第95小節
クラシックと映画音楽とオリジナル曲で構成されたクレアのデビューアルバムは春に発売予定だった。
譜めくりのアルバイトを終えたあと、秋にクレアとわたしの連弾バージョンのレコーディングは行われた。
レコーディングスタジオへは朝はやく、レーベルのスタッフが運転する車で向かった。
それは小さな湖のほとりにあった。
眺めるたびに違う色を見せるその湖が好きだとクレアはいった。
スタジオにつづくプラタナスの並木道。
秋のやわらかな陽ざしが、つぎの樹木を追いこすたびに車のサイドガラスを光らせた。
クレアのレコーディングは夏の終わりからはじまっていた。
ここ1ヶ月ほどは大学の授業のあいまをぬってレコーディングしている様子だった。
そしてどうやら最後に、わたしとの連弾バージョンの録音をとっておいたみたいだった。
スタジオで会ったクレアはまたひとつ輝きをましているように見えた。
わたしも連弾バージョンの練習は毎日かかさなかった。
それと、つぎのコンクールに向けてもわたしは準備をはじめていた。
午後からテストがはじまり、そして本番となった。
クレアも、わたしも、集中していた。
その最初の1回に、あの夏からのすべての想いが込められ、そして一気に解き放たれた。
演奏が終わり、オーケーがでた。
夕暮れの空の色をわずかに染めた湖が見渡せるテラスの席で、わたしとクレアはピアノのことについて話していた。
ようやくクレアと、ピアノの話ができるようになっていた。
競うためのそれではなく、理解しあうためのそれとして。
レコーディングを終えて、わたしはどこか高揚していた。
いまなら話せる、と思った。
「ねえ」
とわたしはいった。
「うん」
「彼のアルバム。またチャートで1位になってたね」
「そうね。いま海外からの注文がおおいみたいなの」
「それで」
「そう」
「わからないことがあるの」
「何?」
「彼のアルバムってね、わたし、壮大な魂の旅のように感じていたの」
「うん」
「でも、目的があるはずだと思うんだけど」
「旅のね」
「そう。旅の。それが何なのか、あなたならわかるんじゃないかなって」
「話しかけてたのよ」
「話しかけてた」
「うん。海となって、風となって、空となって、話しかけてたと思うの。イルカたちや、花たちや、鳥たちや、もちろん世界中の人たちにもね」
「何を話しかけてたのかな」
「きっとね、どんなに素敵かって」
「ああ」
「どんなに素晴らしいかって」
「うん」
「どんなに、好きだったかって」
わたしは胸がいっぱいになった。
「伝わっていたのね、彼女に」
とわたしはいった。
「あなたはじかにだったけど」
「じかに?」
「そう」
「どういうこと?」
「あなたは彼女からの橋渡し役だったと思うの」
「わたしが」
「責めてるわけじゃないのよ。何ていうのかな、そう、パッセージよ。主要なメロディーとメロディーをつなぐパッセージ。あなたはその曲にもっともふさわしいメロディーだったのよ」
「ふさわしいメロディー」
わたしのなかにあったワンフレーズのメロディーたちのことなんだろうか。
わたしのなかからすでに消えてしまったメロディーたち。
あの湖の桟橋で最初に生まれたメロディーだった。
あれは偶然だったのか。
あのとき見た幻想的な光はいったい何だったのだろう。
そのときにはすでにクレアとはコンクールでいつも一緒になっていた。
そういえば、クレアが1年間くらいコンクールにでない時期があった。
無理もない。
あんな経験をしたんだから。
それでもクレアはもどってきた。
もどってきてくれたから、いまわたしといる。
わたしも、もう逃げない。
クレアがいる、その場所から。
クレアはいった。
「あくまでこれはわたしなりの考えなんだけどね。パッセージというのはいわば資格の意味で、作用としてはほらっ、化学の実験のあれだと思うのね。水のなかに塩を入れるとプラスのイオンとマイナスのイオンにわかれて、濃度が高くなれば導電率もおおきくなるっていうのがあったでしょ。まさにあれのようだったんじゃないかなって。そして濃度があまりに高くなりすぎると電気が流れにくくなる。それが、あなたの異変だったと思うの」
わたしはそれとなく濃度が何を意味するのがわかったけど、そのことをあえて口にはしなかった。
クレアはつづけた。
「最初、彼はうれしかったと思うの。彼女の想いはまだこの場所にあるってわかって。でも彼は動揺もしてたと思う。最初はあなたを巻き込むまいとしてたはずよ。だけどあなたを介さないと通じ合えない。その葛藤のなかであなたに異変が起こった。これ以上つづけるとあなたの何かを、そうおじいさまのいうには、奇跡をもたらす音律を、壊しかねない。しかし彼女を求めてしまうじぶんをどうしても抑えきれない。そこで彼は命をかけてやめようとしたような気がするの。あなたを守るために。生きているかぎり、彼女を求めてしまうから……」
ホールへつづく地下通路。
ホール内のバージンロード、ステンドグラス。
ガラス向こうにつづく森のなかの小径。
スキャンするように移動していった陽ざし。
誰もいないはずの客席。
何か気配を感じた、あのとき。
「……けれど彼がそうしたことが、ふたりをふたたび出逢わさせたような気がする」
控え室で合わせなくていいといった、彼。
音符をみうしなったわたしを心配してふり向いた、彼。
病室で眠っている、彼。
連弾を聴きにきてくれた、彼。
桟橋から消えた、彼……
わたしの脳裏につぎつぎとそれらがよみがえっていた。
「どうしたの?」
とクレアが心配そうにいった。
「えっ。ああ。うん」
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ。何か急にね、泳げないって怖いなって思っちゃって」
とわたしはごまかした。
「ちょっと、いまさら?」
といってクレアはあきれた顔をした。
「わたしね、スイミングスクールに通おうと思うの」
「それならぜひうちのスクールへ」
「まあ、サービスしだいね」
「なら、うちのプールでもいいわよ」
「うちのプールって?」
「自宅の。コーチもいるし」
「ぐわっ」
「またでた」
「スタイルいいわけね」
「努力なしに維持できないわよ」
「考えとく」
「何でいつもえらそうなのよ」
わたしたちは顔を見合わせて微笑んだ。
そうやって微笑み合うのはひさしぶりだった。
あの日以来ちゃんと見たことがなかったクレアの瞳は、微笑んでいても、胸が締めつけられるほど悲しみが帯びていた。
あっそうだ、ちょっと待っててと、クレアがスタジオにもどっていった。
しばらくしてクレアがあらわれた。
クレアは座ると、わたしに1枚のCDを差しだした。
わたしは受け取った。
まだ見本だけど、とクレアはいった。
表のジャケットには、ピアノをもの憂げな表情で弾いているクレアが写っていた。
美しかった。
急に大人になったようで少し寂しさも感じた。
綺麗ね、とわたしはいった。
ありがとう、とクレアはいった。
裏を見てというので、見た。
そこには、演奏会最終日に撮った写真が使われていた。
連弾用の椅子にふたり、微笑んで座っているわたしとクレア。
その後ろで、わたしとクレアの肩に手を添えた彼がうれしそうに笑って立っていた。
あなたさえよければこの写真にしたい、とクレアはいった。
わたしは、もちろんと答えた。
なかも見て、とクレアがいった。
あけると、ライナーノーツがあった。
連弾バージョンのところには、彼の言葉があった。
演奏会最終日は撮影されていて、それを見た理事長がすぐさま彼に依頼したそうだ。
内容はメールですぐにレコード会社に送られてきたという。
そこにはこう書かれてあった。
ふたりを結ぶ弦が奏でるピアノの音が
愛しい人への挨拶のようにして
いつの日にか
世界にあふれてゆくことでしょう。
そうしてふたりの音色が芽ばえさせた想いが
やがて花となって咲いたとき
きっと世界は
いまよりももっともっと
優しくなっていると思うのです。ーーー野崎京介
ねえ、クレア。
彼のアルバムからあなたが選んだ曲とわたしが選んだ曲。
そのいろんな組み合わせがさまざな風景を描いてゆく。
彼が曲に込めた想いがそうしてみんなの日常や思い出に重なって、大切な気持ちを熱くする。
わたしたちなら、それができる。
クレア、それが彼の願いのような気がするんだけど。
わたしもそう思うわ、美風。
届けましょう、世界へ。
愛が、どんなものかって。
うん。
ねえ、美風。
うん。
パンケーキ、食べにいかない?
いいね。
すぐ近くに素敵なお店ができたの。
最初にあなたといきたいと思ってたお店なの。
(終止符)




