第十三話・「…………パパ」
「毎回、自問自答するんだ」
今にも崩れてきそうなぼろぼろのアパートが目の前にある。
さびた鉄製の階段を上ると、鉄らしい金槌で打つような硬質な音が、朝もやの中に消えていった。
「俺は今まで、人には言えない量のゲームをしてきたが……」
「人には言えないなら、口に出さないほうがいいと思うよ」
「お兄ちゃん……どうせ二次元のえっちなゲームだから人に言えないんだよ」
階段を上らずに二人仲良く立っている鹿岡兄妹が、二階の階段を上り終えた俺に鋭い言葉を投げかける。
大人な俺は、それを引きつった半笑いでやり過ごすと、一番奥の部屋へ。
ごみごみした通路には、部屋に収まりきらないゴミ袋や、車のタイヤが散乱していた。
ただでさえ狭い通路がタイヤで遮られているのだ。俺は潜入任務さながらの運動神経で、微妙な角度で積まれたタイヤとタイヤの間をぬって歩くしかない。
どれほどの車好きの住人なのだろうか。タイヤの数だけを数えれば、ゆうに車五台分はあるだろう。
……ちなみに、鹿岡兄妹が二階へ上がってこないはそのためである。
「仁ー、自問自答は終わりなのー?」
タイヤと格闘していた俺を見かねたのか、右手でメガホンを作った鹿岡兄が、朝に似つかわしくない声を上げる。
「お兄ちゃん、駄目だよっ! 今は風景描写中! 地の文と会話文のバランスは大事なの。冒頭できちんと説明しておかないと、物語がスムーズに進行しないんだから」
鹿岡義妹にたしなめられ、鹿岡兄は口を自らの手でふさいだ。
「ご、ごめん、真奈美……僕は、そんなことも分からずに」
「お兄ちゃん、次は気をつけてね?」
人差し指をメトロノームのように揺らしながら、ち、ち、ち、と軽く舌打ちをする。
「小説は、シミュレーションゲームと違って背景がないんだから。文章上から、色々なものを読み取らなくてはいけないんだよ。だから、世の中には間違った先入観とか、いわれのない勘違いとかを抱きがちなものがたくさんあるの!」
ない胸を張る鹿岡義妹。
「真奈美……なんか話が脱線してるように感じられるのは僕だけ……?」
なんだろう、階下のやりとりを見ていると朝から怒りが芽生えてくる。
最後に食べようと思って残しておいたショートケーキのイチゴを、口に入れる直前でかすめ取られたような気分だ。タイヤに囲まれているシュールな情景の中で、俺は足下に転がる、あるゴミを発見する。
「そう、だから真奈美は切に訴えるのっ! 真奈美の身体的特徴は、実はコンプレックスなどではなく――」
俺はゴミを拾い上げると、二人の真ん中を狙ってブーメランさながらに投擲した。くるくると見事な軌道を描き、それは鹿岡兄妹の眼前に軟着陸する。長方形、かつ硬質、直線的で、丸みもふくらみもない、薄っぺらで真っ平らな……。
「あ……まな板」
「真奈美はまな板じゃない!」
鹿岡兄が戦慄する。気がついたときには、時すでに遅し。
他意のない言葉を訂正する暇も、義妹は与えてはくれない。
短いスカートが風の抵抗を受けてふわりと膨らむ。深く腰を沈めて打ち出された義妹の正拳突きは、兄の制服をかすめていく。コンマ一秒反応が遅れていたら、危なかっただろう。風を切る一撃は、鹿岡兄の焦りを誘う。
「謀ったな! 仁!」
俺はにやりと笑う。
「さて、何のことだか」
俺のしてやったりの笑みに歯ぎしりをする鹿岡兄。だが、今は悔しがっていていいときではない。コンマ単位で襲いかかる必殺の一撃が、鹿岡兄の思考までをも貫いていく。
考える暇は皆無。考えるよりも早く、反応しなければならない。
――考えるな、感じろ。
鹿岡兄の集中する横顔がそう語っている。
「お兄ちゃんのっ、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ!」
一秒間に幾度となく繰り出される神速の拳。
髪の毛を切り裂き、飛び散った汗の雫を破裂させる。視界を両断し、風切り音は耳へ衝撃の余波を伝えた。
「意地悪! 唐変木! 朴念仁! 天の邪鬼!」
顔面へ繰り出され続ける目にも留まらぬジャブの応酬に、鹿岡兄は上半身を傾けるだけで精一杯のようだった。その上半身の動きを支えるのは、間違いなく鍛えられた下半身だ。
バランスよく鍛えられているから、上半身を生かすことが出来る。
鍛え上げた上半身があっても、それを支える下半身がなければ無意味なのだ。全身を使った格闘技ほど、それが顕著に表れる。
踏み鳴らされる大地。攻守を含めて刻み込まれる足跡は、それをよく証明している。
「分からず屋! ちんどん屋! 恥ずかしがり屋! 皮肉屋!」
このわずかな時間で、鹿岡兄が五感で得た情報とは。
視覚。拳をかすませる高速攻撃の映像。
聴覚。切り裂かれる度に断末魔をあげる空気の音。
味覚。極度のプレッシャーさらされ過ぎて、乾いてしまった口内の味。
嗅覚。戦ってはいけない。歴戦の強者だけが得られる勝敗の嗅覚。
触覚。鹿岡兄は、文字通り身を以て知ることになる。
「もう起こしてあげない!」
「うん……自分で起きれるし」
「うわあああああんっ!」
兄の淡泊な反応に、義妹号泣。
涙が頬を伝うよりも早く、鹿岡義妹の体が大地に吸い込まれる。地面に座り込んだのかと錯覚したが、そうではなかった。涙は上空に置き去りだ。砂埃を巻き込むように、背中を向けながら回転。鹿岡義妹の髪の毛が、そんな彼女に華麗に従う。一方の足をたたみ、もう一方の足は最大に。高速回転したしなやかな足が、刈り取るように鹿岡兄の足首を強襲した。
執拗な顔面への攻撃が、膠着状態への打開策。
つまり、布石。兄の意識を上半身へそらすための。
「真奈――」
妹の名前を呼ぶ兄の言葉の最初と最後は。
「――美!」
まさに希望から絶望へと変わるスイッチ。
足払いをまともに受けた鹿岡兄の苦痛の表情が、空中に投げ出される。大地から離れた体は、無防備な体勢のまま。
鹿岡兄は重力に身をゆだねるしかなかった。あるいは、目の前の義妹に。
時間が引き延ばされる。
朝の光にきらめく義妹の髪の毛が見えた。山の奥地で湧く清流のように美しい。制服のスカートは、遠心力を得て、菊の花のように可憐に咲き誇る。足払いの回転力をそのままに、さらに一回転。さらなる力を蓄える。奇妙なもので、フィギュアスケートのアクセルジャンプのように思えた。義妹は二回転目で体を起こし、十分な力を得た体の力を解放する。ジャンプが決まり、着地と同時に足を伸ばすフィギュアスケートの選手が、まさに目の前で勝負を決めようとする鹿岡義妹に重なって見えた。
最後に感じた触覚。
鹿岡兄が得た情報は、特大の痛みだったはずだ。
体を突き抜けるのではないかという衝撃。映像に遅れて、気持ちの悪い音が俺の耳に届く。
「……痛そうだな」
鹿岡兄の内蔵は大丈夫なのだろうか。
地面を滑っていき、生け垣に体を埋める鹿岡兄を見る。生け垣から足だけを出す格好で痙攣する鹿岡兄は、驚きを通り越して哀れすら誘う。
「きゃあっ! 大好きなあまり兄ちゃんを!」
愛情表現にも限度があるぞ、鹿岡義妹。
「……ま、とにかく」
日常の枠を越えた兄妹を堪能した俺は、際奥の部屋にたどり着き、チャイムに指を伸ばす。
「俺は人には言えない量のある種極端なゲームをしてきたが……」
薄汚れた表札には、山田の文字。
「普通、立場が逆じゃないのか? ……うん、間違いない」
自問自答、終了。
ぴんぽん。ぴんぽん。……チャイムを鳴らすが反応がない。何度か繰り返しても同様の反応しか示さないので、扉に耳をあてて、中の様子を探ってみる。
「生体反応なし」
腕を組んで思考すると同時に、左手首に巻かれた腕時計に視線を落とす。遅刻までは、もはや一分一秒を争う状況だ。なりふり構ってはいられない。
「ウメ、悪いが入るぞー」
ウメの部屋にはいつも鍵がかかっていないので、俺は一度大きな声を上げてからノブを回した。もちろん、声をかけてから数秒待った。声と同時に入って、着替え中の女の子とご対面……というベタなオチは、すでに幼馴染みで経験済みだ。まして、それほど仲の良くない女の子であるならば、それは当然のことだった。
俺は、時と場合と人を考えてのぞくことの出来る、非常に誠実な人物だからだ。
我ながら、紳士的で素晴らしい。
「ウメー、起きてるのか? 早くしないと遅刻だぞー」
朝だというのに真っ暗で、どんよりとしている室内。衛生的にも、印象的にも、絶対に好印象を与えないだろう。
「……ウメ?」
俺は靴を脱いで、一人暮しのキッチンを横切る。索敵しながら進む俺を客観的に考えると、初めて探索するダンジョンのようだった。宝箱を全てとってからでないと先へ進もうとしないゲーマーくらい、神経質になっている。
唐突に、足下で何かがうごめいた気がした。
「こ、これは……!」
真っ暗闇の室内に浮かび上がる白くぼんやりとした姿。床に広がる長い髪の毛が、真っ赤な血のように思えて不気味だった。
「……どこからどう見ても、ウメだな。今更驚くまでもなく……。おーい、ウメ。こんなところで寝てると風邪引くぞ。というか、起きろ」
玄関を開けると、そこには倒れた女の子。どこからどう見ても、事件発生としか思えない状況だが、俺は至って冷静だった。
……ウメの姿を見るまでは。
「こ、こいつ……!」
床に横たわるウメの肩を揺さぶろうとしたとき、俺は伸ばそうとした手を止めることしかできなかった。
「なんて格好で寝てるんだよ……」
座り込んで見てみれば、下着に、ワイシャツ一枚。細く小さな体躯を包みこむ、大人物の地味なワイシャツ。袖から手は出ておらず、袖の中程を握りしめて眠っている。第三ボタンから留められているせいか、首筋から、鎖骨、そして控えめな胸元、それを覆うフロントホックのブラ……と順を追って露わになっている。水滴を垂らせば、きめ細やかな肌の張りに勢いよく滑り落ちていきそうだ。
良くないと分かっていながらも、そんな俺の視線も滑り落ちる。
ボタンで止められているのは、第三、第四ボタンの二カ所のみで、残りは止められていない。つまり、脂肪のないお腹すら丸見えであるわけで。さらに付け加えさせてもらえば、シャツ一枚を羽織っただけなので、下半身にまとうのは純白の……純白の下着のみ。真っ白な肌にまとうのは、ほとんど無地の色気も全くない下着。それはそれで、今時見かけない無垢な白さを感じられる。
汚れ一つ無い、太ももからふくらはぎのなだらかなラインは、闇夜に光る刀の切っ先のように鮮やかに目に飛び込んでくる。
触れたらきっと柔らかいだろうと思える反面、すぐに跳ね返してくるような弾力を持っているに違いない。
……と、こうしてじっくりと眺めてしまったわけだが、視姦……もとい、観察されている本人は全く動きを見せない。
「おい、ウメ」
肩を揺り動かそうとするが、あまりの無防備な姿に、俺は触れるのをためらってしまう。下手に意識をしないほうがいいのだが、一度意識してしまったものは仕方がない。
「あんまり起きないと、いたずらするぞ」
うん、今のは我ながら犯罪に近いな。
「……でも、出来そうにないな」
犯罪的な言葉を言ってみて、それがよく分かった。
目の前に、食べてください、といわんばかりの姿で横たわるウメの姿を見ても、欲情一つ覚えないのだ。
小柄で、童顔で、無愛想な同級生が、大人の魅力に欠けるから。
そんなありきたりな理由を思い浮かべてみるけれども、顔の作りは天下一品なのだ。普通の男なら、欲情して当然だろう。
考えてみれば、ウメは今時なかなか見かけない、いにしえの美しさをもっている。
――深窓の佳人。つまりは身分違いで、大切に育てられ、世の汚れに染まらない美女。
未発達な体であるが故に、その美しさは一層際だつ。大人になるにつれて、失われていく純真さや、体の細さが、まるで時を止めたようにここに存在しているのだ。
世の中の汚さを知らないような天使の寝顔。
起きれば無愛想の固まりなのに、眠っている今だけは、不思議と安らかだった。
考えたくないが、俺の男性機能が退化してしまったのだろうか。若い身空で抱えたくない切実な悩みに、俺は慌ててウメを凝視してみる。安らかな寝顔を見、ワイシャツからのぞく胸元を見、すらりと伸びた足下を視線でなめてみる。
警察官が職務質問をしてきたら迷わず、私は犯罪者です、と答えることを胸に誓ったうえで、ウメを見つめ続ける。
……けれど、それでもだめだった。
美しさや、はかなさを感じることが出来ても、欲望を感じることはなかった。俺は大きなため息をついて、その場を立ち去ろうとした。……この際、ウメのことはあきらめてさっさと学校へ行こう。
嫌われるなら嫌われるでいい。
嫌われていた方が、はっきりしていて気分も楽というものだ。起こしに来るという日課が始まったのも、まだ三日目だ。今なら、三日坊主で片が付く。
「悪いなウメ」
俺は立ち上がって、ウメに背中を向けた。右足を踏み出して、左足を前へ。
……けれど、左足は釘に打ち付けられたように動かなかった。何かに引っかかったのかと思って振り返れば、眠ったままのウメが俺のズボンの裾をつかんでいる。起きている様子はないから、寝ぼけているのだろう。
「……ったく」
俺は再度座り込んで、ウメの手をほどこうとする。
「…………ぱ」
小さな寝言。ウメの手に触れたところで俺は動きを止めた。
俺の手がウメに触れるやいなや、つかんでいた裾を離し、俺の手を握りしめてきた。眠っているとは思えないぐらい、力強い握力。決して離してはならないと、夢の中で思っているのだろうか。聞き取れなかった寝言が、ウメにどういった感情を抱かせているのか、すぐには理解できなかった。
「…………パパ」
胸がつぶれるかと思った。俺は無意識のうちにウメの手を強すぎるくらいに握りしめていた。
「パパって何だよ、パパってさ……こんなに若い奴を捕まえて」
ウメの目尻で信じられないものが輝いている。大粒で、透き通ったそれ。
たとえるなら、夜空の中心を飾る北極星。
たとえるなら、一カラットのダイヤモンド。
たとえるなら……佳乃の笑顔のような。
「くそ……朝からかよ……」
胸の奥でため込んで、ずっと我慢してきたものが、不意に飛び出してきて俺を襲う。
寂しさや、悲しさ、辛さが、一緒くたになった、薄汚れた感情の波。
――絶望。
黒い服を着た友人達や、先生方、家族の姿が脳裏を横切る。
いつも見ていた幼馴染みの笑顔が、数え切れない花束の真ん中に飾られている光景。その光景が信じられなくて、写真とにらめっこをしてしまった滑稽な自分。これは現実ではなくて、にらめっこをし続ければ、そのうち彼女の方から負けを認めて笑ってくれるんじゃないかって。
無表情でにらみ続けて、眺め続けて、ずっとずっと見続けて。
でも、結局、俺の負け。
勝算なんかはじめからなかった。写真とにらめっこをしたって勝てるはずないって事ぐらい分かっていたんだ。それでも、俺は見続けた。涙を流すことすらしないで。感情を腹の奥にしまい込んだんだ。
「大丈夫さ……耐えられる」
腹部に力を入れて精神を集中させる。外側からドアを押し込んで、内にとどめる。今にも飛び出してきそうな濁流をせき止める。
大丈夫だ。俺は大丈夫。今回も、耐えることが出来た。
「……ったく、お前のせいだぞ」
ウメの手をゆっくりとほどくと、大きく二回深呼吸をした。
胸の奥に追いやった絶望は、これでしばらくは出てこないはずだった。けれど油断は大敵。またいつどこで襲ってくるかもしれない。
「俺は怒った。やっぱり、いたずらしてやる」
俺は眠り姫に手を伸ばすと、第二ボタンの向こうにあるフロントホックのやや上に触れてみた。
そこには、かつて俺のそばにいた、かけがえのない少女がいる。
とくん、とくん、とくん、とくん……。
「今日も元気そうだな、佳乃」
少女がウメの中で元気に跳ね回っていた。
ふいに顔がほころんでしまう。
「……んっ……佐々木……?」
やっとお目覚めのようだった。慌てて手を引っ込める事もしない。それは、決して犯罪行為に慣れっこだととか、そういった類のものではない。
「佳乃は今日も元気そうだな」
「私、まだ生きてるから」
予想していたとおりの無愛想な声で、ウメが応じる。俺に胸を触られているのを気にもせずに、ゆっくりと立ち上がる。
「ウメ、いい加減遅刻だぞ」
「……ごめんなさい」
心のこもっていない言葉だ。ただ、それはあくまで俺の主観によるもので、ウメ自身は心を込めているのかもしれなかった。いつでも、どんなときでも平板な声だから、感情の大小は全く読み取れないのだ。
「外で鹿岡兄妹も待ってるんだぞ」
腰に手を当てて不満顔を見せつけてやる。
「私、迎えに来てなんて言ってない」
俺に背中を向けて着替え始める。
「お前な……そういうこと言うなよ。願わずに来てくれるだけでも、ありがたいってもんだろ。むしろ俺の立場を考えてみろ。普通、立場が逆だぞ。『仁君……起きて、ねぇ、起きてってば!』って、優しく起こしてくれるのが、スタンダードってもんだ」
ウメは、上半身を覆っていたワイシャツを脱ぐと、真っ白で一本線の通った美しい背中が披露される……って。
「お、お前……ウメ!」
悠長に情景描写をしている場合ではなかった。
「私、着替えてるの。邪魔しないで」
その声はやっぱりフラットで、感情の起伏は見られなかった。羞恥心はおろか、慌てることさえ知らない。俺の制止も何のその。背中を向けたまま、フロントホックのブラすらためらいもなく外し、上半身にはまとうものをなくした。
綺麗だな、と思う一方で、そこには何の劣情も感じなかった。美術館で絵画を眺めるようなものに近い事に気がつく。
「外で待ってるぞ」
やはり高ぶらない欲望の心に落胆しながら、俺はあきらめて外へ出て行くのだった。
「分かった」
その声にも、やはり抑揚はなかった。




