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第二十話・「予定調和」

 起きて最初に耳にしたのは、バイクの遠ざかっていく音だった。

 カーテンがすきま風でゆらゆらと揺れているのは、窓を少しだけ開けて寝たからだ。


「また……」


 壁に掛けてある、当時流行した美少女ゲームのカレンダーを見る。なまめかしいバスタオル一枚の姿で、俺を悩殺しようと妖艶な微笑みを浮かべている。俺はそんな半裸の美少女にはさほど目もくれずに、カレンダーという用途を忘れたカレンダーの小さすぎる日付に目を凝らす。


「一年前……か」


 ベッドに転がっている携帯電話の日付を確認してみても、一年前の日曜日だった。俺はベッドから体を起こし、床に無造作に脱ぎ捨てられたジャケットとダメージ加工の施してあるジーンズを見下ろす。

 ジャケットを拾い上げ、袖を通してみる。ジーンズをはき、ベルトを締めると、体に馴染んでいるのが分かった。肌触りや動きやすさ、どれも長年付き合ってきたもの。良くも悪くも味が出ていて、自分の癖が染みついている。けれど、そのジーンズとジャケットには胸を締め付けるような香りが染み付いていた。もちろん、俺は自分の匂いで何かを催すような特異体質ではない。自己嫌悪に陥るのが分かっていて、俺はジャケットに染み込んだ甘い香りを肺活量限界までいっぱいに吸い込む。

 甘い香りと、雨に濡れた露草のような切ない匂い。その二つの相反する匂いに涙が出そうになる。この匂いが誰のもので、どうして濡らしたのか。

全て俺は知っている。


 ――答えてよ!


 頭の中に蘇る悲しみの叫びが、今一度繰り返される。俺はカーテンを開け、朝のすがすがしい空気で、肺に入っていた懐かしい匂いを追い出した。

 本当はずっと肺にためておきたった。八つ当たりに過ぎないけれど、呼吸をしなければ生きていけない人間が、このときばかりは恨めしかった。

 俺は前髪をなでつけながら、机の上に置いてある鏡の前へ。


「あんまり、変わらないよな、やっぱり」


 右手、右腕、左手、左腕。そして、下半身も同じように。自分の体を改めて観察すると、今も昔もあまり成長していないようだった。


「一年じゃ人はそんなに変わらないか」


 頬をつまんで引き延ばすと、わずかな痛みが走った。


「この顔も、あんまり……いや、少しふっくらしているかな」


 笑顔の練習をしてみる。一年前の自分はこんな風に笑っていたんだな、と再確認する。


「そういえば、あのときもこんなふうに笑顔の練習をしたんだっけ……」


 気が付かないうちに、一年前と同じような行為を繰り返している自分がいる。


『幼馴染みの佳乃を選ぶ』

『ツンデレの佳乃を選ぶ』


 ふいに、そんなことを考えていた当時の自分が思い出され、俺は自嘲を漏らすしかない。


「やっぱり世界最高の馬鹿だよ、俺は……」


 鏡をうつぶせに倒して、俺は部屋を出た。

 最後の日曜日。


 ――佳乃がこの世を去った日。


 ……いや、正確には違うな。

 最後の日曜日。


 ――今日は、佳乃がこの世を去る日。





 待ち合わせ時間を十分ほど過ぎた頃、おそらく昨日と全く同じ姿をしているだろう佳乃が待ち合わせ場所に現れた。いちいち目で探さなくとも、パンプスの規則正しい音で、俺はそれが誰だか即座に判断できた。

 もう何度、このデートを繰り返しているか分からない。だから、その音は耳にこびりついている。間違えるはずがない。

 さて、そんな女の子を視界に納めてみれば、透かし編みのチュニックを押し上げる双丘が、否応なしに目に飛び込んでくる。過去は美化されると言うが、さすがに胸まで美化されているのではないだろうか。記憶のアルバムをめくって、当時の佳乃の胸の大きさを描いてみる。……が、正確なバストサイズを知らないので無意味なことだった。

 でも、ただ一つだけ言えるのは、佳乃はやはり、巨と美、を兼ね備える胸の持ち主だと言うことだ。何度か偶然にも――本当に偶然――触れてしまったことがあるが、それはそれは理性を狂わせんばかりの柔らかさだった。


「悪いわね。待たされるのは嫌だったから、遅れて出てきたの」


 自信のみなぎった大股の歩みで俺に近づき、開口一番、悪びれもなく言い放つ。もちろん、悪い、と言いつつ悪いとなんかこれっぽっちも思ってはいない。

 俺はすでにそう言われることは経験として知っていたので、俺も当然のように同じ言葉を紡ぐ。


「別に、それほど待ってないよ」


「あっそ、で、どこ行くの?」


 これも同じ台詞だ。腕を組んだまま、人差し指で自分の腕をとたたくポーズ。部下であるOLに不平を漏らすお局様のような雰囲気をまとう。

 佳乃がどうしていらだっているのか、当時の俺には分からなかった。

 考えてみればすぐに分かるはずだった。俺は前日の佳乃とのデートで気が滅入っていた。朝、鏡の前で笑顔の練習をしても、平常の状態の顔まで作れたわけではない。自分のデートの番だというのに疲れた顔をして待っていられれば、ツンデレ佳乃でなくとも、いらだつのは当然だ。

何度も繰り返せば、それぐらい分かるようになる。

 同じ映画だって、繰り返してみれば気が付かなかったところに目がいくようになる。映画館で見て感動した映画も、ホームシアターでは全く泣けなかった。……例えるならそんなところだろう。


「佳乃の記憶を共有しているんだろ? 聞くまでもないだろ、そんなこと」


 佳乃がいらだつのが分かっているのに、俺は口にする。案の序、唇を引き結んだ佳乃の表情が険しくなった。


「今回は共有してないの。そんなことしたらアンフェアでしょ?」


 険しい顔をすぐに霧散させ、人差し指をたてる。立派な胸を反らせて、得意げに俺に説明する。あのときのツンデレ佳乃は、純粋にデートを楽しもうとしていた。

 ……それがお別れ会だとしても、だ。

 自分の怒りで場を壊すことが、自分にとってどれだけ不利益になるかを考え、佳乃は思い直したのだろう。彼女にしては、慣れないことをしたものだと思う。そう考えると、はじめからツンデレな彼女らしくなかった。

 俺は前日からの気持ちの落ち込みや、佳乃を失うかもしれないという自分の悲しみのことだけを考えて、一番大事なものを見逃していたのだ。目の前の女の子を置き去りにして、自分可愛さに悶々と殻に閉じこもっていたのだから。あのとき、そんな彼女に気が付いてやれなかったのが心残りで仕方がない。


 ……本当に最低だ。俺は過去も現在も何も変わっていない。


「便利なんだな」


 俺はつぶやいて、胸ポケットを探る。やはり映画館のチケットはそこにある。予定も何にも立てられなかった行き当たりばったりのデート。サプライズなんてのは言い逃れに過ぎない。


「映画館……鉄板ね」


「ああ、デートの王道だよ」


 過去になかった軽口を口にしてみた。俺に言葉を取られて喉を詰まらせる佳乃に微笑んでみせる。思った通りの答えを返そうとしてくれるのが嬉しかった。


「……どうかしたの?」


 悟ったように微笑んでいる俺をいぶかしがって、佳乃が腰に手を当てながらのぞき込んでくる。


 ――予定調和だ。


 あらかじめ決められた道筋をたどっている。強引に因果律を変化させようとしても、結局は元の道程に戻ってしまう。まるで俺の好きなシミュレーションゲームそのものだ。

 選択肢を選び、願ったヒロインへと、ハッピーエンドへとたどり着くためにあがく。でも、それはあらかじめ決まったエンディングだ。もともと限られたエンディングしか用意されていないから、全てのエンディングを見てしまえば、それで全てが終わる。そうプログラミングされているから、それ以上の発展はない。同じ台詞が返って来るようになって、新鮮味がなくなる。あとは中古屋に売ってしまうか、棚の奥で眠りにつくか。

 俺が体験しているのは、それの極端なもの。

 エンディングは一つしか用意されておらず、しかも、バッドエンド。それを繰返し繰返し何度も何度も延々と延々と……。

 何度も体験すれば、馬鹿でも分かることだ。この世界は、俺の心の奥にある絶望で出来ている。

 絶望は絶望でしかない。黒から白は生まれない。黒から生まれるのは黒でしかない。

 俺はそれを知り、体験し、幾度となく目にし、あきらめることを受け入れた。

 ……佳乃はあと三十分もすれば、この世からいなくなる。

 それがこの世界の結末だ。


「言い忘れてたけどさ。昨日、佳乃と観た映画と同じじゃないんだ」


 観もしない、一生観ることのない映画の話題。


「別にいいわよ。仁も、同じ映画を二日連続で観るのはつらいでしょ」


「つらくないよ。佳乃と二人だから」


 恥ずかしげもなく口にする。

 絶望が待っていることは知っている。あきらめてはいても、俺は少しだけ世界にあらがう。虚しく、それでいて、悲しくても。


「あんた馬鹿? 昨日、佳乃と何かおかしなものでも食べた?」


 熱でもあるんじゃないの、と言いたげに俺の額に手のひらを押しつけてくる。


「そんなことない。キャラメルマキアートと、ポップコーンを食べた。美味しかった」

あらがう。虚しくあらがう。別の結末が欲しくて、俺はあえぎもがく。


「にしても、仁……デートだっていうのに、冴えないのね」


 遠巻きに眺めながら、両手の親指と人差し指で作ったフォトフレームに俺を納める。


「見てみなさいよ。佳乃なんて、普段こんな服着ないのに背伸びしちゃって。香水だって、アクセサリーだって、パンプスだって……結構高いのよ、これ」


 自らの着る黒いチュニックをつまんで見せる。


「……それに、下着だっていつ脱いでもかまわないように、勝負ものだし」


 泣きたくなる。胸がつまり、呼吸が苦しくなる。結末なんて変わらない。全ては予定調和。元の流れに戻る。


「なかなかきわどい下着よ?」


 佳乃は洋服の首元を引っ張って、自分の胸元をのぞく。見知らぬ男が、すれ違いざまに背伸びをしてのぞき込み、だらしなく鼻を伸ばしている。


「見なさいよ、仁、ほら」


 俺に見せようと前屈みになる佳乃。白い谷間のチラリズム。佳乃はこうやって俺の動揺を誘おうとした。動揺の度合いによって、前日の佳乃と俺がどこまで進展したか計ろうとしたのだ。単純な俺だから通用する、単純な判定方法。俺はそんな佳乃が愛しく思えてくる。あんなに大人びていたツンデレ佳乃も、どこか子供めいたところがあるのだ。嬉しそうに俺の動揺を誘い、やっぱり動揺してしまう俺に、より一層の笑みをこぼす。


「大丈夫、昨日の俺はそんなところまでは進展していたりはしないから。佳乃の考えすぎだよ。俺にそんな度胸はない」


 いたずらのつもりで佳乃の意図を見抜いてやる。佳乃には悪いけど、その鎌かけはもう知っているから、動揺しようにも出来ないんだ。


「ふ〜ん、そうなんだ」


 俺の瞳をのぞき込み、嘘がないことが分かると得心したようにうなづく。


「ま、私も何かあるとは元々思ってなかったし。度胸がないことも知ってるし……ね!」


 ね、のタイミングで、俺の額を指ではじく。探っていることを見抜かれたことに対する報復だろうか。


「さっさと行くわよ。映画が始まっちゃうじゃない」


 俺はずんずんと進んでいく佳乃の背中を追いかける。のっぺらぼうのような人波のど真ん中を、海を割るように如く突き進んでいく。俺はモーセの十戒を想像した。ツンデレ佳乃ならば、海を割ることも出来そうだなと、なぜか納得してしまえるほど、俺は親馬鹿ならぬ幼馴染み馬鹿――もしくはツンデレ馬鹿――だった。今でも、その想像は変わらない。


「仁、私ふと思ったんだけど、『昼下がり』って言葉を頭につけると、不思議と嫌らしい感じがしない?」


 どうやらコンの会話は、予定調和として省略されたようだった。何も不思議なことではない。結末さえ同じならば、全ては万事オーケーなのだから。


「確かに」


 胸に巣くう空虚感を押し込んで、佳乃の横に並ぶ。そして、俺はこれからの展開を思い出してみる。不思議と思い出し笑いをしてしまった。当時の俺は不思議がって首をかしげたはずだ。

そうか? ……とでも言った記憶がある。けれど、結果的にこれから二人でする掛け合いが、俺を深く納得させることになる。今思い出しても笑ってしまうほど鮮明に、やりとりは俺の記憶に残っている。


「たとえば、そうね……」


 佳乃がたわいもないことを真剣に考えている。何事にもベストを尽くすツンデレ佳乃の本領発揮だった。


「……昼下がりの郵便配達」


 佳乃が考えついたいやらしい昼下がりに、俺は口元をほころばせながら同意する。


「卑猥だ」


「……昼下がりのもも肉」


「卑猥だな」


「昼下がりの課外授業」


 初めて聞いたときは、鼻血が出るかと思った。課外授業ですら、語尾につけるとどこか卑猥な響きになるのだ。放課後の課外授業、真夜中の課外授業、お姉さんの課外授業……これは例えとしては誘導的だったな。とにかく当時の俺は、新たな発見に胸をドキドキさせたものだ。


「昼下がりの佳乃」


 ――仁君、今日は早いんだねっ♪ ご飯にする、お風呂にする、それとも、少し早いけど……わ、た、し?


 あのとき俺が想像したのは、エプロン姿で優しく振り返る、幼妻としての佳乃だったのかも知れない。

 何も不思議なことではなかった。

 俺達二人は惹かれ合っていた。当たり前のようにずっと一緒に隣を歩いて、時々恥ずかしそうに手を繋いだりして、確かな体温と胸のドキドキを二人で抱え込んで。好き、と声に出さなくとも、二人変わらず過ごしていけると信じて疑わなかった。意識してそう過ごそうとしなくとも、俺はそれが考えるまでもないことのように生きていた。何の疑いもなく、佳乃のエプロン姿を想像した俺の心。だから、惹かれ合っていたと考えてしまうのは、俺の素直な気持ちなのだ。


「ねえ、仁」


 思い出に思考を巡らせる俺は、すでに知っている次の台詞に耳をすます。


「――今、どっちの佳乃を思い浮かべたの?」


 佳乃の瞳は真摯な光で満ちていた。俺が想像したものはすでに看破している、と言いたそうな瞳。


「昼下がりに、どっちの佳乃を思い浮かべたの、って聞いてるのよ」


 ツンデレ佳乃は直感が鋭いから困る。俺はいつも頭が上がらなくて、困らされてばっかりだった。言うまでもなく、その恨みはきっちり幼馴染みの佳乃の時に晴らさせてもらった。「俺が思い浮かべたのは……」


「何よ? ぐずぐずしないで言いなさいよ」


 詰め寄ってくる。俺を追求するように一歩、近づいてくる。

 薄暗い路地裏に置いてある青いゴミ箱。そばに落ちている魚の骨にこびりついた肉を、黒いカラスがくちばしでつついている。

 俺は佳乃の瞳をしっかりと見つめ、両肩に手を置いた。


「俺はね、佳乃」


 予定調和になることが分かっていても、俺はこの言葉を言いたくて仕方がない。


「この二日間に意味がないってことを分かっていなかった。佳乃に言われて、しばらく考えて、ようやく気が付くことが出来た。確かに、佳乃の言う通りだ。俺達が過ごしてきた年月が、たったの二日でひっくり返したり出来るわけないんだ」


 路地に連続して吹き込んでくる風が、俺と佳乃の間を駆け抜ける。


「仁……」


 佳乃の瞳が薄い水の膜で覆われていく。


「なによ。そこまで知っているなら、言う必要なんてないじゃない。私がいくら宣戦布告しても、あの手この手を尽くしても意味がないって事……。仁が必要としているのが誰かなんて、もう答えは出てるんでしょ?」


 風にもてあそばれる前髪の向こうで、濡れた佳乃の瞳が、強い決意と悲しみに揺れていた。


「そ。これは自分勝手な私の自己満足。この二日間は……ううん、違うわね」


 路地に絶え間なく吹き込んでいた風がぴたりとやんだ。

 身勝手な風。正直、身勝手すぎる。


「今日という日は――」


 風も、俺も。


「お別れ会だなんて言わせない。佳乃、俺はお前が好きなんだ」


 風のなくなった路地裏で、俺は佳乃の唇を奪った。俺をののしる言葉ばかりを紡いできた唇が、今はおとなしく俺の唇にふさがれている。

 佳乃の唇は小さく震えていた。

 潤いのある口唇に、俺の唇をそっと張り付ける。冷たいと感じた後に、佳乃の体温が唇を通して伝わってきた。唇、口紅、唇。その中央の薄い膜を、二人で暖めていく。そんな奇異な作業に感じられた。ついばむことも、舌を動かすこともないただの接触。幼稚なキス。驚きのあまり目すら閉じられない佳乃の眼前には、おそらく俺の顔があるだろう。俺は目をつぶり、佳乃の感触だけを追いかける。


「……ん、ん……っ……」


 佳乃が驚きに慣れはじめ、嬉しそうに呻いた。魚をつついていたカラスは、そんな俺達に恥ずかしくなったのか、逃げるように電線の上に飛び去る。

 重なり合う二人の鼓動。それは長い長いキスだった。

 絶望の中で繰り返したキスは思っていた以上に甘い接触で、それが絶望の中であるということを忘れさせる。薄く目を開けた俺の視界の真ん中、佳乃の揺れるまぶたの後ろから、きらりと光るものが流れ落ちた。美しくカールした長いまつげにも、その光る物体は付着している。

 キスに数秒遅れて、佳乃の両腕が俺を包み込んだ。

 右手は肩甲骨を抱くように。左手は腰を回すように。

 陶器のように白い細腕が、俺の背中に添えられる。キスに平行して、ゆっくりと柔らかく抱きしめてくれる。佳乃の意志が俺を包み込もうとしてくれる。それが底なしに嬉しい。

 俺自身、どうしようもなく佳乃を求めていることが分かる。そして、佳乃もまた俺を求めてくれることも……。

 唐突に、二人の重なり合っていた鼓動にずれが生じる。

 俺の鼓動は同じ速度を打ち続けている。徐々に速度を落とした佳乃が、自らの意志で同調を解いていく。


 ……キスの終わりは、やはり佳乃から。


 突き飛ばすわけでもなく、慌てるでもなく、佳乃はゆっくりと名残惜しそうに俺の唇から離れていく。目をつぶり、感触をかみしめているように感じられた。大量の息を吸い、肺を膨らませる。目を開くのと同時に、肺の空気を逃がしていく。

 大きな、大きな深呼吸。出てきた言葉は、あのときと同じ。


「お別れ会、終了」


 佳乃は俺の胸を、とん、とこづいた。これで終わり。そう伝えるかのような意思表示。

 佳乃の匂いが路地裏から消えていく。俺に背を向けて、薄暗い路地から、光り輝く表通りへ。俺は佳乃を逃がさないように慌てて手を延ばす。すんでの所で、佳乃の指先が俺の手のひらを抜けていった。まるで溢れる水を手でつかもうとするかのように。


 ――覆水盆に返らず。


 嫌な言葉が浮かぶ。でも、こぼれた水はまた汲むことも出来るはずだ。


「そうさ、俺は知ってる。嫌になるほど知ってる」


 佳乃を光が包んでいくような幻想的な錯覚。

 カラスが鳴いた。佳乃は振り向かない。最後に見たのは笑顔だったか。それとも泣き顔だったか。大きく息を吸い、佳乃が浮かべたものは。


「……知ってる。分かってる」


 佳乃。佳乃。

 唇を噛む。佳乃に触れた手を閉じたり開いたりして、感触を思い出そうとする。


「分かってる」


 佳乃が光に飲み込まれる。


「分かってるんだよ……!」


 心がはじけようとしている。

 俺は佳乃を失う。この後すぐ、佳乃を失ってしまう。追いかけても、追いかけなくても。これは運命だ。絶望が見せる運命。でも、それでも俺はざわつく心を抑えられない。

熱波に当てられたように肌が熱い。それは管という管、動脈静脈を問わず、血管という血管、毛細血管に至るまで、高熱の液体が狂ったように流れるからだ。心臓が臨界点まで稼働し、俺を内側から責め立てる。

 俺は佳乃を失う。この後すぐ、佳乃を失ってしまう。追いかけても、追いかけなくても。これは運命だ。絶望が見せる運命。でも、それでも俺はざわつく心を抑えられない。

 開いたり閉じたりを繰り返していた手を、力の限り握りしめる。つめが手のひらに食い込み、今にも手の甲がつりそうなほど振り絞る。腕は震え、噛んだ唇からは生暖かい赤がしたたり落ちる。痛みが体を鎮めてくれるなら、俺は唇をかみ切ってしまいたかった。

 俺は佳乃を失う。この後すぐ、佳乃を失ってしまう。追いかけても、追いかけなくても。これは運命だ。絶望が見せる運命。

 宿世をなぞる結末なんだ。無限の螺旋階段を降りているだけ。変わることはない。ずっと同じ。

 頭では分かっている。体も分かっている。俺の心と体が分かっているのに。


「それでも俺は……」


 一杯の記憶が、心と体を突き動かす。


「――佳乃を失いたくないんだ!」


 腹の底からの声。心からの声。

 俺の咆哮に驚いたカラスが、電線から飛び去っていく。

 のどから手が出るほどではない、心から手が出るほどに俺は佳乃が恋しい。

 絶望の景色で佳乃を見る度に、それは大きくなった。同時に苦しくもなった。あのときの俺は、心に入り込んだトゲの痛みで赤子のように泣き叫びたい衝動に駆られた。肉体的な痛みとは異なっている、トゲによる内側の痛み。トゲが刺さり、はじけ飛んだつぼみの中には、小さな、けれども強く輝く恋という宝石があった。あのとき、何よりも純粋な好きという気持ちが産声を上げた。


「俺は!」


 でも、今は違う。


「佳乃を救いたいんだ!」


 去り際に浮かべたのは、あのときと変わらない涙顔。


「佳乃が好きなんだ!」


 路地裏を飛び出す。人混みの中をぐるりと見回して、佳乃を見つけようとする。

 佳乃の残り香が、車通りの多い中央通りの方へと流れていく。俺は嗅覚を犬のようにとぎすまして、顔のない人の波をすり抜けていく。


「佳乃!」


 ――佳乃のアルバムをめくる。


 幼い頃からずっと一緒。

 滑り台や、ブランコ、砂場で遊んだ。

 砂場では、二人でほっぺに砂をくっつけながら砂のお城を作った。俺はいたずらっ子で、せっかく作った城を足蹴にした。佳乃は泣いて、砂場に大きな涙の染みを作った。俺は何度も謝りながら、落城したお城の補修作業を始める。

 今度は前よりも大きいヤツな。安土城よりももっと大きな、江戸城だぞ。

 目をそらしながら赤くなる俺がそう言うと、佳乃はとたんに笑顔になる。まるで元気なタンポポだ。俺も嬉しくなる。

 それが幼稚園の時のこと。


「俺は!」


 幼い頃からずっと一緒。

 お医者さんごっこや、ままごとで遊んだ。

 ままごとでは、いつも佳乃は新婚の奥さんで、お椀に砂をよそって、帰ってくる俺を待っていた。俺が夜遅くに帰宅すると、地面に書いてある部屋割りの線を踏み越えて、玄関へてくてくと歩いてくる。

 ただいま。おかえりなさい。

 演技でも、そこには満面の笑みがあって。卵のように丸い佳乃の顔がにっこりと笑みに変わる。俺は恥ずかしくなってドメスティック・バイオレンスな亭主になってしまう。そんな子供じみた照れ隠し。佳乃はすぐに涙目になってしまって、俺は慌てて謝る。

 佳乃は、もうしないでね、と涙ながらの笑顔。それはひまわりのように明るい黄色で、ぱあっと花開く。俺も嬉しくなる。

 それが小学校の時のこと。


「佳乃がいないなんて耐えられないんだ!」


 ジャケットを脱ぎ捨てる。後ろ手に脱ぎ去ったジャケットは、雑踏に飲み込まれてあっという間に消失する。


「お前がいないと、俺はっ……!」


 幼い頃からずっと一緒。

 ゲームをしたり、電気街で買い物をしたり、アニメを見たりして遊んだ。

 行きと帰りは自転車に乗って。佳乃を荷台に載せて。佳乃は恥ずかしげもなく俺のお腹に手を回して。頬を背中にくっつけて。スピードを早くすると余計に俺 の背中にくっついてきて。佳乃が怖がるのを面白がって、俺は力一杯にペダルを踏みつける。佳乃は悲鳴を上げながら必死に俺の制服をつかむ。

 いたずらが過ぎたと自転車から降りれば、佳乃はふくれ面で目にお決まりの涙を浮かべている。俺は目の前で両手をすりあわせて謝り続ける。最初は唇をとがらせてそっぽを向いていた佳乃も、大好きな小判焼きをおごるということで手を打ってくれる。

 あんこだけではなくて、クリームもつける。

 俺がさらなる妥協案を提示すると、佳乃は驚くほど笑顔になる。新月から満月へ、一瞬にして満ちかける。俺も嬉しくなる。

 それが中学校の時のこと。


「俺! 駄目なんだ!」


 幼い頃からずっと一緒。

 登校、教室、放課後、下校、ずっと遊んでいたようなものだった。

 学生食堂のメニューに飽きてきた頃、不意に佳乃のお弁当をのぞいてみると、そこには黄金色に輝く卵焼きがあった。俺は佳乃に許しも得ずに、弁当箱の中から口の中へ。佳乃は怒ると言うよりは自信がないような表情で、おそるおそる俺を上目遣いに見上げてきた。

 俺は頬が落ちるほどに美味しいと内心で舌鼓を打ちながらも、持ち前のいたずら精神を発揮して、不味いと言ってみた。佳乃はなぜだか涙目を浮かべて俺に謝ってきた。

 俺はさすがに焦ってしまって、渋々美味しいことを白状する。

 仁君にほめられるの久しぶりだよ。卵焼き、また作ってあげるね。

 涙なんかどこ吹く風で、太陽のようなさんさんとした笑顔がこぼれる。俺も嬉しくなる。

 それが一年と少し前の時のこと。


「お前がいないと、何もかもが暗くなって!」


 幼い頃から二人一緒。

 幼馴染み佳乃も、ツンデレ佳乃も、ずっと一緒。

 大好きな佳乃と一緒。


「楽しいこともすぐ冷めていって!」


 点滅を繰り返す横断歩道を走る。もう少し。もう少しで俺は佳乃に追いつく。


「俺、佳乃がいないと駄目なんだ!」


 涙を浮かべた佳乃の肩にもう少しで触れることが出来る。

 今度こそ、キスの雨を降らせてやる。

 いや、雨なんて生半可なものではない。恋愛小説も真っ青の土砂降りのキスだ。

 抱きしめて、耳元でささやいてやる。

 ツンデレ佳乃は少しだけツンツンしながら、すぐにデレデレするだろう。


 ――溢れた。


 俺は全てを忘れ、ただひたすらに佳乃の背中を追いかける。俺の体を取り巻くジーンズも、汗の染み込んだシャツも、なにもかもを脱ぎ捨てて佳乃を追いかけたい。俺を邪魔するものを全てなぎ払ってでも、佳乃を捕まえたかった。


「佳乃!」


 ただ、温もりが欲しかった。たった一人の温もりが。

 平熱、三十五コンマ七度。

 少しだけ人よりも低い体温だけれど、それは俺を襲う孤独や、悲しみをぬぐい去ってくれる温もり。

 愛の温度。

 その温かさを持つ崇高なる手のひらで俺をすくい上げて欲しい。この絶望の暗闇から、光のある空間まで――


「仁!」


 俺の声に気が付いたのか、佳乃がこちらに向かってくるのが見えた。なぜか必死の形相だった。佳乃が涙を頬に残したまま突進してくる。

 刹那、かぎ爪でひっかくような大きな音が、俺に迫ってきているのが分かった。

 顔を上げた運転手の目が、俺の目とぶつかる。目は大きく見開かれ、携帯電話を取り落とす。

 佳乃の足音が近づいてくる。

 空気を引き裂くまがまがしい音のまにまに、佳乃は俺を助けようと疾駆する。

 近付く佳乃、迫る車。その中心。俺は限りある時間で、必死に体を動かす。

 手が佳乃に触れた。


 ――直後、暗転する俺の視界。


 二回転、三回転、アスファルトの硬質な感触を身体に受けながら、俺は地面を転がる。

 黒、青。黒、青。

 空とアスファルトが、ストロボのように入れ替わる。痛みもなく、黒い地面をバウンドした。痛みはすぐに俺を襲うだろう。痛覚から神経に情報が行き渡るのはもう間もなくだ。覚悟は出来ている。

 冷静に痛みに耐えようとする俺。人々の叫び声や、怒号がはっきりと聞き取れた。耳鳴りがないのが救いだった。聴覚に異常はないらしい。


 ――君、大丈夫か!


 俺は誰かに乱暴に揺り動かされていた。やはりというか、事故にあった人間をそんなに乱暴に扱わないで欲しい。気道確保とか、体を横に倒すとか、救急救命の知識には疎いが、とにかく細心の注意を払って欲しいものだ。

 ブレーキを踏んだとはいえ、一トンに近い鉄のかたまりと正面衝突したんだ。命がなくなってもおかしくはない。体を襲う痛みだって、かなりのものだ。言葉だって発することが出来ないだろう。意識ははっきりしているけれど……。


 ――こっちは大丈夫だ! 特に外傷はない!


 ……待ってくれ。

 こっちは? とは何だ。どうして俺を揺り動かしている人が叫んでいるんだ。

 こっちは? あっちが大丈夫なんだろ? こっちが危ないんだろ? 間違わないでくれ。


 ――おい! 女の子の方を早く病院に!


 だから、間違うなよ。女の子は無事なんだよ。あんまりふざけたことを言うなよ。もっと冷静に周りを見てくれ。一目瞭然だろ。


 ――おい、ひどい出血だぜ……。


 そうか、俺はそんなにひどいのか。でも、いいんだ。俺が望んだことなんだから。


 ――助かるのかよ、あれ……。


 おそるおそるといった様子で、野次馬が指を持ち上げる。

 ……野次馬の指し示す方向に、俺はいない。

 とっさに自分の体が動いた。悪夢から覚めたベッドの上。布団を払いのけるようにして飛び起きた俺は、自分の体の状態が軽傷程度ですんでいる事に驚いた。

 黒く変色し、出血する両腕を見、そして、揺り動かしていた男の人を見た。精悍な顔つきのサラリーマンだった。その肩越し、両足を震わせ、手を口にくわえた若い運転手の姿があった。茫然自失といった体は、あのときと同じ。


 嫌な予感がした。


 振り払うようにサラリーマンの元から離れ、運転手の見つめる方向に歩いていく。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 運転手は震える声でつぶやいている。その声は、もはや念仏とは例えられない。

 呪詛。邪術の類。俺にとっては、災厄を招く声。憎悪を呼び覚ます声。

 うつろな目で謝罪……呪詛を繰り返す運転手の足下には、特大の曼珠沙華が咲いていた。

 ヘッドライトが壊れたのか、プラスチックの残骸が至る所に散らばっている。

 見下ろせば真ん中に。


 真っ赤な花々に埋もれる佳乃がいた。


 黒のチュニックは、赤い液体を吸い込んでさらなる黒に染まり、白い佳乃の肌も真っ赤に染まっている。次第に広がっていく赤い曼珠沙華の花は、彼岸の名を冠するように赤い河へと佳乃を連れ去ろうとする。徐々にではあるが、群生する範囲を広げていく。広く、周囲を深紅に染めて。

 視界がちかちかする。目が痛い。

 何だ、これは……?


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 止めろ。聞きたくない。うるさい。黙れ。耳障りだ。聞きたくない。

 聞きたくない。黙れ。耳障りだ。聞きたくない。うるさい。止めろ。


「か……の?」


 血溜まりが広がっていく。佳乃を彼岸へと連れて行く。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 殺意さえ覚える声。運転手の呪詛と混ざり合う救急車のサイレン。

 鼓膜をつぶしてしまいたい。もう、何も聞きたくない。しかし、その音は十分な現実感を伴いながら、俺を再度、暗闇にたたき落とす。

 俺は血塗られたアスファルトにくずおれた。

 ぴちゃり、と水が跳ねる音。まるでにわか雨の午後、アスファルトにできた水たまりに膝をつくように、佳乃の血液が俺の膝を受け入れる。


 ――予定調和。


 俺の頭に浮かんだ言葉。決められた運命。変えられない宿命。定められた死。

 変えられない。不可避。俺が何をしたところで。

 ここはそういうところ。


「う……あ……あ」


 暗闇。漆黒。夜陰。暗黒。それらを連綿と繰り返し。

 俺は幾度となく絶望を見る。


「あああぁぁああああぁああああぁっ! あああああああぁああぁぁぁっ!」



 佳乃の笑顔が浮かんで、消えた。


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