第一話・「俺なんか……どうせオタクだぜ……」
「仁君、お腹大丈夫?」
家を出てもなお痛む腹部をさすりながら、俺は佳乃に笑って見せた。
「名誉の負傷さ。心配するな、佳乃」
俺が佳乃の頭をぽんぽんとなでてやると、佳乃は安心したような笑顔を見せた。俺の腹部に零距離からの突きを放った人間のものとは思えない、天使の笑顔。
「どうしてかな? 仁君の表情が硬いような気がする。心なしか、私の手も痛いし……気がついたらベッドのそばに仁君が倒れてるし、お腹から煙が立ってるし……」
漫画的な演出にはあえて触れずに、俺はある一軒家の前で不意に立ち止まる。朝には似合わない騒がしい声が、その家の窓から聞こえてくる。
――お兄ちゃぁん、朝だよー!
「真奈美ちゃんの声だね」
佳乃が背伸びをして、窓の中をうかがおうとする。
「ああ、いつ聞いても萌えるな」
腹部の痛みも忘れるようなハスキーボイスが、俺の鼓膜を満たす。
――お兄ちゃん、どうして起きてるの!? ダメだよ、絶対にダメ! 可愛いしっかり者の義妹がだらしない兄を起こさないと、人類の存在理由の半分が失われるの!
その意見には激しく納得だ。腕を組んでうんうんとうなずく。血のつながった妹ではなく、義妹というのもまたいい。
――だからお兄ちゃんは、この真奈美の釘バットでもう一回夢を見るの!
「すごいね……真奈美ちゃんの家から、とても朝には思えない音が聞こえてくるよ」
どったんばったん、ぎっこんばったん……家が震えている。
「さすが鹿岡兄妹、常軌を逸している……鹿岡兄の安否が気遣われるな」
本棚をひっくり返すような音、タイヤをバットで叩くような音。強盗に襲われているのではないかという支離滅裂な破壊音。
――お兄ちゃん! 逃げちゃダメ! おとなしく真奈美に殴られるのっ!
「バットで見るのは夢ではなくて、地獄だと思うのはきっと俺だけだけでは……」
そのとき、俺の言葉をさえぎるようにして、家の窓を突き破った目覚まし時計が俺の顔面を直撃する。
「……ない……はずだ……」
顔面が真っ暗になりかける。額にめり込んだ目覚まし時計を引き剥がして、口に入っていた単一電池を口から吐き出す。アルカリの味は不味かった。
「仁君って、電気で動いてるんだね」
両手を合わせて感動している佳乃。
「いいか佳乃、天然ボケというキャラクターは、やたらボケればいいというわけではないんだ」
「あれ、そうなの?」
佳乃は驚いたふりを撤回して、眼を丸くする。
「そうだ。確実と思われる場面でボケなければ、それはただの馬鹿だ。いいか、馬鹿と天然は違う。この差は大きい。とてつもなく大きい。たとえば、そうだな……電車の中で周囲の迷惑を考えずに大声で話している女子高生がいるだろ?」
「ええと、三次元の話だよね」
「……いや、そういう笑顔での確認は、いらない誤解を招くから止めてくれ。次元とかそういう差別化するような単語を使うから、居心地が悪くなるんじゃないか。確かに俺は二次元に異様な愛着と安心感と美的好奇心と多種の欲望を刺激されるが……と、いやいや、そういう言い訳じみたことではなくて」
ちくりと痛む胸の痛みを我慢しながら、佳乃に言い聞かせる。
「もう一度頭からだ。電車の中で周囲の迷惑を考えずに大声で話している女子高生がいるだろ? あれは馬鹿だ。だけど、転校初日の曲がり角で、パンを加えながらあわてて走ってきた女の子と激突して、朝の教室で再開して『お、お前は!』的なうるささは――」
「ええと、三次元の話だよね、仁君? あれ、仁君? 道の真ん中で背中丸めてどうしたの?」
「いいさ。今のはアグレッシブにいった結果さ、オーケーさ……」
胸の激痛に耐えながら、道端に美少女の絵を描き始めた俺。うん、やっぱり髪型は金髪ツインテールが最強だな……。
「あ、仁君がまた二次元に逃避してるよ」
「いいんだ、俺なんか……どうせオタクだぜ……」
そんな泣きべそをかく俺に、佳乃が顔を寄せながら、びしっと親指を立てる。ウインクした片目からきら星が飛び出すほどに。
「大丈夫だよ。これより下はないよ、仁君!」
「なぐさめるよね!? 普通慰めるよねっ!?」
「よしよし、仁君はいい子でちゅねー、だから早く三次元に帰ってきてねー」
裏声で頭をなでなでされる。
「……テメェ」
丸めた背中のまま、肩越しに牙を剥く俺。それを見た佳乃はおどけながら逃げていき、少し走った後、突然佳乃が振り返る。
「もう、先に行っちゃうよ、お兄ちゃん♪」
鹿岡義妹の真似をしているのだろうか、佳乃の頬は桜色。
恥ずかしいならやるなよ、俺まで恥ずかしくなるだろうが。朝日のまぶしさが、佳乃のまぶしさと重なって、俺は目を細める。
「う〜ん、妹という設定も捨てがたいな」
あごに手をやってつぶやく俺に、佳乃はまぶたを指で下げて舌を出す。
いわゆる、あかんべー状態。
――じゃ、真奈美は着替えるねっ! お兄ちゃんはこっち向いていて♪
――分かった。お前を見ていればいいんだな……って、ここで着替えるなー!
そんな声が頭上から降ってきたので、俺は携帯電話を開いて時刻を確認する。歩いて遅刻ギリギリだ。
「世はこともなし。……ま、俺たちも行くか」
佳乃の背中を追いかける。
腹部の痛みはどこかへ消えてしまっていた。