう少しでウメの表情が見られる。

 五歩……いや、三歩動けば顔が見られる。

 きっとうんざりしていて、迷惑そうにゆがめられていて。

 そうさ。一歩。

 ウメは。二歩。

 きっと。三歩。

 俺の網膜に焼き付いたその表情は……。

 仏頂面に嫌悪感を漂わせた顔だった。


 …………否。


 心の底から幸福そうな笑みだった。


 怒りか、憎しみか、それとも、落胆か。俺の拳がふるう場所を求めてわななく。

 今ならアスファルトを砕いてしまえそうだった。大量に放出されるアドレナリンの力を借りて、すべてを殴り飛ばしてしまえそうだった。あの中年の男も例外ではない。


「くっ……!」


 俺がウメを救う。ウメはきっとだまされているんだ。そうだ、そうに違いない。佳乃はそんな人間ではなかった。もちろん、ウメもそのはずだ。

 そもそも心臓を貸している佳乃が許すはずがない。

 思考を繰り返す。

 佳乃は純粋で、一途で、幼馴染み思いの女の子。だから、こんなコトは間違ってる。ウメもそれは分かっているはずだ。よって俺は、ウメに強制的にそうさせるあの男を、拳の下に沈めなくてはいけない。

 これは義だ。俺は正しい。間違ってない。

 俺がウメを助けるんだ。


「先輩!」


 走り出そうとする俺の袖口を、杏里が必死に捕まえる。今日何度目だろうか、杏里に袖を捕まれるのは。あまり捕まれすぎて、制服の袖が伸びてしまいそうだ。


「駄目なんです」


 俺の機先を制する杏里の袖口攻撃に、俺はいい加減うんざりした気持ちになる。


「駄目なんですよ。行っちゃ駄目なのです」


 ――仁君。


 佳乃の笑顔が蜃気楼のようにウメの背後に立ち上る。俺はそんな錯覚を見、今一度胸の奥の炎が燃え上がるのを感じた。

 黒い炎でもかまわない。それが正しいと思える。


「行かせてくれ」


「駄目です。先輩はここにいなきゃいけないんです」


 次が最後通牒だ。優しくできるのもこれで最後だ。

 頼むから、俺の邪魔をしないでくれ、杏里。


「駄目なんだ。行かないと」


 杏里の目を見る。少女の瞳は、まっすぐで曇りがない。けなげな子犬のようにつぶらで、潤いをたたえている。


「放してくれ、杏里」


 杏里だって冷静に考えれば分かるはずだ。誰が正しくて、誰が間違っているかなんてことは。杏里なら分かってくれるはずだ。


「杏里は……杏里は……」


 杏里の弾け飛んだ涙は、まるでスターダスト。


「杏里は、先輩にそばにいてほしいのです!」


 腹の奥から吹き出す、黒く禍々しい土石流。体内から体外へ放出する黒い錯覚に、俺は吐瀉を予感した。


「杏里の目を見て、杏里の声を聞いて、杏里の肌に触れてほしいのです!」


 杏里の懇願は、俺の右の耳から左の耳へ。一度も保存されることなく廃棄されていく。


「いつもの先輩みたいに、Mな杏里をいじめてほしいのです!」


 邪魔なだけだった。うるさいだけだった。

 杏里はウメを助けるなと言う。そんなことが許されていいはずがない。

 一人の純粋な少女が悪漢によって虐げられてしまうかもしれないという刹那に、杏里は自己中心的な願望を優先しようとしている。見捨てようとしている。

 生きたいと叫ぶ佳乃の心臓を……いや、佳乃を見捨てようとしている。

 ありえない。信じられない。

 俺は自己の耳を疑うばかりだ。


「杏里は先輩が……」


 聞きたくない。聞く耳がもてない。

 事態は一刻を争う。俺の大事なもの、少女の大事なものが汚されてしまう。杏里の声を聞く一秒ですら惜しい。今すぐウメ……かつ佳乃を救わなければいけない。それは俺の使命であり、責任であり、権利だ。

 もう二度と過ちは繰り返したくない。

 佳乃を失うような悲しみも。繰り返される絶望の風景も。

 駆け巡る嵐。断頭台の存在意義が命を断ち切るのに終始するのと同じく、俺は袖をつかみ続けようとする杏里の意志を、当たり前のように断ち切った。

 腕を外側に振り、乱暴に払う。

 杏里は力強く握りしめていたせいで、外に払った俺の腕に引っ張られ、前のめりに地面に突っ伏してしまう。

 地面をなめる杏里。

 痛みすら忘却しているのだろうか。

 すりむいてしまった膝のケアも忘れ、呆然と俺を見上げる。

 信じられない。そんな感情が、次の言葉に込められている気がした。


「あ……せんぱ」


 俺に弱々しく伸ばされた手を冷たく見つめると、手の前進はそこで止まってしまう。

 不可視の絶対的な障壁がそこにあるかのようだった。しかし、杏里はそれでも微弱な力を結集させる。勇気と力を振り絞って、俺のズボンの裾をつかんでみせる。

 俺は自分でも残酷だと思うくらいの力で足を上げ、杏里の手を断ち切った。

 俺には守るべきものがある。守るべき幼馴染みがいる。

 邪魔をする人間は、それが誰であろうと許さない。

 俺が俺でなくなる感覚。

 いつの間にか、黒い絶望が俺を突き動かす原動力となっていた。


「せん……ぱ、い」


 夢遊病者然とした杏里の姿。

 無慈悲にも払われた右手。

 無気力に見上げる双眸。

 映るのは俺の酷薄顔。

 倒れ傷ついた両膝。

 乱れたスカート。

 膝頭に滲む血。

 頬を伝う筋。

 加速する。

 それは。

 一滴。

 涙。


「せん……」


 その呆然とした声が、耳に入った最後だった。背中を向けた俺は、地面を蹴ってウメの元へ飛び出していく。

 風切る音に巻かれて杏里の声は聞こえない。二度と振り返らず、俺は人混みを突っ切った。 猥雑な音が後方に流れていく中で。

 子犬の小さな鳴き声――泣き声――は、人々の靴音に簡単にかき消された。


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