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第十一話・「いい加減にしろよ!」

 朝のホームルーム。遅刻してしまった俺を美緒のぽけぽけした声が出迎えた。


「転校生らしいですぅ」


「転校生?」


 俺の台詞を奪った鹿岡兄が、肩越しに美緒に問いかけた。


「朝からその話題でもちきりなんですぅ」


 教室を見渡すと、確かにどの生徒もそわそわしている。左右の生徒、あるいは前後の生徒同士で、転校生の話題に花を咲かせていた。田中はでかい図体をのけぞらせて、後ろの生徒と鼻息荒く話し込んでいる。だが、ある男が足りないのに気がついて、俺はぽけぽけ少女に向き直った。


「ところで桐岡が見えないようだけど……まさか、またなの?」


 俺の台詞が二度、鹿岡兄にかすめ取られた。


「そのまさかなのですぅ……桐岡くんは、今日もお休みなんですぅ……」


 寂しそうな美緒。どうやら、桐岡は先日の女子調理実習時に作ったクッキーにやられて、まだ立ち上がれないでいるらしい。その原因を作ったぽけぽけ少女は、無垢に桐岡を心配している。自覚がないその天然さが、時に恐ろしく思える。


「はわっ、先生が来たみたいですよぉっ!」


 教室の扉が勢いよく開く音が聞こえて、俺たちは慌てて着席した。教室内を埋め尽くしていた喧騒も、とたんに静まり返る。


「あー……みんな知ってるようだから、改めて言うのもなんだが……ま、とにかく、転校生だ」


 俺は一番後ろの席に座りながら、前列の男子生徒が盛り上がっているのを他人事のように眺める。

 頬杖をついて外を眺めれば、大きな雲がゆっくりと窓の外を流れていく。俺の席の隣は空席で、誰も座ることはない。四十九日、花瓶がそこに飾られていたことを思い出す。


「転校生は、女だ」


 先生の言葉に、男子生徒が唇を尖らせて口笛を吹いた。頭の上で両手をたたいて喜ぶ者もいる。まだ美人だと決まったわけでもないのに狂喜乱舞しているところを見ると、よほど女に飢えているのかと勘ぐりたくなる。


「先生! 質問です! その子は美人ですか?」


 授業中には見たことのない速度で手が挙がる。先生はもったいぶったように教卓に両手をついて、教室中を見渡した。


「はっきり言うぞ」


 大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。


「転校生は――」


 教室中が唾液を飲み込むのが分かった。


「美少女だ」


 瞬間、教室中が興奮のるつぼと化した。九回裏ツーアウトから三点差を跳ね返す逆転満塁ホームランを打ったかのような地鳴りだった。教室にあふれていた男――あえてオスと言ったほうがいいか――が雄叫びを上げた。


「じゃ、そろそろ自己紹介をしてもらおうか。おい、入ってきていいぞ」


 教室の扉が開くと同時に、再び教室が静まり返った。こういうときの協調性には、正直、目を見張るものがある。

 開かれた扉から現れる小柄な体躯。


「……あっ!」


 間抜けな声は俺のものだった。

 入室してきた転校生は、気品すら漂わせた歩みで、きびきびと教卓の横まで歩いていく。男子生徒は歓声を上げることすら忘れ、女子生徒は少女の西洋の人形のような姿に息を呑む。あまりにも小柄で、あまりにも童顔で、あまりにも場に不釣合いな少女は、笑うことも微笑むこともなく、教室を一瞥した。


「そ、それじゃ、自己紹介を頼む」


 先生すらも、どこかその高貴な風に当てられたのだろうか。少女に話しかけられたら、今にもしどろもどろになりそうだ。


「山田ウメです。よろしくお願いします」


 完全に名前負けしている。四球も許さぬ完封負け。せめて伊集院とか音無とか、平等院とか鳳凰堂とかそんな豪奢な名前だったらいいのに……と思ったのは俺だけではないだろう。


「山田さんは、最近まで重い病気を患っていて、ずっと入院していた身だ。体調の面もあって、みんなと同じようにはいかないだろうから、その点はフォローしてやってくれ。頼んだぞ」


 誰もがあっけに取られたまま。あらかじめ知っていた先生だけが、冷静に少女の座る席を指示する。少女はそれにわずかにうなずくと、何事もなかったのかのように机と机の間を闊歩していく。

 髪の毛がふわりと舞い、少女の歩みに従う姿は、まるで草原を駆ける白馬を連想させる。

 教室に存在する人間すべてが、少女を中心にして首を回転させている。ひまわりで言うところの太陽のような少女は、やがて俺の隣の席に腰掛けた。


 ――その席に座るな。


 腰を浮かしかけた俺の動きが、止まっていた。

 半年前ならば、確実に激昂していたであろう。

 しかし、俺は無我夢中になることもなく、怒ることはすれ、声に出すことはない。腰を浮かすことはすれ、立ち上がることはしない。

 先生に座るよう言われたのだから仕方がない。そう自分の中で納得してしまえる俺がいた。


「……教科書、見せて」


 無表情なまま席に着いた少女が、俺を見上げている。見下すわけでもなく、馬鹿にするわけでもなく、ただ無感情に俺を見上げる。俺は浮かしかけた腰をイスに落ち着けて、一時間目の授業で使う教科書を机の中から取り出した。

 ちら、と少女を見れば、小さな体を使って自分の机を俺の机に寄せようとしている。机を持ち上げることがとてもすごいことだと感心してしまうほど、少女の小柄さは際立っていた。机から教科書を出す状態のまま停止している俺をいぶかしげに思ったのか、少女は俺を見つめてくる。俺はその小柄な体に注視していたのが災いして、少女に見つめられているのに気がつくのに遅れてしまう。

 そのわずかなタイムラグののち、俺は少女と視線が重なる。


 ――少女の顔が、一瞬のうちに燃え上がった。


 のどを詰まらせると真っ赤になる、というが、それを上回る急騰ぶりだった。


「ど、どうした?」


 俺もつられて赤くなってしまい、慌てて視線をそらす。機械のように冷たく、それでいて怜悧にも思えた少女が、一瞬にして人間味を帯びるさまに、俺はある種の感激を覚えた。


「……分からない」


 少女は自分でも不思議だ、とでも言うように自らの頬に手をあてがった。白い頬が仄かな赤に染まっているのを実感しているのか、少女は少しだけ驚いた表情をしている。


「あなたの顔を見たら、熱くなった」


 少女はこともなげに言う。


「風邪?」


 目をあわすことができない。


「違う」


「た、体調が悪いなら、保健室に行ったほうがいいぞ。転校してきたばかりなんだ、不慣れないこともあるだろ? 万が一ってこともあるしだな……それから……」


 頭が暴走していた。次から次へと、身勝手にこぼれ落ちる言葉の数々。


「大丈夫」


 俺の一方的な会話はそこで一刀両断された。冷徹な一言が、俺の真っ赤な顔を冷やしていく。抑揚も、感情もない、平板な声。


「ま、なんだ……俺は佐々木仁。佐々木とでも仁とでも呼んでくれ」


 沈んでいく心をせき止めるように、俺は慌てて自己紹介をしていた。


「仁…………君?」


 熱に浮かされるように口走った少女。

 次の瞬間、我に返った少女は、信じられないといった風に、自らの口を押さえて、立ち上がった。椅子が倒れ、その音で教室中が静まり返る。すべての視線が、俺と少女の間を行ったりきたりしていた。

 非難が俺に集まる雰囲気を感じて、俺は必死に首を横に振る。

ただ自己紹介しただけだぞ? 本当だぞ?


「保健室、行くから」


 少女はそれだけ言い残して、教室を出て行った。

 少しだけ小走りになる少女の背中で踊る長髪。きらきらと清流のように輝く少女の髪が、最後まで少女の表情を隠していた。




「だから、俺は何もしてないんだよ」


 昼休みになっても戻ってこない小柄な少女のせいで、俺はよからぬ容疑をかけられている。


「本当なの? 気に触るようなことを言ったんじゃないの?」


 鹿岡兄が俺の肩を揺り動かす。


「義妹をたぶらかす鬼畜な鹿岡君と違ってぇ、佐々木君はそんなこと言わないですよぉ」


 ぽけぽけしているだけに、その言葉は鹿岡に少なからずダメージを与えたようだった。

 結局、俺は容疑を晴らせないまま、床にうなだれる鹿岡兄を置き去りにして、昼休みの教室を抜け出していた。





 昼休みの屋上は、思っていたとおり誰もいなかった。空気も冷たく、風も少なからずある。寒さに凍えながら弁当を食べようとする奇特な人間は、この学校にはいないということだ。

 屋上のベンチに腰掛けながら、特大のため息を足元に落とす。

 考えないようにしていた事柄が、脳味噌の奥から押し寄せてくる。

 大きく、高くそびえたそれは、津波のように俺を飲み込んでいく。俺は濁流に呑まれて息もできない。呼吸もできなくなり、俺は胸が締め付けられたように苦しくなる。

 握りつぶされ、圧縮され、搾り取られた残りかす。心の残滓。それを巻き込んで膨れ上がっていく、悲哀。

 寒風が俺の身を切り、体を、心を震わせる。

 自分を抱きしめるようにして、俺はベンチに座りながらうずくまった。


 ……佳乃がたまらなく恋しかった。


 恋しくて、愛しくてたまらなかった。身が張り裂けそうだった。


「……なんで、佳乃がいないんだよ」


 佳乃の存在しない日常に、慣れたと思っていた。時間が悲しみを払拭してくれると思っていた。


「……佳乃……っ!」


 悲嘆にくれていた俺に鹿岡兄は優しく声をかけてくれ、一緒に登校することを勧めてくれた。泣き晴らした鹿岡義妹の恨みのこもった目。真っ赤な目が俺の心を痛めつけた。


 ――お姉さまを返して!


 そう言われたりもした。

 でも、義妹はどこかでそれをお門違いだと分かってもいて、後日俺に謝罪してきた。人目をはばからず泣いた鹿岡義妹の涙が、俺の胸を熱くさせた。

 葬式の日、普段からぽけぽけした早坂美緒が、大粒の涙をぽたぽたとたらしている印象的な姿は、今でも俺の脳裏に焼きついて離れない。新聞部の皆川亜矢子は、新聞記者を目指しているくせに、事実を文章にすることが出来ず、最後まで記事ノートを涙でぐしょぐしょにしていたし、レスリング部の田中は、巨体の割に涙腺は弱いようで、近所にも響き渡る大声で号泣していた。美緒と仲の良い桐岡も、度々背中を向けては隠れて涙を拭い、気丈な姿で振り返ったと思えば、また涙ぐんで背中を向けていた。

 クラスの誰もが涙し、肩を抱き、献花をするさまを見て、俺は改めて佳乃がどれだけの人に愛されていたのかを知った。

 佳乃の両親が、俺に身体を預けるように泣いていたときのことを思い出す。

 俺はといえば、自分ではどうすることもできない、哀切、後悔、怨嗟を身のうちに溜め込んでいて、今にも爆発しそうだった。それでも俺は、自分でも驚くくらいの忍耐強さを発揮して、佳乃の両親の涙をぬぐってあげた。

 自分の涙が流れていないことを不思議に思う一方で、俺は心の奥に広がる、どうしようもない絶望とこれからも付き合っていくんだな、とあきらめかけてもいた。


 ……時間が流れるのは早い。


 気がつけば、一年が経とうとしていて、俺は笑えるようになった。悲しみにも慣れ始め、冗談も言えるようになった。

 人は慣れる動物だ、と誰かが言ったが、その通りだと思った。

 しかし、一年が経とうとしている今でも、絶望は今もしっかりと俺の腹の奥に鎮座していて、不意に力を発揮させたりする。

 トイレに入ったときとか、古文の授業を聞いているとき、ゲームをしているとき、レベルアップした直後、アニメのエンディングテーマが流れているとき……前触れもなく俺を襲う。

 俺はそんな不意の悲しみが訪れると、腹部に力を加えて我慢する。目をつぶり、悲しみを内部に押しやるのだ。


 ……大丈夫。涙は出ない。我慢できる。


 俺は念じながら、腹部に力を入れ続ける。

 俺を心配する視線や同情が、やっとなくなってきたんだ。日常が戻ってきたんだ。せっかく立ち直りかけたクラスの雰囲気を、また四十九日のときのように戻すわけにはいかない。

 引いていく絶望の波を感じて、俺は安堵する。


 ――今回も耐えることができた。俺は、大丈夫。


「なにしてるの」


 誰もいないはずの屋上から聞こえてきた声に驚かされる。声のした方向を見れば、あらぬ容疑をかけられる原因を作った少女が、ぽつねんと立っていた。風に揺れる黒髪が、マントのようになびいている。


「泣いてるの?」


「なっ……!」


 俺は慌てて目元に指を持っていくが、涙の痕跡は見つからない。


「て、適当なこと言うなよ」


 悪態をつく俺に、少女はやはり無表情。嘲笑することもなく、ただ幽霊のように立っているだけ。


「泣いているように、見えたの」


「いつからそこにいたんだよ」


「最初から、いた」


 フラットな発音。リズムのない小さな声は、風に簡単に連れ去られてしまいそうだ。


「そっか、最初からか……ははは」


 むなしく笑う俺に、少しだけ少女は気の毒そうに眉を下げた。どうやら、完全に表情がないというわけではないらしい。


「情けない顔」


 日本刀の切っ先を首元に突きつけるような言い方に、俺は眉根を寄せる。


「でも」


 少女の言葉には続きがあった。


「ほおっておけないって」


「誰かがそう言っていたのかな?」


 同い年に見えない少女の容姿に、どこか年下に話しかけるような口調になってしまう。

 少女はそれを失礼だとは思わなかったようで、やはり平板な声で俺の問いに答える。失礼とは思わなかったようで……とはいったが、表情に乏しいから、気に障っているのかも分からない。


「……彼女がそう言ったの」


「彼女?」


 屋上にこれまでにない強風が吹き荒れた。

 少女の小さい体が今にも吹き飛ばされそうなほど、強い風。少女の髪が右から左に流れ、小さな口を隠す。短いスカートは国旗のようにはためき、中の下着をあらわにさせた。

 それでも、少女は微動だにしない。

 なにか強大な力によって、その場に押しとどめられているように思えた。


「……佳乃が、そう言った気がしたの」


 刹那、俺の体から熱いものがこみ上げてくる。

 憤怒、悲哀、そして絶望。

 それらが熱い奔流となって染み出してきた。


「そんなわけないだろ! 佳乃は……!」


 命を落とした。

 俺の目の前で、俺の不注意によって。

 己の命を賭して、俺をかばって。

 悔しさが、己の無力さが感情を決壊させる。


「佳乃は生きてる」


「ふざけるなよ! 言っていいことと悪いことがある!」


 侮辱された気がした。自分の愛するものを辱められた気がした。

 頭の中が真っ白になる。

 俺は少女に詰め寄って、俺はその小さな肩をつかんだ。

 男ならば殴りつけていたところだ。少女のその感情のない言葉が、俺を最後の一線で押しとどめているに過ぎない。その一線さえも越えれば、俺は少女に対して何をしでかすか分からなかった。


「佳乃は生きてる」


「いい加減にしろ……」


「私にはそれが分かる」


「いい加減にしろよ!」


「彼女は生きてる」


 少女は繰り返した。


「……私の中で」


 少女は鬼気迫る俺に表情一つ変えず、自らの小さな胸を押さえた。


「佳乃は私。私は佳乃」


 差し込まれた鍵が、錠を開ける音。俺の中で何かが氷解していった。


 ――佳乃がいつも肌身離さず持っていたドナーカード。


 常に誰かに生かされ続けているのだと。誰かの死の上に、自分の生があるのだと。

 そんなコンプレックスを抱き続けていた佳乃。そんな佳乃が、いつか誰かのために何かしてあげられたら……と献身的に考えていたことは言うまでもない。最高の幼馴染としての奉仕的な態度がまさにそれだ。


 ……佳乃の臓器が誰かに移植されたことは知っていた。


 けれども、その移植先が家族に知らされることはない。提供者は、被提供者の情報をどんな些細なことでも知ることはできないのだ。それは、移植されないまま死を迎える人々対する配慮。そのため、移植は境遇その他に関係なく、完全にランダムで選出される。

 なぜ移植してくれない。こんなにも不幸なのに。時間もないのに。お金はいくらでも払うから。人間として優れているのに。

 もし、配慮なく情報が伝われば必ずそういったことになる。

 それを踏まえ、移植手術には徹底した守秘義務が課せられている。

 ただ……移植された人間には、ごくまれにある症例が襲う。


「佳乃は私の中で生きてる」


 移植手術成功の後、急に味覚が変わったり、見知らぬ記憶が刷り込まれていたり、自分ではない人間の痕跡が残っていたりする。


「君は……」


「私は、山田ウメ」


 ウメは感情のない声で名前を告げると、その冷たい腕で俺を抱きしめた。膝をつく俺を胸に抱く。小さな胸はそれでも女らしい柔らかさがあり、俺はその柔らかさの中に身を預ける。膝をつく俺は、ちょうどウメの胸の位置。ウメの身長の低さが感じられて、俺は少しだけ可笑しくなった。


「佳乃の音」


 ウメは俺の顔を横に向ける。


「佳乃がくれた音」


 俺の頭をがっちりと固定して、恥ずかしげもなく自らの心臓の位置へ。俺の耳がウメの小柄な乳房の奥にある、鼓動を探り当てる。


 ……とくん、とくん。とくん、とくん。とくとく、とくとく。


 元気よく、まるで駆け回るように、それは速度を増していった。

 目をつぶる俺のまぶたに、幻想的な景色が浮かぶ。

 見渡す限りの大平原。モンゴルで見ることのできる広大な地平線もかすむような、大平原。

 その青一色の広大な平野を、猛スピードで駆けていく黒く逞しい馬群。たてがみをなびかせながら、平原を横切っていく。

 風は穏やかに草原を吹いていき、草花をそよそよと揺らす。太陽が雲間から顔を出し、神々しいまでの直線が、真っ青な平原を切り取っていく。

 その光の袂で、一人の少女が背中を向けて座っている。何かに気がついたように少女は立ち上がり、振り向く。白いワンピースに麦わら帽子。その小さな胸に大事そうに、本当に大事そうに抱いたものをゆっくりと差し出す。

 小さな両手に握り締められていたのは、大事に抱えていたものは。

 

 ――命。


 息づいている、懸命に生きようとしている。

 生きたい、生きていたい。

 そう必死に叫んでいる。


「ウメは佳乃を知らない。でも、佐々木は佳乃を知ってる」


 佐々木、そう呼んでくれる目の前の少女が、なぜか懐かしく感じられる。

 それが紛れもない錯覚だとしても、俺は思い込む。

 これは、きっと出会いなんかではなく、再会なんだと。

 どんな奇跡があって、どんな偶然が重なって、もう一度佳乃と出会うことができたのだろう。その確率はほとんどゼロといってもいい。

 でも、俺は再びめぐり合うことができた。


「佳乃のこと、知りたい」


 揺らぐことのない無感情の声が降ってくる。


「佐々木と目が会うたびに、急に赤くなるの、迷惑だから」


 俺を抱きしめたまま、ウメはぶっきらぼうに言い捨てる。冷たく感じられたウメの両手が、いつしか温かくなっていた。それは、佳乃がそうさせているのだろうか。


 ――仁君、格好悪いね。


 飽くことなく、心臓の音を聞き続ける。


 ――仁、格好悪いわよ。


 とくとく、とくとく。

 可愛らしく控えめな音が、俺に語りかけた気がした。


「佐々木、不細工」


「うるせぇ……」


 ウメは少しだけ抱きしめる力を強くしてくれる。

 同情なのか、佳乃の意思なのかは分からない。

 でも、その無感情な優しさに、少しだけ心が弾むのが分かった。

 腹の奥に溜まった絶望が、わずかに身を震わせる。消えることはなく、機をうかがうように身を固めてじっとしていた。……今は、それでいい。今はそれよりも重要なものがあるのだから。


「ウメ」


「何?」


 幼馴染で、ツンデレで。それを宿すウメはクーデレで。


「……会いたかった……」


「私は別に」


 少しだけ感情のこもった悪戯な声。ウメの声。俺は笑うことすらできず、頭の中でどう突っ込んだものか考える。


「…………佳乃……」


 俺の大好きな人は。


 ――多重人格な彼女。


 でも、今はこの音だけを聞いていたいんだ。

 鼓膜を振わす優しい鐘の音。


 とくとく、とくとく。

 とくとく、とくとく……。



 ……後に俺が知る、終わりの始まりの音。


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