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第十四話・「歯」

「……パパ、ねぇ」


 授業中、俺は隣に座るウメをちらりと盗み見てつぶやいた。夢にも思ってみなかった単語が、ウメの口から飛び出したのだ。寝言とはいえ、にわかには信じがたい。

ウメは、そんな俺の胸中などつゆ知らず、黒板に文字が書かれている様子もないのに、すらすらとノートに書き込んでいる。

 俺は首を伸ばしてノートの中身をのぞき込むと、そこには先生が話している授業内容を書き留めている。黒板に書いた事項だけではなく、先生の言葉の端々にまで神経を行き渡らせているということか。


「……勉強熱心なことで」


「授業は社会に出るために必要なの」


 ノートに落としていた瞳の行く先を俺に変更する。顔を動かさずに、瞳だけ動かすものだから、その強烈な瞳の強さに、俺は少しだけうろたえる。


「ず、ずいぶんな地獄耳だな」


 だとしたら、俺がパパとつぶやいたことも聞こえていたのだろうか。パパの真相を聞きたい俺にとっては、願ってもないきっかけが飛び込んできたということだ。

 よし、ここは思い切って聞いてみるか。

 しかし、それは有無を言わさず、ウメの言葉によってたたき落とされる。


「勉強をしなければ、いい大学に進学できない。いい大学に進学できなければ、いい会社に入れない。望んだ職業に就けない、夢も叶わない。取り立てて才能のない人間が夢を叶えるにはこれが一番良い方法。残念だけど、これが現代社会のシステムだから」


 癇に障る言い方だ。


「はいはい、建設的なご忠告痛み入るよ」


 心音グラフで表現するならば、まさにご臨終。左から右へ、一直線に伸びていくだろう声の強弱。


「分かったら、少し黙ってて」


「……へいへい」


 俺はほおづえをついて、黒板に向き直る。授業開始直後からページの変わらない古文の教科書にため息をこぼし、仕方なく教師に目を向ける。

 それがあだとなった。


「よし、佐々木、次読んでみろ」


 目が合ってしまったことを良いことに、教師はにっこりと笑って、俺を指名してきた。あの笑みは、俺が授業を聞いていなかったことを知っている笑みだ。

 くっ……不当な権力の行使に、俺は屈してしまうのか。


「どうした、佐々木。早く読まないか。それとも何か? 佐々木はこんなところなど読まなくとも分かるんだな。退屈そうにぼけっとしていられるんだから、当然だよな? ついでだから、口語訳も一緒に行ってもらえると先生助かるんだぞ?」


 意地が悪い古文教師が、にやついた笑いを浮かべている。

 もちろん、授業を聞いていなかった俺が教科書を読むことも、口語訳することも出来るはずなくて。

 俺は、クラスメイトの前で恥をかかされるしかない。数秒後に待つ、醜態に耐えるために唇を噛む。


「…………佐々木」


 嫌らしく言葉に強弱をつける古典教師のものではない、おそろしくフラットな声。風が吹けば今にも飛ばされていきそうな、静かな声が、俺の耳に入り込んだ。


「……あ、い、今読みます」


 俺は慌てて教科書をめくると、目的の箇所に目を止める。


「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし……」


 読み慣れない古文独特の文章に舌を噛みそうになる。

 ふと、視線を古文教師に向ければ、俺を馬鹿に出来なかった悔しさか、苦々しい顔をしているのが分かった。優越感に浸りたいところだが、もともと悪いのは授業を聞いていなかった俺なわけで。


「……その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし」


「……よし、いいだろう、座れ」


 発散できなかったストレスをため息にして、古典教師は俺を座らせた。怒りの矛先は、どうやら別の生徒に向かってしまったようで、ぽけぽけとした女の子がその犠牲となっていた。


「早坂、今のところの口語訳をしてみろ」


「あ、当たってしまいましたですぅ……」


 久しぶりに五体満足で登校している桐岡が、ほっと胸をなで下ろしているのが確認できた。どうやら、現在の授業内容を見失っていたらしい。慌てて『方丈記』のページを探していた。俺は、そんな二人の姿に苦笑いしながらも、隣に座るウメに声を掛ける。


「……ありがとな」


「別に。授業の進行が妨げられるのが嫌だっただけ」


 相変わらずの声と態度で、机の端に寄せたノートを手元に引き寄せる。ノートの左隅には小さく丁寧な文字で、ページ数が書かれている。俺は教科書をめくる間にちらりと視線を落とし、そのページ数を確認したのだ。


「……な、流れゆくぅ……河の水の流れはぁ……」


「おい、早坂! もっと語尾をきっちりと区切って読めんのか!」


 教師と早坂美緒のやりとりに、クラスメイト達が笑いをこらえていた。


「は、はわ〜っ! すみません……うう……流れゆくぅ……河の水の流れはぁ……」


「早坂! お前は日本語が通じないのか! いいか、先生がお手本を聞かせてやる。よく聞け。流れゆく、河の水の流れは……」


 一方のウメは、俺のカンニングに使った文字を消しゴムで消している。力の入れ過ぎか、ウメの小さい手で握られた消しゴムが、机の下に転がり落ちてしまった。


「あ……」


 ウメの細い声が聞こえるのと同時に、俺は消しゴムを素早く拾い上げると、ウメの机の上に置いてやる。ウメはしばらく、置かれた消しゴムと俺の顔を交互に見比べて、そして。


「……ありがと」


 何かを隠すようにしてそっぽを向いてしまった。耳たぶがほんのりと赤に染まっている。格好悪いと思っているのだろうか。それとも、人に説教した手前、ドジなところを見せるのが恥ずかしいのだろうか。どちらにせよ、これで俺の中のウメに対するいらだちは相殺されてしまった。

 男とは本当に単純な生き物だと、俺は自分の身をもって証明してしまったわけだ。我ながら、少し情けなくなる。


「……と、このように語尾をきっちり止めて音読するんだ。もう一度言ってみなさい」


 語尾を伸ばさずにきっちりと止めるという持論を一通り説明した古典教師が、同じように読めと促す。


「流れゆく……ぅ……河の水の流れは……ぁ」


 違うな、何か違うな。うん、絶対に違うぞ。これは、あれだ。しゃっくりを必死に我慢する感じだ。一言で言えば、苦し紛れ。時間差を利用しての苦し紛れだ。


「ふん、やれば出来るじゃないか」


「や、やっと終わりですぅ……」


「では、その調子で、もう一度最初からだ」


 残酷な一言。楽しいおもちゃを見つけたような教師の目。


「は、はじめから……はうぅ……」


 肩を落とす早坂美緒。その後方には、未だに目的のページを探し当てられない美緒係の桐岡がいた。彼は必死に現代文の教科書をめくっている。

 ……うん、多分この時間中には見つけられないな。


「どうした早くしろ、早坂!」


「……語尾を止める、語尾を止める語尾を止めるのですぅ……」


 どうやらイメージトレーニングをしているらしい。念仏のように自分に言い聞かせている。どこか頼りなさげなのは、良くも悪くも個性だ。


「……。……流れゆくぅ、河の水の流れはぁ」


 元に戻っていた。


「早坂ぁ!」


 教師の怒声が教室中に響くとともに、隣で座るウメがぼそりと一言。


「……間抜けな人」


 早坂美緒に向かってぼそり。


「歯に衣着せない言い方するな、お前は」


「奥歯に物が挟まるよりはマシだから」


 言い捨てて前を向く。俺を相手はしないという意思表示にも感じられる。


「ふ〜ん……歯牙にもかけないって感じだな」


「目には目を歯には歯をが私だから」


 いつの間にか『歯』の付く慣用句でパンチを打ち合う俺とウメ。


「あ〜……歯がゆい」


「歯止めがきかない」


 やっと見つけた歯のつく慣用句だが、即答で返されてまた俺の番。ウメの姿を横目に見ていたら頭にふと浮かんできた。黒板を見つめるウメの美しく澄んだ瞳と、口を開くと時折見える歯並びの綺麗な白い歯……。


「うん、明眸皓歯とはこのことかな」


「……」


 ウメがちらりと俺を見る。その瞳は訝しげだ。今更言葉の意味を思い出してももう遅い。


「い、今のは別に……お前のことを言ったわけじゃないぞ」


 歯の浮くような台詞を言ってしまった自分に恥ずかしくなる。


「知ってる。それに、はにかむような顔、面白かった」


 人の顔を面白いとは、失礼なやつだ。

 歯ぎしりする俺のすぐ横で、ウメは教科書とノートをぱたりと閉じる。授業の終わりまでまだ十分ほどあるが、彼女はどうやらこの状況が続いて、授業がつぶれてしまうと予想したのだろう。

 まぁ、事実そうなってしまったのだが。


「早坂ぁ!」


「は、はわ〜っ!」


 まだやっていたのか、早坂……。


 余談だが、桐岡は最後まで鴨長明を見つけられなかったとさ。


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