プロローグ
音楽はもう、辞める。
彼がそう決意したのは、夕立の降る八月のことだった。
コンクールを終えた学校からの帰り道、今までのすべてを失った彼の心は、ただ拒絶することしかできなかった。
父さん…
車の窓に打ちつける雨粒は、まるで、彼の心をえぐっていくかのように痛々しいものに見えた。
父さん…
いくら名前を呼ぼうとも、失ったものはもう帰ってこないという現実が突き付けられるのみだった。
―彼には、ユーフォニアム奏者の父がいた。
地元でジュニアブラスバンドクラブのコーチをしており、また、一般の楽団でもユーフォニアム奏者として活動していた。
彼がコルネットと出会ったのは小学三年生の時、ジュニアブラスバンドクラブだった。
父に連れられクラブの見学に来た彼は、コルネットのその華やかで優しいサウンドに一目ぼれしたのだった。
ユーフォニアム奏者の父にとっては同じ楽器をやってほしかったが、彼の意志をくみ、手探りではあったが、父として、丁寧に、誠心誠意コルネットを教えた。
彼はみるみるその腕を上げていき、小学六年生の頃には、県内のソロコンテストでも金賞を取れるだけの実力になった。
中学生になった彼は、学校のブラスバンド部に入部した。
町内でも有数の実力者とあってか、彼を知らない人などいなかった。
中学生活も順調に、奏者としてのステップを登るはずだった。
大切なものは一瞬にして目の前から消えるのだ。
それは中学三年生の五月のことだった。
「お父さんが事故にあったって!」
学校から帰り一人で家にいるときに、何気なく受けた母親からの電話だった。
彼はとっさのことに頭が真っ白になった。
「今すぐ美川病院まで来て!」
何も言うことができず、そのまま電話が切れる。
急いで…!
頭の整理がつかないまま、彼は一心に病院に向かった。
病院に着くと、集中治療室の前のベンチに母がいた。
「父さん…は…?」
まだ息が落ち着かないまま、母に尋ねる。
「中よ…」
「…」
不安が心彼の心の中を覆っていく。
ただ無意識に、ベンチに座ることしかできなかった。
大丈夫、大丈夫…
そう言い聞かせることなど、まるで無意味だった。
暗く、そして長い時間が過ぎた。
ピーッ
唐突にドアが開いた瞬間、無機質な音がひたすらに彼らの心をえぐっていった。
集中治療室から出てくる医師の表情は、彼らに結果を突き付けているかのように冷酷に
映った。
彼にとって、葬儀はあまりにもそっけないものに感じられた。
淡々とお経が読まれ、運ばれ、焼かれ、埋められる。
受け止めきれない現実を目の前にした彼は、ただひたすらに長い時間を見つめていることしかできなかった。
―そのまま月日は流れ、コンクール当日になった。
彼は合奏中において、これまでにミスがなかったためしがない。
現実で会えるはずのない父は、彼の心の中で生きていた。
だが、それが彼にとってはとてもつらいものだった。
父が頭の中に居座り、演奏に集中などできるはずもない。
本番の成果は思った通りだった。
メンバーは、彼を慰めてくれた。
だが、負った傷が深すぎたのだった。
彼らではどうしようもない。
そして、自分がこれから生きていくために、二度と同じことを繰り返さないように、決意したのだった。
音楽は、辞める―
初めて(?)投稿させていただきました。
まだまだつたない文章ですが、こうやって読んでいただけてうれしく思います。
不定期になると思いますが、少しずつ更新していきます。