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扉の向こうは、思っていたよりも質素だった。
広くとられた部屋には、無地の絨毯と大きな仕事机、椅子、そして本棚が置いてあるだけであった。本人もさぞきらびやかなものを着ている印象があったが(なぜ)、今回も裏切られてしまった。
部屋に入ってすぐ、その人物は机の前に立ってこちらに顔を向けていることがわかった。眼鏡をかけ、グレージュの髪をきちっとまとめている。服装もシンプルにシャツとネクタイ、そして黒のぴたりとしたズボンを履いていた。シャツからのぞく腕は鍛えられているようにもみえる。
僕が後ろの扉をしめると、彼は口を開いた。
「初めましてユリくん。私はここの主、ズイといいます。どうぞよろしく」
そう言うと、彼はまた微笑んで見せた。けれど、ただの笑みではなく、眼鏡の奥の目はどこか裏があるような風にみえたのは気のせいだろうか。
「今日からお世話になります、ユリです。よろしくお願いします」
僕が一礼すると、主は机に寄りかかり、筋張った腕を胸の前で組んだ。
机の上には、なにかの資料だろうか、紙の束が嫌になるほど積み上がっている。床にはいくつもの本の山が出来上がっている。徹夜なのかもしれないが、主の目にはうっすらと隈ができていた。
僕が床に目を向けていると、主は「ああ」と声をあげた。
「すみません、なかなか片付けができないもので、見苦しい部屋ですね」
「いえ、あまり気にしないので…大丈夫ですよ」
彼はそういう僕を、どこか観察しているようだった。下から上へ、舐めるように視線を動かしていく。僕が使えるか使えないか、まずは外見で判断するのだろうか。僕は思わず表情を強ばらせた。
しかし彼はすぐに目線を僕から外して、本棚の横に置いてあった椅子を持ってきた。上には本が乗っかっていたが、バサバサと適当に払いのけて、机の傍に持ってきた。
「とりあえず、立ち話もなんですから座ってください。コーヒーは飲めますか」
僕は思わず声が上ずった。
「あ、ミルクが入っていれば…」
そういうと、彼は笑みを浮かべた。口元に皺を作って、そのまま部屋の向こう側にあるポットとコーヒーカップを取りに行ってしまった。僕は仕方なく机の前まで行くと用意された椅子に座った。
椅子の座り心地は良く、思わず背中までくっつけてしまった。ゆらゆら揺れる椅子を満喫しながら僕は部屋の壁一面にびっしりと敷き詰められた本棚と本を眺めていた。
本は昔から読むのが好きだったので幾らか読んではいたが、ここには読めない、ましてや見たこともない文字の本がずらりと並んでいた。しかし所々に小さい時に読んだような絵本が挟まっていたり、有名な作家のシリーズが並んだりしていた。どれも綺麗なまま保管されているようで、埃の被っているものは見当たらなかった。
「ブラックが苦手なようだったので、ついでに砂糖も入れておきました」
僕が前に向き直ると、主はソーサーを手にしながら机に戻ってきた。苦くて、でもほんの少し甘い匂いが部屋を満たしていった。前に置かれたカフェオレは、甘ったるそうな色をしながら、渦をまいている。
「ありがとうございます」
僕は口をつける。コーヒーなど滅多に飲まないので、これがいいものなのかどうかは分からなかったが、美味しいという事はよくわかった。小さく頷くと、彼は満足したのかまた小さく笑ってみせた。
「この部屋に来るまでに、他に誰かに会いましたか」
「いえ…モモさんが案内してくれただけで、後は誰にも」
「そうでしたか……では、是非他の皆にも会ってあげてください。新しい方が来ると伝えたら、とても楽しみにしていましたので」
彼はそう言うと湯気の立ったカップを口につける。眼鏡が白く曇ったが、すぐに元に戻った。
「そう期待されると、少し緊張します…」
「それもそうですね…でも大丈夫ですよ。ユリさんはじゅうぶん素敵な方です」
彼はそういうと、眼鏡の奥を見せないようにふっと口角をあげた。僕のなにを知った上で、素敵だと言い決めてしまうのだろうか。人は見かけではないと幼い時から言われていたので、少しむっとしてしまった。
「そろそろ本題に入りましょうか」
彼はカップをソーサーに置いて、椅子を正面から九十度回転させた。僕も手にしていたカップを一旦机に戻した。
「ここでのこれからの生活は、そんなに大変なものではありません。毎日、皆と"仲良く"過ごし、私からの指示を受けたら、それに基づいて行動する。たったこれだけをやってもらえれば、あとは自由にしてもらって構いません」
彼はそう言うと首を傾けて目線をこちらに向けた。
「指示と言っても、少しお使いを頼んだり、街へ私の付き添いで出てきてもらう程度に過ぎません。大体は各自自由に過ごしていますよ」
僕は一回だけ小さく頷いた。主は目を細めて微笑んでみせた。
「私はまだ少しの間やることが溜まっているので、他に分からないことがあれば、モモくんや他の皆が教えてくれると思います。気軽に聞くといいでしょう」
「わかりました」
主はカップを手に取って、残った中身を一気に飲みほした。
「ただ」
僕は空気が少し変わったのを感じた。外していた目線を主に向けなおすと、彼はまだ僕を見たままだった。変わらない表情に見えて、その眼は先程よりも鋭くなっているように感じた。
「ひとつだけ、ここでの掟があります」
そう言うと、彼はどこからか花を手にしていた。そしてそれを近くで見たり、鼻に近づけてみたりしてから、僕に見せてくれた。
綺麗な赤色をした花がこちらを向いていた。花弁は先がちょっぴり尖っているあまり見たことのない形をしていた。その奥で、彼は小さく口を開く。
「『ブーゲンビリア』という花です。夏や秋頃に咲く花ですが、うちの屋敷は特殊で大抵の花は万年咲いていられるんです」
僕は主がそれを受け取るよう促すので、そっと受け取った。すると、彼は少し眉を寄せ、すっと手を引っ込めた。
「それを受け取った時に、"確かに受取りました"と答えてください。それがここの掟です」
僕は彼の顔と、自分が手にしている赤い花を交互に見た。
「誰からこの花をもらうんですか」
「それは分かりません。あなたを気に入ったこの屋敷の誰かが、あなたにプレゼントするんです。今の私みたいに」
主は口角をあげたが、目は笑っていなかった。
「今、言うんですか」
「いいえ、これはただのプレゼントですよ」
そういうと、主は椅子を正面にむきなおらせて、花を持っていた手をそっと取り、近くに引き寄せた。
「掟は絶対です。例えそれが私相手でも、他の誰かでも、特別なことが無い限り拒む事は許されません。それはここの皆がよく分かっていることです」
僕はよく分からなかった。彼の声は真剣だが、どこか違うところを見据えながら言っているように聞こえた。僕を通して他の誰かを見ているような、そんな感覚になった。だが僕は、少し間を開けてから小さく返事をした。
「よろしい。それを聞けばあとはもう自由です。好きに屋敷の中を見て回って大丈夫ですよ」
主が僕の手を離すと、二つのからっぽになったカップを手にして立ち上がった。僕も手にしていた花を胸ポケットにしまうと、椅子を後ろに引いて立ち上がった。
「ああ、そうでした。これも一つ付け加えておきますがーーー」
主はこちらに振り返った。そしてその眼は、先ほどまでに見せたことのないような、どこか面白がるような目つきで最後にこう言った。
「ここの右隣、ラベンダーのかけられた部屋には、入ってはいけませんよ」