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第九話・「ごめんなさい」

 最後の日曜日。


 俺は不思議なことに、前日と全く同じ時間に目が覚めた。

 毎日毎日、佳乃に起こされるような寝坊の常習犯だった俺が、どうしてこんな時に限ってきっちりと起きることが出来るのだろうか。それだけ、この二日という時間の重みを身をもって感じているのだろう。

 俺はベッドから体を起こし、床に無造作に脱ぎ捨てられたジャケットとダメージ加工の施してあるジーンズを見下ろす。

 ブランドにもデザインにも気をつかっていない、機能的なだけの上下には、佳乃の涙と香りが染みこんでいた。


 ――答えてよ!


 胸に刺さったとげが、いよいよ取り出せないところまで潜り込んできた。継続的に俺をさいなむ疼痛。

 コメディで彩られていた日常が、ひどく懐かしく感じられる。

 萌えるとか、ツンデレとか、クーデレとか、ヤンデレとか……鋳型にはめ込まれた特徴を持つキャラクターが、画面の向こうでどたばたと騒動を繰り広げている。

 いつもは食い入るように見つめるアニメが、ひどくつまらなく思えた。壁に貼ってある美少女ゲームのヒロインが常に俺に笑いかけても、俺はそれに笑い返すことすら出来ない。


 ――仁君は、どうしていつもみたいに笑ってくれないの?


 佳乃、いつもの俺はどんな風に笑っていたんだ……? 

 心の底からの笑みってなんなんだよ。知らないうちに俺は、笑い方を忘れてしまったみたいだ。それこそ、アニメによくあるキャラクターみたいに。

 あのとき、俺はどんな表情をしたらいいのか分からなかった。


 ――どうして、そんな悲しい顔をするの……?


 俺はそんな顔をしていたのか?

 どんな顔をしたらいいのか逡巡していた俺が、そんなに悲しそうな顔をしていたっていうのか?

 答えて欲しいのは俺の方だ。

 上下を拾い上げて出かける準備をする。最後に、机に置いてある鏡の前で顔の筋肉をほぐして、笑顔の練習をしてみた。某ファーストフード店のアルバイトみたいにきちんとした笑顔は作れてはいないが、十分及第点を与えられる笑顔だ。


「……笑えるじゃないか、俺……」


 自己採点をすませて、俺は自室の扉を開いた。

 泣いても笑っても、今日が最後の一日なのだ。

 ……が、その中で、ただ一つ確定的なことがある。多分、俺はどちらに転んでも辛い思いをするだろうということ。笑うことは出来ないだろうということ。

 いっそのこと、ゲームのように今の状態、この時点でセーブして、二つある選択肢のうちどちらも選ぶということができたなら。


『幼馴染みの佳乃を選ぶ』

『ツンデレの佳乃を選ぶ』


 そんなことが出来たらどんなに心が楽になるだろう。一つの結末にたどり着いたら、セーブしたところからやり直して、未選択の選択肢を選ぶ。最後にはどちらの笑顔も見ることが出来るし、後悔もきっと少なくてすむ。


「世界最高の馬鹿だな、俺は……」


 現実に非現実を持ち込んでいる自分自身が、ひどく滑稽に思えてしかたがなかった。




 待ち合わせ時間を十分ほど過ぎた頃、昨日と全く同じ姿をした佳乃が待ち合わせ場所に現れた。

 昨日と同じ服装といっても、佳乃の人格が違えば、その印象はがらりと変わる。幼馴染みの佳乃にとっては背伸びをした服装でも、ツンデレの佳乃にとっては相応の服装に感じられた。

 自信のみなぎった大股の歩みは、パリコレクションで流行の最先端を身にまとうモデルのようだ。気後れした様子もなく、視線を一心に浴びて、颯爽と俺に近づく。


「悪いわね。待たされるのは嫌だったから、遅れて出てきたの」


 悪い、と言いながら全く悪びれた様子はない。


「別に、それほど待ってないよ」


 鏡に映した自分の顔をイメージする。及第点の笑顔。頬の筋肉、目尻、眉、それぞれの動きを寸分の狂いなく重ね合わせる。


「あっそ、で、どこ行くの?」


 腕を組んだまま、人差し指で自分の腕をとんとんとたたく。佳乃が少しだけいらだっているように思えた。


「佳乃の記憶を共有しているんだろ? 聞くまでもないだろ、そんなこと」


 一瞬だけ、唇を引き結んだ佳乃の表情が険しくなるが、それはすぐに消え去った。


「今回は共有してないの。そんなことしたらアンフェアでしょ?」


 人差し指をたてて、得意げに俺に説明する。


「便利なんだな」


 俺は昨日と同じように、映画館のチケットを胸ポケットから取り出して、佳乃に差し出す。


「映画館……鉄板ね」


 ――それってデートの王道だよ。


 俺は胸が急激に収縮して、一気に爆発する感覚を覚えた。目の前が、雪原のように真っ白になり、なにも考えられなくなりそうになった。宇宙創生期、つまり、ビックバンのような爆発的な高鳴りだった。

 どうして幼馴染みの佳乃の言葉が頭に浮かんだのか。

 その訳を考えることも出来ずに、俺はうずくまりたい衝動に駆られていた。


「……どうかしたの?」


 佳乃が腰に手を当てながら、のぞき込んでくる。だから俺は悟られまいと顔をそらし、胸に左手を当てた。うずくまりたい衝動は、必死に押し殺す。

 心臓はいつまでも伸縮を繰り返すと思えたが、やがて収束していった。


「あ、言い忘れてたけどさ。昨日、佳乃と観た映画と同じじゃないんだけど……」


 俺は努めて平静を装った。今日は、幼馴染みの佳乃のためにある日ではない。今日は、もう一人の佳乃のためにある日だ。

 ツンデレ佳乃の言葉を借りれば、今日という日に、幼馴染み佳乃のことを考えるのはアンフェアだと思った。


「別にいいわよ。仁も、同じ映画を二日連続で観るのはつらいでしょ」


 素直な佳乃の返事に俺は安堵する。ここで駄々をこねられたら、デートは頓挫してしまうところだったのだ。無計画なデートほど、バラエティに富まないものはないと、俺は昨日のデートで知った。サプライズと前向きに考えても、結局それは行き当たりばったり。たいまつを持たないで、洞窟にはいるようなものだ。


「にしても、仁……デートだっていうのに、冴えないのね」


 遠巻きに眺めながら、両手の親指と人差し指で作ったフォトフレームに俺を納める。


「見てみなさいよ。佳乃なんて、普段こんな服着ないのに背伸びしちゃって。香水だって、アクセサリーだって、パンプスだって……結構高いのよ、これ」


 自らの着る黒いチュニックをつまんで見せる。


「それに下着だっていつ脱いでもかまわないように、勝負ものだし」


 爆弾発言だ。


「なかなかきわどい下着よ?」


 佳乃は洋服の首元を引っ張って、自分の胸元をのぞく。

 その仕草は、衆人環視の中ですることではないと思うぞ。

 見知らぬ男が、すれ違いざまに背伸びをしてのぞき込み、だらしなく鼻を伸ばしていた。


「見なさいよ、仁、ほら」


 そんなことはつゆ知らず、俺に見せるように前屈みになる佳乃。二つの雪山の谷間が、ちらりと見えた。


「か、佳乃!」


 俺は真っ赤にゆであがってしまって、目の前で両手をぶんぶんと振り回す。


「その慌てっぷりだと、昨日、仁とあの子はそこまでいってないってことか」


 得心したようにうなずく。


「はぁ……?」


「どうしたの? 狐に化かされたような顔して」


「……鎌をかけた?」


「私は人間を化かしただけコン」


 佳乃は目が点になっている俺の額を、中指ではじく。


「だから、鎌をかけ」


「知らないコン」


「鎌をか」


「仁が馬鹿なだけコン」


「鎌」


「さっさと行くコン。映画が始まるコン」


 俺はふつふつとたぎり始めた復讐心を腹の奥に押さえ込んで、佳乃の背中を追いかける。佳乃は楽しそうに、コンコンと口ずさんでいる。どうやら狐スタイルの自分がお気に召したようだ。


「一コン、ニコン、三コン……」


 それは三人分のコントローラーという意味だろうか。


「商魂、士魂、闘魂……」


 なにかプロレス興業を想像させる。荒々しいビンタが、リングの上で炸裂しているように思えた。


「合コン、結婚、重婚、離婚、再婚、遺恨、血痕……」


「昼下がりの団地妻が目を輝かせそうなドロドロな展開だな」


「男こ――」


 その先を言うっ!?


「……飽きた」


「早!」


 というか、ネタ切れの感が強い。


「仁、私ふと思ったんだけど、『昼下がり』って言葉を頭につけると、不思議と嫌らしい感じがしない?」


「そうか?」


 佳乃の横に並んで首を傾げる。俺の中の暗い気持ちは、いつの間にか消え去っていた。


「たとえば、そうね……」


 佳乃がたわいもないことを真剣に考えている。


「……昼下がりの郵便配達」


 想像してみる。

 夫が単身赴任。寂しさを抱えた主婦の元に、ある日、若さをもてあました郵便配達員が……。


「なぜだ……! なぜか、無性にいやらしいぞっ!」


 体が武者振いを起こす。


「……昼下がりのもも肉」


 く……なぜ、なぜもも肉がこうも卑猥に聞こえてしまうんだ……! 若鶏なのか? 若鶏のもも肉だからなのか!?

 すごいぜ『昼下がり』……おまえにそんな魔力があったなんてな……っ!


「昼下がりの課外授業」


 おいおい佳乃、それは反則だぜ。『課外授業』だって、語尾につければ無性にいやらしく聞こえてしまうじゃないか。それをねらっての二重攻撃……鼻血ものだ。

 昼休みに課外授業はあり得ないと分かっていても、俺の妄想を加速させる。


「昼下がりの佳乃」


 エプロンを着けた佳乃が優しく振り返り、俺に優しく微笑みかける。


 ――仁君、今日は早いんだねっ♪ ご飯にする、お風呂にする、それとも、少し早いけど……わ、た、し?


 ふっ、決まっているじゃないか。もちろん、全部お前と一緒さ。


 ……なんてやりとりを考えてしまう自分自身が恐ろしい。


「くうっ……佳乃でさえ卑猥に聞こえるなんて、なんて魔力なんだ、『昼下がり』のヤツめっ……!」


 俺は地団駄を踏む。


「ねえ、仁」


 俺は歩道を踏み鳴らしながら、佳乃言葉に耳を傾ける。

 次はどんなたとえなんだ。俺はもう『昼下がり』には屈しないぞ。何でもござれだ。


「――今、どっちの佳乃を思い浮かべたの?」


「……え?」


 不意を突かれた佳乃の言葉に、アスファルトに振り下ろそうとした足が急停止する。


「だから」


 佳乃の瞳は真摯な光で満ちていた。


「昼下がりに、どっちの佳乃を思い浮かべたの、って聞いてるのよ」


「どっちって……なんだよ、それ」


 治ったはずの心臓の収縮活動。死火山が活火山へと変貌する。

 佳乃は何を言っている?


「俺は、何も……」


 俺はとっさに嘘をついた。


「嘘ね。目を見れば分かるわよ」


 詰め寄ってくる。俺を追求するように一歩、近づいてくる。

 俺は薄暗い路地裏に追い込まれ、青いゴミ箱にかかとをぶつけて横倒しにしてしまう。それにびっくりした黒いカラスが、空中に飛び去り、電線の上で俺たちの行方を見下ろしている。


「私はね、仁」


 俺はついに逃げ場を失った。壁に背を預けているから、佳乃の威圧感に押しつぶされそうになる。


「正直に言うと、この二日間に意味がないことを分かっていたの。だって、そうでしょ? 私たちが過ごしてきた……私たちと過ごしてきた長い月日が、たった二日でひっくり返したり出来るわけない」


 路地に連続して吹き込んでくる風が、俺と佳乃の間を駆け抜ける。

「私がいくら宣戦布告しても、あの手この手を尽くしても……仁の中で、もう答えは出てるような気がする。無意識下で、もう仁はどちらを必要としているか決断できているはずよ」


 風にもてあそばれる前髪の向こうで、佳乃の瞳が強い決意に揺れていた。


「この二日間は……ううん、違うわね」


 路地に絶え間なく吹き込んでいた風がぴたりとやんだ。身勝手な風だと思った。聞き逃したいときに限って、風はその動きを止める。聞きたいときは容赦なくその言葉をさらっていくのに。

身勝手すぎる。


「今日という日は――」


 風も、佳乃も。


「――自分勝手な私の……お別れ会」


 風のなくなった路地裏で、佳乃は俺の唇を奪った。

 俺をののしってばかりだった唇が、今はおとなしく俺の唇をふさいでいる。

 佳乃の唇は震えていた。

 潤いのある口唇は、俺の唇にそっと張り付く。冷たいと感じた後に、佳乃の体温が唇を通して伝わってきた。唇、口紅、唇。その中央の薄い膜を、二人で暖めていく。そんな奇異な作業に感じられた。ついばむことも、舌を動かすこともないただの接触。幼稚なキス。

 それでも、佳乃にとっては勇気を振り絞るものだったのだろう。

 屋上の上でのそれとはまるで違ったもの。あのときの勇気と今の勇気。その二つは明らかに違う。端的に言うなら、挑戦の勇気と、別離の勇気。


「……ん……」


 佳乃の呻き。驚きのあまり目すら閉じられない俺の眼前には、まぶたを閉じる佳乃の顔がアップになっている。

 そのとき、佳乃の揺れるまぶたの後ろから、きらりと光るものが流れ落ちた。美しくカールした長いまつげにも、その光る物体は付着している。

 俺は身動き一つとれない。

 突き飛ばすわけでもなく、慌てるでもなく、佳乃はゆっくりと名残惜しそうに俺の唇から離れていく。目をつぶり、感触をかみしめているように感じられた。

 大きく息を吸い、肺を膨らませる。目を開くのと同時に、肺の空気を逃がしていく。大きな、大きな深呼吸。


「お別れ会、終了」


 佳乃は俺の胸を、とん、とこづいた。これで終わり。そう伝えるかのような意思表示。

 佳乃の匂いが路地裏から消えていく。俺に背を向けて、薄暗い路地から、光り輝く表通りへ。佳乃を光が包んでいくような幻想的な錯覚。

 カラスが鳴いた。これで終わりか。さっさとどこかへ行ってしまえ。そう言っているような気がした。

 胸に刺さったトゲが、ついに中心部へと入り込んだ。俺の感情のターミナルコア。

 中心、それは文字通り、心だ。次いで訪れる激痛。泣き叫びたくなるような激痛。涙を流し、鼻水を流し、体中の穴という穴から水分を吹き出したくなるような衝撃。衝撃。そして、衝撃。痛みのあまり、俺は声を出すことすらままならない。

 佳乃は振り向かない。最後に見たのは笑顔だったか。それとも泣き顔だったか。

 大きく息を吸い、佳乃が浮かべたものは。


「か……」


 佳乃。佳乃。

 俺は金魚のように口を閉じたり開いたり。

 簡単なことだ。肺に空気をため込んで、声帯を爆発させればいい。

 でも、俺にはそれが出来なかった。


「……の」


 蚊の鳴くような声しか、出てこようとしない。

 佳乃が光に飲み込まれる。


「……身勝手なんだよ……」


 心がはじけようとしている。今までずっと秘めてきた。胸の奥で大事に大事に育んできた、何ものにも代え難いもの。


「佳乃の体を共有して、都合のいいときに現れて、悪態ばかりついて、俺を困らせて……」


 佳乃を見る度にそれは大きくなった。元気になった。と、同時に苦しくもなった。心に入り込んだトゲの痛みで、俺は今、赤子のように泣き叫びたい。でも、そのトゲの痛みは肉体的な痛みとは異なっている。

 この内側の痛みは? なぜ痛むんだ?


「なにがデートだよ、なにが宣戦布告だよ……」


 トゲが俺の中心に突き刺さり、俺の心がはじけ飛ぶ。


「勝手なんだ……自分勝手すぎるんだ! 佳乃も……俺も!」


 その内側に隠れていたのは、小さな、けれども強く輝く宝石。



 ――恋。



 何よりも純粋な、好き、という気持ち。

 俺の心は生まれたがっていたんだ。

 生みの苦しみを経て、産声を上げたかったんだ。


「俺は!」


 ただがむしゃらに。ただ純朴に。


「佳乃を泣かせたりしたくない!」


 去り際に浮かべたのは、泣き顔だった。


「佳乃の涙は、嬉し涙だけで十分だ!」


 路地裏を飛び出した。人混みの中をぐるりと見回して、佳乃を見つけようとする。

 どちらの佳乃を選ぶ。

 そんな大層な権利は俺にはない。佳乃は、二人で佳乃なんだ。

 たとえ佳乃が二人の佳乃として存在することが困難でも、それが日常に齟齬をきたしても、俺はそれでも今の佳乃であることを選びたい。ハードルは越えるためにある。弱点は克服するためにある。困難は立ち向かうためにある。

 選択肢を選んで、どちらかを必ず決めるのはゲームの世界だけで十分だ。

 これは、現実なんだ。

 選択肢なんか存在しない、現実の世界なんだ。

 佳乃の残り香が、車通りの多い中央通りの方へと流れていく。俺は嗅覚を犬のようにとぎすまして、人の波をすり抜けていく。

 俺はどちらかなんて選ばない。現実の世界には二者択一の理はない。


「俺は、どっちも選んでやる! 幸せにしてみせる!」


 ジャケットを脱ぎ捨てる。後ろ手に脱ぎ去ったジャケットは、雑踏に飲み込まれてあっという間に消失した。


「何回でもキスしてやる! 佳乃にも、もう一人の佳乃にも!」


 馬鹿げた発想だと思った。でも、出来ないとも思わなかった。

 今までそうしてきたように……いや、それ以上に今は佳乃を愛せるような気がする。

 愛に限りはない。愛は無限大だ。俺は佳乃に萌えている。萌え尽きることなんてない。


「俺は、二人とも愛してやる!」


 道路を挟んだ反対側で、佳乃が涙を浮かべていた。あれは、ツンデレの方の佳乃だ。

 らしくないぞ、ツンデレ。

 いつも強がっているくせに、子供みたいにあんなに涙を浮かべて。

 ああ、そうか、だからツンデレなんだっけ。


「出来るわけないじゃない!」


「出来るさ! 人を愛することも、キャラクターに萌えることも、同時にやってのけたんだ! 出来ないわけない!」


 低次元の屁理屈。でも、佳乃は笑ってくれた。俺も笑った。

 抱きしめたいという衝動が俺の中心から決壊する。遮るものなんてない。俺は佳乃に向かって走り出した。

 キスの雨を降らせてやる、なんて恋愛小説めいたフレーズも準備済みだ。

 抱きしめて、耳元でささやいてやる。

 佳乃は少しだけツンツンしながら、すぐにデレデレするだろう。



 ――溢れた。



 気持ちが、心が、愛が伝わるということがこれほど気持ちのいいものだとは思わなかった。

 だから、伝えたい。

 佳乃が佳乃の記憶を共有したように、俺も佳乃とこの溢れる気持ちを共有したい。

 今すぐに、永遠に。


「仁!」


 佳乃がこちらに向かってくるのが見えた。なぜか必死の形相だった。佳乃が涙を頬に残したまま走ってくる。

 刹那、かぎ爪でひっかくような大きな音が、俺に迫ってきているのが分かった。

 携帯電話をいじっている若い運転手が俺の目に飛び込んでくる。

 運転中の携帯電話の使用は罰金だって、ニュースで言ってただろ。下を向いて運転するなよ。ぶつかったら危ないだろ。

 冷静に頭の中で考えることが出来た。

 顔を上げた運転手。俺と目があう。目が大きく見開かれ、携帯電話を取り落とす。

 直後、暗転する俺の視界。

 二回転。三回転。アスファルトの硬質な感触を身体に受けながら、俺は自分が事故にあったのだと悟る。

 事故の直後、スローモーションになるってよく言うけれど、あれは嘘だ。だって、現に俺は時間を肌で感じ取ることが出来る。人々の叫び声や、怒号が何のフィルターもなく聞こえてくる。


 ――君、大丈夫か!


 俺は誰かに乱暴に揺り動かされていた。事故にあった人間をそんなに乱暴に扱わないで欲しい。気道確保とか、体を横に倒すとか、救急救命の知識には疎いが、とにかく細心の注意を払って欲しい。


 ――こっちは大丈夫だ! 特に外傷はない!


 どうして俺を揺り動かしている人が叫んでいるんだ。

 それに……こっちは? あっちでもあるって言うのか?


 ――おい! 女の子の方を早く病院に!


 あちこちから怒号が飛び交う。

 ……女の子?

 ささやく声が耳に忍び込んでくる。


 ――おい、ひどい出血だぜ……助かるのかよ、あれ……。


 指差し、顔をしかめる野次馬の群れ。

 ……ひどい出血?

 とっさに自分の体が動いた。

 悪夢から覚めたベッドの上、布団を払いのけるように飛び起きた俺は、自分の体が五体満足なことに驚いた。両手を見、そして、揺り動かしていた男の人を見た。精悍な顔つきのサラリーマンだった。その肩越し、両足を震わせ、手を口にくわえた若い運転手の姿があった。茫然自失といった体だ。

 嫌な予感がした。サラリーマンの元から離れて、運転手の見つめる方向に歩いていく。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 念仏のように運転手は震える声でつぶやいている。

 運転手の足下には、特大の赤い花が咲いていた。

 ヘッドライトが壊れたのか、プラスチックの残骸が至る所に散らばっている。

 その真ん中に、佳乃がいた。

 黒のチュニックは、赤い液体を吸い込んでさらなる黒に染まり、白い佳乃の肌も真っ赤に染まっている。次第に広がっていく赤い水たまりは、細かい目のアスファルトに染みこんでいく。徐々にではあるが、その範囲を広げながら。

 視界がちかちかする。頭が痛い。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 ああ、そうか。俺は佳乃に助けられたのか。

 それで佳乃が代わりにはねられて、血を流して……。

 血溜まりが広がっていく。

 佳乃、血を流しすぎだぞ。それ以上流したら、お前、出血多量で死……。


「佳乃……?」


 死? 佳乃が? どうして?

 だって佳乃は……佳乃は、俺の一番大切な人で、やっと思いが通じて、二人まとめて愛してやるって、そう宣言したんだ。ついさっき、ここで。

 そうだろ、佳乃。

 そうだよな?

 なぁ、佳乃……。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 救急車の耳障りなサイレンが聞こえてくる。その音は、目覚めたはずの俺を再度、悪夢戻すには十分な現実感を伴っていた。


 ――今日という日は、自分勝手な私の……お別れ会。




 佳乃の笑顔が浮かんで、消えた。


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