第十八話・「醜い気持ち」
俺が杏里と騒いでいた時間を含めても、あっさりとしすぎているほど簡単に、山田ウメは見つかった。
現状を第一種接近遭遇体制に移行……つまり、追跡を悟られない範囲内で山田ウメを監視する。
これほど早く山田ウメが再発見に至ったのには理由がある。
すでに世は夜の闇が町中を支配し、学生の姿が町中に不釣り合いになる時間帯。裏路地がネオンに揺れて活気づく時間に、長く緑の黒髪を持つ学生服姿。加え、小柄の女の子を見つければ、間違いなくそれはウメだったからだ。
ウメは、大量のサラリーマンがはき出される駅前改札口前にある、噴水の縁に腰掛けた。 噴水は夜の帳に存在を主張するかのようにブルーにライトアップされ、ウメの横顔を青白く染めていた。ただでさえ白磁器のような肌を持ったウメだ。青白い光を受ければ、美しいと感じると同時に、不健康にも見えた。
「先輩……」
追跡中、敵艦をやり過ごすユーボートのように沈黙していた杏里が、まだ生きてますとでも言いたそうに声をかけてきた。
「寒いか?」
杏里は首をふるふると横に揺する。いつもは元気に跳ねる想像上の犬耳が、今は力なく伏せられてしまっているような気がした。
ウメの追跡を再開してから、杏里はずっと無言で俺の後を付いてきていた。時々思い出したように俺の制服の裾をつかんでは、俺に対して、付いてきています、と存在を主張したりした。今にも捨てられそうな子犬に見えてしまったのは、杏里に対して失礼だと思う。「……やっぱり寒いかも、です」
俺達はウメの姿を背後から視認できるベンチに移動していた。膝の上で両手をぎゅっと握りしめたまま、杏里はうつむいている。
俺はそんな杏里に何一つ気の利いた言葉を話しかられず、夢遊病者のようにただただウメの後ろ姿を見つめていた。
ウメを見つめる俺の視線を、横切るカップルの姿が幾度となく遮った。彼らからすれば、俺と杏里はどのように写ったのだろうか。自分たちと同じには、少なくとも思わなかったのではないだろうか。
見えたとすれば、死期が迫った病人と同じに見えたろう。
「嫌だったら、帰っていいんだぞ」
「違うんです。杏里が思っていることはそんな事じゃないんです」
杏里には珍しく切迫した気勢だった。
「寒くないけど寒いんです。矛盾していると思いますか?」
ウメが腕時計を確認している。
駅前の電光掲示板を見れば、八時を回ろうとしている。時計をしきりに確認しているところからして、待ち合わせは八時といったところか。学生の待ち合わせにしては、時間が遅すぎる。
「先輩?」
俺の制服の袖を引っ張ってくる。
「あ、ああ……スマン、聞いてたよ。その通りだよな」
本当は聞いていなかった。
俺はぞんざいな返事だけをベンチの上に残して、ウメを見続けている。ウメが八時に待ち合わせる人物を、何度も何度も頭に妄想する。
「でも、矛盾していないのです。矛盾しているように見えてそうではないのです。寒くないけど寒い。前者と後者では、対象となる場所が違うのです」
やはり、パパ……なのだろうか。
だとするとどんな人間なのだろう。ウメには両親がいない。ウメが時々口にする情報を総合すると、ウメは他県に祖父母がいるのみで、肉親は存在していないのだ。そもそも、なぜ親戚すら存在しない場所に引っ越してきたのだろうか。慣れない一人暮しを選択してまで。定期的な通院にも問題あるはずだ。
俺の通う高校が、ウメにとっての志望校だったからか?
「先輩は、近くにいるのにとっても遠くにいます。違う誰かばかり見ているのです。目で見ているのは私でも、心で見ているのは全く別のところなのです」
いや、志望校説はあり得ないな。通学している俺が言うのだから間違いない。
中堅大学への進学がほとんどの凡庸な高校だ。本当に理想の進学をしたいのなら、隣町の進学校へ行けばいい。ウメの学力ならば、それも可能だったはずだ。
「…………先輩が見ている人……杏里は知ってます」
そうすると、ウメはそれに勝る理由があってこの高校に入学、一人暮しを選択、夜の町で待ち合わせているのだ。
「私、先輩のこと……入学してからずっと知ってました。……でも、いつも隣には一人の女の子がいたのです。悔しいくらい先輩とお似合いで……。私、嫌な女の子なのです」
ウメの待ち人は、やはり、パパなのだろうか。
時刻は八時十分。ウメの待ち人はまだ来ない。
ウメが駅の改札を何度も見ているのは、待ち人が駅から現れるからだろう。
「でも……でも、その人はいつの間にかいなくなっていて……私、もしかしたらチャンスなのかなって。……でも、それって、とっても……とっても醜い気持ちで……」
さっき到着したのが八時八分の電車だから、次は少なくとも十分後。十分は待ちぼうけということだ。
「……先輩? 聞いてますか……?」
俺の制服に引っかかるような感触。俺は制服がベンチの逆むけにでも引っかかったと思い、少し乱暴に振り払った。
そして、気がつく。
杏里が隣に座っていること。失念していたという事実を。
「あ……」
悲しげな驚きとともに、杏里の手が所在なげに下ろされる。杏里からすれば、鬱陶しいと思われていると誤解してもおかしくない。
「……ごめんなさい先輩。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
両手をこれ以上無いというぐらい強く膝の上で握りしめて、溢れそうになる感情を内に押しとどめている。杏里の両肩が小刻みに震えていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
鼻をすする音がして、俺は杏里が泣いていることに気付く。
「……止めろ」
記憶がさかのぼる。
――ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい。
虫酸が走った。かつて俺のそばでそう言い続けた男がいた。
直前まで携帯電話をいじっていた。慌ててブレーキを踏んだところで事故は避けられない。一人の女の子を傷つけ、挙句の果てには死に追いやった。謝ったところで、何度謝罪したところで、女の子は帰ってこない。俺のそばで笑顔の花を咲かせてくれることも、卵焼きを食べさせてくれる事もない。謝ったところで許される罪でもない。軽くなるような罪でもない。
たった一文字のメールを打つことが、それほど大事なのか。
女の子を死に追いやったあの数瞬で、男はどんなメールを打っていたんだ。
女の子の命をはかりにかけられるほど大事なメールだったのか。
押下した言葉はどんな言葉だ。打てても一文字だろう。
だとすれば、たった一文字が、女の子の命を犠牲にしたんだ。
女の子の命を、佳乃の命を、二人の人格を宿した佳乃の命を、佳乃の笑顔を、俺が好きだった二人の幼馴染みの命を、通じ合った愛を……たった一文字と天秤にかけたんだ。
たったの一文字と。
「せ、先輩……先輩、先輩?」
「止めろ……止めてくれ……ちくしょう……こんな時に……」
心の底から無限に溢れる黒い濁流に、俺はなすすべなく飲み込まれていった。