第十五話・「せ〜んぱいっ!」
今日も今日とて一人の昼食。
屋上に登り、太陽を眺めながらのんべんだらりとサンドイッチを頬張るのは、のどかで平和な反面、どこか物寂しい。
「……うん、うまい」
購買部で買ったカツサンドは確かに人気商品だけあっておいしさは際だつ。カツに染みこんだソースと、周囲を包む衣の絶妙なハーモニー。
まさに、鬼に金棒。
けれど、鬼の目にも涙が光り、金棒はさびて使い物にならない。それほどまでに俺の舌を肥えさせた料理が、この世に存在していたことを俺は知っている。
この舌で、この歯で、目で、鼻で、俺は幾度となく、当たり前のようにその味を楽しんできた。学校で一、二を争う大人気商品すら凌駕する味に、俺は慣れすぎてしまった。
そのせいで、俺の味覚レベルのデフォルト数値が高めに設定されてしまったらしい。カツサンドですら、デフォルト数値をやっと上回れるくらいだ。
誰がこんな俺にした? 誰が俺を味にうるさい男にした?
「うまいな……このカツサンド……本当にうまいぞ」
満腹感は、確かに腹に溜まっていくけれど。
満足感は、一向に腹に溜まっていってはくれない。
幸福感は、一向に腹に溜まっていってはくれない
「あまりのうまさに感動して、涙すら出そうだぜ……」
頬は確かに喜んでいる。おいしいと訴えてくる。
「おーい、卵焼きが食べたいぞー……」
お袋の味ではない、幼馴染みの味。
それが恋しくなって、俺は青空に弱々しく叫んでみた。
青空は簡単に俺の声を飲み込んでしまう。
空はどんな胃袋をしているのだろうか。
人間がどんなに汚い物を排出しても、それをまずいとも言わずに大量に頬張ってしまう。
時々お腹を壊してしまって、ゴロゴロと何百万五ボルトという電気を伴ってお腹を鳴らしてみたりするのは愛嬌。けれど、お腹を壊した後は、決まって綺麗な笑顔を見せてくれる。にっこりと雲一つない笑顔を向けてくれるのだ。俺もそんな胃袋が欲しかった。
雨が降ってもいつか必ずあがって、雲間からは綺麗な光をのぞかせる。やがて、雲が全て消え失せて、本当に美しい蒼穹を見せてくれる。
いつかは必ず笑うことが出来る。
そんな確信を持つことの出来るこの空を、俺はとてもうらやましく思うのだった。
「ああ……くそっ……」
俺は青空の下で、うずくまる。
黒い、とても黒い感情が流れ出してくる。
胸の中心、みぞおちの一番奥。そこにもう一つの心臓があるようだ。どくん、と大きく高鳴ったかと思うと、ポンプが急速に稼働しだして、体中に黒い液体を供給しようとする。
肺に染みこんで、腹に落ちていって、指の先からつま先、頭のてっぺんまで。
……黒い闇に覆われそうになる。
「まただ……う……ぐっ……」
痛みはない。でも、大きく欠けた空間に、次々に入り込んでいく汚染された水。
ぽっかりと空いた場所。心の隙間。
かつて二人の少女がそこにいた。二人だけがそこにいることが出来た。その存在があまりにも大きすぎたから、いざそこにもなくなると、あまりにも大きな空虚が出来た。地球から太平洋がなくなったようなものだ。
……すると、心は自動的にある対処をする。
欠けた隙間を埋めるために、必ず別の物で埋め合わせをしようとするのだ。
「いい加減にしてくれ……! たのむから……」
空虚は悲しみでのみ埋められる。
存在していた物が欠けたとき、そこには負の感情だけが注がれていく。それ以外には何もない。
――つまり、感情とは液体なのだ。
喪失感という虚空の中には、膨大な量の絶望が、悲しみが、憎しみが注がれ、満たされる。絶望が溜まりに溜まっていって、あふれ出す。
「大丈夫だ……耐えられるさ」
収まり切らなくなって溢れたものを、俺はこうやって耐えるしかない。
無限にわき出して虚空に注がれていくから、いつまでたっても枯渇しない。
一生、俺は耐え続けるんだ。
二人を失った悲しみに。二人を奪った人間への憎しみを抱えながら。
「慣れても良いはずなんだけどな……はは」
絶望で潤った体内とは対照的に、乾いた笑いがこぼれた。
「このまま一生苦しむんなら……いっそのこと」
一瞬、絶対に考えてはいけない安易な道に足を踏み出そうとする自分がいた。俺は驚きのあまり、屋上に仰向けに転がるしかなかった。
「何考えてるんだ、俺……シャレになんないよ……はは、ははは」
それでも青空は俺の自嘲を食べてくれる。きっと不味いに違いなのに、嫌だと言わず食べてくれる。
あ、そうか。だから、人は空に向かって叫んだり、空を仰いだりするんだ。
空になにもかもを飲み込んで欲しくて。
……俺もいつか、叫べる日が来るのだろうか。恥も外聞もなく、自分の感情を、悲しみを爆発させるときが来るのだろうか。
空になにもかもを飲み込んで欲しくて。
「せ〜んぱいっ!」
「……ゲ」
仰向けの視界に、逆さまに飛び込んできた顔を見て、俺は毒づいた。
中腰になって俺の顔をのぞき込んだのは、一つ年下の下級生。
短く切られたボーイッシュな髪が太陽に反射してきらきらと輝けば、同じように、くりくりとした子供のような目も喜びに輝く。まなざしに期待が込められているせいか、どこかその物腰は主人にすり寄ってくる子犬を思わせた。頭には犬耳が付いていて、お尻ではしっぽがふりふりと揺れている……そんな感じの。少女のすっきりとした輪郭や、飾り気のない無垢な素顔は、自らを偽ることを知らない無邪気さを思わせた。それは、女っ気のあまりない、つまりは凹凸のない子供っぽい体格のせいかもしれない。
「ひどいひどいひどいですよ先輩! こんな可憐かつ無邪気で純真な女の子に向かって、ゲ、はないですよ! ゲは!」
ころころと表情を変化させる様は、ウメとは正反対だ。まるで体格が一緒で、性格だけが異なったよう。ボディランゲージも大げさで、物静かなウメとは似てもにつかない。
まるで、オセロの表と裏だ。
「じゃあ、ゴ」
俺。
「……むむっ、ガ」
少女。
「ギ」
俺。
「ビ」
少女。
「バ」
俺。
「あ、あの〜先輩? 一つ聞いて良いですか? この遊びが何の遊びなのか杏里は知りたいです。好奇心が旺盛でワクワクテカテカです」
杏里は両手を祈るように重ね合わせると、きらきらした瞳で俺を見上げてくる。
「よし、特別にみんなには内緒という条件で教えてやる」
杏里の周囲に花畑が広がったようだ。俺の言葉を発端として、彼女の笑顔がはじける。
「内緒ですかっ!? それはシークレットでドキドキで胸がきゅんとなる二人の秘密という禁断の甘い果実ですね?」
「そうだ、それのあれでカムサハムニダ」
「ふふふ、先輩、日頃から私を避けているのは愛情の裏返しなのですね? やっぱり杏里の思った通りだったのです。可愛い子には旅させよ。獅子の子落し。嫌よ嫌よも好きの内……という、思春期的スカートめくりの法則ですね!」
まくし立てる杏里を、両手を使って落ち着かせる。
「よし、いいから落ち着いてよく聞け。これはなかなかに難しい遊びだ。なめるとやけどするぞ」
俺は出来るだけ真剣な顔を作るように心がける。
「ごくり、杏里はつばを飲み込んだ、です」
なぜか一人称風味につぶやき、自らの解説通りつばを飲み込む不思議少女。
「まずは屋上のドアの方を向くんだ。そして、ドアに向かって歩いていく」
俺は屋上のドアを指さし、眉に力を入れて解説する。
「せ、先輩、これで良いんですか?」
「よし、いい子だ。そしてドアのノブを握ったら、右に回して校舎の中に入れ」
空気をつかんで右に回してみせる。杏里は俺の言うことに従順に従った。
「杏里は一体どうなってしまうのでしょう! 良いところでお預けなんてドラマ的な演出はいりませんよ、先輩!」
「ふふふ、まあ、そう焦るな。ここからが良いところだ。校舎の中に入ったら、全速力で教室に戻り、自分の席に座って三十分待つんだ。そこには、めくるめく出来事が待っているぞ」
口の端を持ち上げて、にやりと笑う。そんな俺を見た杏里は、好奇心という唾液を今一度、飲み込む。
「めくるめく……せ、先輩……! それはゲームで言うところの某推奨年齢判定機構がZで規制してしまうくらい妄想と欲望のピンクの板ばさみなエログロナンセンス的なものなのではっ!?」
「分かったら、さっさと行動するんだ」
人差し指を唇に当てて、沈黙を指示してやる。すると杏里はさらに目をきらきらとさせて、まるで雲間から顔を出した太陽にのように表情を輝かせる。
「は、はいっ! この中村杏里、代えたくないけど命に代えて誰よりも早く教室にたどり着いて見せますっ! 杏里の道も一歩からですっ!」
握り拳を突き上げる杏里に、俺は頬が引きつるのを我慢するのがやっとだった。
「あ、あの先輩! 今のネタ、つっこむところですよ!」
「ナンデヤネン」
校舎内に消えたと思っていた杏里が再び屋上に現れたので、俺は機械的に笑うしかなかった。
「では、めくるめく世界へ突貫します!」
一陣の突風を残して、杏里は階下に消えた。杏里が去った屋上は、まさに台風一過。
木枯らしが、枯れ葉をくるりと一回転させるような感覚だった。
「…………さて、帰るか」
俺はふと胸に手をあててみる。
いつの間にか、俺を覆っていた黒が薄れていた。でも、俺が薄れていると気が付くと、黒は活動を再開しようと身じろぎした。
俺は腹部に力を入れて身構える。けれどそれは、屋上の扉を破壊せんばかりに突入してきた人間によって、吹き飛ばされることになる。砂煙を巻き上げて走るようなけたたましい足音。あまりの音に耳を押さえようと思った刹那、それは出現した。
「先輩先輩先輩! 杏里は気が付きました! 先輩は杏里をだましたのでありますか!」
「だまされる方が悪い」
「ひ、ひどい仕打ちですっ……杏里がドMでなければ、泣いて先生に言いつけるところですよ? 危なかったですね先輩っ!」
自分の性癖を暴露する杏里に、俺は新たに頭痛を覚えた。
「危ないのはお前だ」
「杏里をこんな体にしたのは先輩じゃないですかっ!」
「人聞きの悪いこと言うな!」
「もう、先輩じゃなきゃ駄目なんですっ……」
「物欲しそうに指をくわえるな! 体をしならせるな! 涙目で懇願するな!」
誰かに聞かれていたら一大事だぞ。
俺は屋上をきょろきょろ。よかった、誰もいない。
「むぅっ……だったら先輩っ! 私をとるか、このお弁当をとるか二つに一つです!」
「いつから世界はそんな不条理になったっ!?」
見れば、手には二つのお弁当。そこは女らしいというか、かわいらしい袋に包まれている。
……不意に胸が、黒い感情ではない、懐かしい感動でうずくのが理解できた。
俺はそれを一瞬では理解することが出来なくて、思わず飽きれたふりをするしかなかった。
「でないと、先輩とのアムール(愛)な日々を綴った赤裸々杏里日記を新聞部に譲与します!」
「ゴシップ!?」
「ふふふ、先輩、大衆は時に真実よりも虚像に希望をたくす愚かな集団なのですよ……」
独裁者のそれだ。
「く……分かった、百歩譲って弁当を選択してやろう。ちなみに、不味かったら食べないからな?」
俺は杏里の視線に少なからず恐怖を覚え、後ずさったのちに承諾してしまう。数秒前に訪れた懐かしい感情が、俺を妥協へと導いてしまったのだ。
「もちろんです! 最低限の人権です!」
弁当をもったまま腕を組んで、小さな体を大きく見せる杏里。
彼女は……料理がこの上なく下手。そしてなにより、この中村杏里という少女は、俺が苦しいときに限って現れる、何ともいえない救世主だった。
……呼んだわけでもないのに。必要としたわけでもないのに。
なぜかいきなりやってきて、いきなりこのような日々が始まった。
俺はおそるおそる唐揚げらしき物体を持ち上げて、口の中に放り込む。
その味は、黒い感情すら、諸手をあげて逃げ出すほどだった。
「最高に不味いっ!? まさに塩と唐辛子の織り成す最強の断末魔っ!?」
「……やっぱり。てへへ」
杏里は舌を出して笑っていた。
この確信犯め。