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譜めくりの恋  作者: ゆぶ
94/95

第94小節



 駅のプラットホームのベンチに座って列車がくるのを待っていた。


 乗客はわたしのほかにいなかった。


 線路の向こうの柵に沿って背の高いひまわりが咲いていた。


 きたときは気づかなかった。


 空の青と真っ白な雲を背景にしたひまわりの葉が、つぎの季節に向かう風にゆれてバイバイしているように見えた。


 ふいに、自転車の急ブレーキ音と、それにつづいてガシャンと倒れる音が聞こえた。


 改札口のほうを見ると、そこから制服姿のバタフライの少年があわてた様子で飛びだしてきた。


 少年はわたしを見つけると、ほっとして、それからゆっくりと近づいてきた。


 少年は無造作にわたしのとなりに座った。


 わたしたちは正面を向いて、ときおりお互いに顔を見ながら話した。


 でも少年は、わたしが顔を傾けるたびに、そのタイミングで一度視線を少しだけそらしてから、正面を向くのだった。


「お礼いってなかったよね。ありがとう」

「だいじょうぶですか?」

「うん。どこも悪くないよ」

「海水けっこう飲んだんじゃないですか?」

「少しだけだったからだいじょうぶ」

「なら、よかった」

「むちゃくちゃしょっぱかったけど」

「涙をためたように」

「何、ロマンチックなこといって」

「あははは」


 少年は照れて頭をかいた。


「どうして?」

「えっ」

「どうしてあそこにいたの? おばあちゃんを追いかけて?」

「おばあちゃんをさがすのに全力疾走しませんよ。そうさせる心配もないですしね」

「ごめん。失礼なこといっちゃって」

「いえ」

「全力疾走したんだ」

「泳ぎでぜぇぜぇとはなりませんから」

「そうなんだ」

「はい」

「そう」

「たぶん、あなたとおなじ理由ですよ」

「おなじ理由?」

「そう感じたんでしょ? 感覚が冴えてて。ぼくもそうです。あなたは日を追うごとに生き生きとしていましたよ。ぼくも毎日が新鮮で、ふわふわしててからだが軽くて、タイムトライアルでは半年ぶりに自己新が出て……つまりは、そういうことです」

「……ねえ」

「はい」

「スポーツのタイムトライアルってよく聞くけど、どうゆう意味なの?」

「ああ、予行演習とか、ぼくの場合は度胸をつけるためのトレーニングですね」

「度胸をつける」

「ええ、本番に弱いタイプみたいで」

「そうなんだ」

「ほらっ、本番でとてつもない記録がでたりするじゃないですか」

「うん」

「人間にはそいいう未知のチカラがあるから、それが引きだせるように本番さながらのトレーニングをするんです」

「なるほど」

「まあ、それをいうと本番こそが最高のトレーニングではあるんですけどね。そうはいったって試合ばかりあるわけじゃないですから、それで」

「そっか。コンクールはわたしにとって最高のトレーニングだったってことか……」


 少年は小さく何度もうなずいていた。


「ひとつ聞いていい?」

「はい」

「昨夜、何か、見た?」

「あなたが溺れかけてるとこを見ました」

「それ以外は?」

「心配無用です。柊エバーグリーングループのその名は、いつまでも色褪せない気持ちをあらわしてくれています。ぼくたちはそのグループに守られてるし、何より感謝をされているし、そしてその一員でもあるんです」

「柊が常緑樹で、だからエバーグリーンって新たにグループ名につけくわえたのは、いつまでも衰えないっていう願いを込めたかったからって何かに書いてあったけど、ほんとうはそういう意味があったのね」 

「あの夏からはじまったんです。ぼくたちはほんとうに、あらゆることを支えてもらってます。この地域のすべてといってもいいくらいです。ぼくもそうです。スイミングスクールはほんの一例です」

「そうしたすべてが、クレアが輝くほうへと向かわせていったのね」

「それは、これからも」

「なら、わたしも仲間入りね。役目は果たさないといけないわね」

「あなたが味方につけば心強いですよ」

「でも、ピアノでは負けないけどね」

「もちろんです」

「ちょっとこっち向いてくれる?」

「えっ」


 少年は顔だけ向けた。


 わたしは少年に顔を近づけて、まゆ毛を見てみた。


 少年はわたしの目をちらっと一度見たきり下を向いて、息をひそめて身をかたくした。


 まゆ毛に、つむじはなかった。


 右にも、左にも。


「何ですか?」

「つむじ、ないね」

「つむじ、ですか?」

「まゆ毛に」

「まゆ毛に」

「何でもない。わすれて」

「はあ」


 わたしはそういうと、顔を少年からはなした。


 わたしたちはふたたび正面を向いた。


「もひとつ聞いていい?」

「ええ、はい」

「昔話があるでしょ。お殿様が漁師の青年と暮らしていた女性にぞっこんになって彼女を差しだせみたいな」

「ああ。ずいぶんざっくりですけどわかります」

「彼女、どうして会いにこなかったの?」

「こなかったですよね」

「そうなのよ」

「あれじゃないですか。一度手放したものをふたたび手にするには並大抵の努力じゃ手にできないっていう」

「ハードルが上がってるってことね」

「ええ、とんでもなく」

「わかる」

「わかりますか」

「わかる」

「そうですか」

「その場合の条件って何なの?」

「条件っていうより、試されているんじゃないですかね」

「何を?」

「深さやおおきさを」

「それを証明しなきゃいけないってことね」

「たぶん」

「証明できたら会えるわけね」

「じゃないですかね」

「どうやって証明したんだろう」

「難しい問題ですね」

「あなたわかる?」

「まったくわかりません」

「わたしも」

「まあ答えはそう簡単には見つからないですよ」

「それもそうね」

「あなたとなら見つかるかもしれない」

「それ、5年後にもう一度おなじセリフいってくれる?」

「わかりました」

「ねえ」

「はい」

「いのちの恩人ね」


 わたしはそういって少年の頬に口づけした。


 みるみるうちに少年の顔が真っ赤になった。


 列車がきた。


 わたしは立ち上がり、乗車口に進んだ。


 列車が停まった。


 わたしは乗り込んだ。


 少年はベンチから立ったままだった。


「応援してるから!」

 とわたしはありったけの声で叫んだ。


 少年は両手を突き上げて、ガッツポーズした。


 わたしは左手で人差し指を立てて、1位をしめした。


 少年は深くうなずいた。


 ドアが閉まって、列車が動きだした。


 少年は立ちつくしたままだった。


 どの夏よりもまぶしい夏が列車の速度で思い出になってゆくのを、わたしはじっと、見つめていた。

 

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