第十六話・「……ストーカーめ」
俺は校門の陰に隠れて、前方をゆく小さな人影の様子をうかがう。
どうやら目標は、繁華街に移動しているようだ。
俺は従える部下に指示を与えるべく、壁際で握り拳を突き上げる。部下は俺の指示を理解したようで、壁際に体を寄せて待機する。
俺は目標と、ある程度距離が出来たところで、突き上げた握り拳の人差し指を立てて、空に向かってぐるぐると回した。指示の意味するところを言えばこうである。
――俺から離れるな。
「先輩先輩先輩! それは杏里に対する愛の告白と受け取ってよいでありますか!」
唯一の部下である杏里が、任務を忘れて飛びついてくる。
「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、 その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか? はい! 杏里は誓うであります! 大尉殿も誓いますよね? ね? ね?」
自作自演もお手の物。
言葉の途中で、髪の毛の隙間から犬耳が、ぴょん、と言う擬音語を伴って跳ね上がった。スカートからはしっぽが飛び出して、嬉しそうにふりふりと揺れている。もちろん、錯覚だ。俺にそんなコスプレ趣味はない。
……むむ、でも考えたら似合うかも。
一言で言うならば、あ、杏里犬……?
俺の嗜虐心がざわめき立つ。なんかこう理不尽にいじめたくなるな。
「い、いま、杏里のM型レーダーが身の危険を察知したであります! 杏里のかなり身近にまで危険が迫っていることを察知したでありますよ! どうしましょう大尉殿っ!」
「うるさい、黙れ、上官命令だ。出来るなら息もするな。むしろ人間を辞めろ」
「ふ、不当な命令には従えないであります!」
俺は杏里の頭にげんこつを落とす。
「黙れと言ったはずだ、伍長」
「い、痛いですっ……女の子を殴ったですっ……ひどいです先輩」
涙目になりながら、追跡を再開する俺の後をついてくる。
どこまでもけなげな部下だった。
「でもその痛みが、愛情の裏返しだって杏里は分かっているのです。先輩は杏里が可愛くて可愛くてしかたがなくて、素直に気持ちを吐露することが出来なくて、それで意地になってこんな事をするんですよね? うんうん、分かっているんです。杏里は耐えられる女なんです。良妻賢母です母体安全です。あ、先輩! 今二人の愛の結晶が杏里のお腹を蹴りましたよ! という具合に可愛い女の子なんです。……繰り返します」
「繰り返すな、長ったらしい!」
俺は同じところに再びげんこつを落とす。
「同じところを……せ、先輩なかなかのSぶり、えげつないです……。ううっ……Mな杏里でなければもだえて苦しんだあげく教育委員会に訴えるところです」
二段重ねのアイスを想像させるたんこぶが、杏里の頭にできあがる。頭から煙が上がる演出のおまけ付き。
「ちなみに言うと、教育委員会は、生徒を助けると言うよりは、先生を助ける機関だ」
「……杏里の発言を全否定する気ですね? そうなんですね? それが気持ちいいんですか先輩! 陵辱です! でも、そんな先輩だと分かっていても杏里は二人の愛のために」「よし、死んでこい」
俺はゆっくりと立ち上がる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! だからその先輩の堅くて太くておっきいもので杏里をなぶるのだけは許してくださいであります!」
壁にすがるようにしておびえる杏里に不気味に立ちはだかった。
「……あ、あれ、先輩? ほら笑ってください、杏里は先輩の笑顔が見たいですよ? にこにこーです。スマイルスマイルスマイル……」
無表情で杏里を見下ろす。杏里の顔は引きつっていた。
「俺はこんな時どんな顔をして良いのか分からん」
「あ……笑えばいいと思いますよ、先輩」
俺は誰が見ても犯罪者と勘違いするであろう、不気味な笑みを浮かべた。俺の姿に戦慄する杏里は、両手をがっちりと組み合わせて哀願する。
「せ、先輩先輩先輩! 後生です! 最後に一言だけ……」
「発言を許す。これがお前の遺言になる。言葉を選べ」
杏里は少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「その、顔だけは勘弁ですよ? 杏里の可愛い顔に傷がつくと悲しむ人がいるのです。杏里は、大好きな先輩が悲しむ顔を見たくないのです」
後半がやけに真剣味を帯びた様子だったが、そんなものは関係ない。杏里の前につきだした、俺の堅くて太くておっきいもので杏里をなぶる。
誤解を招くようだが……もちろん、ただの教科書の入った鞄のことだ。
――遺憾ながら、追跡はそこで中断。
第一次ウメ追跡ミッションは失敗に終わったのだった。
「杏里は、先輩の笑顔が見たいだけなのですよ……」
「うるさい」
ぼろぞうきんのようになってしまった杏里。俺は加害者である手前、渋々おんぶしながら日の傾き始めた堤防をゆく。
「やりすぎたことは謝る。だが、そのほかについては謝らないぞ、俺は」
杏里は一生懸命すぎる。だから、俺も本気で向き合ってしまう。
男女という垣根、先輩後輩という垣根など簡単に飛び越えて、ぶつかっていってしまう。
「ふふふ……どこまでもSな人ですね、先輩。Mな杏里でなければ臨時国会の議案にあげられているところです」
「うるさい」
緩やかな曲線を描いていく堤防。遠くの高架線には、一日の終わりを実感する人々ですし詰めになっている電車が見える。かたことかたことと線路を行く電車の音が遅れて聞こえてくる。
「繰り返します」
「繰り返すな」
太陽が山際に隠れていく。
ふと、おんぶする杏里を見れば、目を閉じて何かに浸っているように見えた。眠っているように安らかだ。
「杏里は、先輩の笑顔が見たいだけなのです」
俺は堤防の先を見つめた。子供の頃、よく、幼馴染みと遊んだ堤防だ。遠く夕焼けの向こうで、幼馴染みが手招きしているように感じられた。
――仁君! 見て! 私、二重跳び飛べるようになったよ! ほら!
俺が見ている前では、緊張して決して飛べない二重跳び。
縄跳びを足にぶつけて痛がる佳乃の膝をさすってあげた記憶が蘇る。
「杏里は、先輩の悲しい顔は嫌いなのです」
幼馴染みの幼い笑顔が道行く車に隠れると、その幻想は簡単に消えてしまう。車が通過した後に現れたのは、山の向こうに消えようとする赤く色づいた太陽の半顔。
「入学してから、いままでずっと……こっそりと見てたのですよ」
「……ストーカーめ」
俺は真っ赤な夕陽に目を細めながら、心の奥で震える琴線を感じていた。
「杏里は先輩専用のストーカーです」
「このまま交番に行くか?」
意地悪するつもりで背負う杏里を揺すると、杏里はつぶっていた目をうっすらと開けた。
彼女の目が、二人の前方に広がる景色を目に宿す。
「……あれ……先輩は空を赤く塗ったんですね。さすがです、杏里は感動です……」
寝ぼけているのかそうでないのか、杏里の瞳を染めた真っ赤な夕陽が、やけに印象に残った。
「杏里は……これからもずっと……先輩を見て……いるのです……」
眠りにつこうというのか、杏里は口をもごもごとさせて犬耳を伏せる。もちろん幻想だが、俺には杏里が眠りにつこうとする子犬に見えた。
――仁君! 今度こそ飛んでみせるから、ちゃんと見ていてね!
あのときの夕陽と同じ夕陽であることが、胸をつぶしていく。
「ああ……俺も、ずっと見てるよ」
楽しそうな佳乃が、夕陽の袂で大きく縄跳びを回していた。