第十九話・「絶望」
ひどく重い。身も、心も……記憶でさえも。
古今東西、人の全てを表すとき、身も心もなんて表現をするけれど、人はそれだけで形成されているわけではないと断言できる。身と心だけで出来た人間がいるとすれば、それは全てが空っぽの人間に違いない。
心なんて一言で言っても、それは複雑で多岐にわたる途方もない範囲のことを指すし、第一、その心ですらどんなものか分かったものではない。分ることとといえば、身が器で、それに入れるものが心、ということぐらい。
でも、空っぽの体に空っぽの心を入れたところで、人間そのものが空っぽなのは言うまでもない。だから、人間には記憶が必要なのだ。
記憶が人を動かし、記憶が人を作る。
……だからなのだろうか、俺の心の中が、こんなにも真っ暗なのは。
何十階、何百階の高さのビルから落ちていくような錯覚。眼下には、途方もない奈落が広がっていて、俺は夢中でクロールでもするようにもがいてみるけれど、落下速度が減速する兆しはない。いつ果てるでもない暗黒への自由落下。
こんなことは久しぶりだった。
この半年間、これほどの絶望の時間に引き込まれたことはない。いつしか俺は闇に落ちることもなくなった。現実の風景のまま、背中を丸めて腹筋に力を入れれば、暗闇を内側に押し返すことが出来るようになっていた。
それが成長なのか、ただ慣れただけなのかは分からない。
……いや、おそらく後者だ。しかもそれは、自分を偽った形で。
慣れたと思いこんでいただけ。だから今、俺は落下している。
今更だが、黒いどろどろとした液体が、俺の奥底に溜まっていたことはずっと分かっていたことだった。佳乃という生涯の伴侶――伴侶などと人の人生を簡単に言ってしまえる俺は、ひどく傲慢な人間に違いない――を失った俺は、佳乃の顔面を白い布が覆ったその瞬間から、俺の腹の奥に流れ出した。
沸々と煮えたぎる加害者への憎悪の下で、ゆっくりと流れ出した黒い灼熱。それは体という地表のさらに奥、マントルの底にひそむ黒き溶岩だった。
その熱が失われてもなお、重油のように俺の全身をなめまわし、体温を悲しみの温度へと引き下げる。
絶望。
なんて丁度良い言葉だろう。あまりにもぴったりすぎて、鳥肌が立つ。落下を続ける俺を表現するには、本当にお似合いだ。
闇の先を凝視する。
奈落の底。そんな場所があるのなら、この目で見てみたい。
絶望の底。そんな場所があるのなら、この目で見てみたい。
でも、俺はきっと動じないだろう。なぜならば。
――佳乃を失う以上の絶望などありはしないのだから。
やがて見えてきた暗闇の途切れ。落ちていく暗闇の底には、真っ黒な湖面が広がっていた。光も届かない闇の湖面に、俺の姿が映し出されていた。目の下は黒く、頬はこけ、髪の毛はぼさぼさ。なんて無様で、みすぼらしい姿だろう。そんな俺が俺の中に落ちていく。
一度瞬きをし、理解した。
ああ、そうか。ここは、俺の中なんだ。俺の体の奥底、心臓の奥底に広がって、今もなお増殖を続ける絶望の海。俺はそれに落ちていく。この果てのない海を泳ぎ切れる力はない。抵抗する術を持たない俺は、きっと泳ぎ疲れておぼれ死ぬ。
絶望の海を泳ぐ。
その言葉だけで、俺は無理だと分かる。
――絶望というのは、思いの深さに比例するもの。幸せの反対が不幸であるように、愛と憎しみが隣り合うように、戦争と平和が表裏一体であるように。
絶望もまったくもって同じ。そう考えると俺は嬉しくなってしまえる。
湖面に体が飲み込まれ、服の中に水が浸食し、体を包み込まれる。真っ黒な手が俺の体を押さえこみ、濁った汚水の奥へ引きずり込もうとする。
俺は微笑んだ。
嬉しい。嬉しくて嬉しくて仕方がない。
だって、そうだろ? この果てなく遠き深淵は、広がる絶望の海原は。
俺が一人の女の子を想った果てに、作り上げた悲しみなんだから。
一人の女の子を愛して止まなかった証拠なんだから。
つまりは、さ。佳乃、こういうことなんだ。
俺はこんなにもお前が好きなんだってことだよ。
だから、こんなに海は広いんだよ。愛に泳ぎ疲れてしまうくらいにさ。
俺は目をつぶって、液体に身を任せる。どんどん沈む、どんどん引き込まれる。そして、どれぐらい墜ちていったのか……。高速で打ち鳴らされるベルの音で、俺は目が覚める。
最近は忘れていたのに、また始まるのだ。
寄せては返す絶望の波。
――俺が佳乃を失う旅路。