第93小節
フロントにいくと、そこには支配人が待っていた。
支配人は乗り場まで見送るといった。
わたしはそこまでしていただかなくてもといった。
そうさせて下さいと支配人はいって譲らなかった。
送迎バスの乗り場は駐車場の一角にあるとのことだった。
わたしと支配人はそこまでの数分の道のりをならんで歩いた。
わたしはカラオケルームをほったらかしにしたままだったことに気がついて、そのことを詫びた。
鍵はフロントで預かっているのでいつでも利用して下さいと支配人はいってくれた。
わたしは、再度詫びた。
支配人は気にしない下さいといったあと、すぐさま、いつか牧野様と真田くんの対談がこのホテルで行われることになることが楽しみで仕方がありませんとつづけた。
わたしもです、とわたしもいった。
わたしは気になっていることがあった。
それを、最後にひとつ聞いてもいいですかと尋ねた。
支配人は何なりと、とうなずいた。
ホテルのなかで桟橋が見える部屋はありますか? と。
その質問に支配人はきっぱりと、どの部屋からも見えませんと答えた。
支配人の説明はこうだった。
遊歩道は蛇行していてまっすぐではないし、木立ちはふしぎとどの部屋からのぞいても桟橋が見えないように重なっていて海からの光もほんのわずかにちらつくほどで、それは専門家が各部屋の環境変化の観点から定期的に写真を撮ったりして調査していることで、そのデータをわたしが必ず確認しているので間違いないと。
そうですか、とわたしはいった。
その答えは何となく想像していた答えだったので、そう驚きはしなかった。
それからわたしはつけくわえて、自然があの場所を隠しているみたいですねといった。
ほんとうですね、と支配人はいって微笑んだ。
支配人はその質問を気にする様子もなくしゃべりつづけた。
学園の夏休み期間とか、旅行の計画の有無とか聞いたりして。
夏休みはまだつづくけどといった感じで、わたしのこのあとの予定などあるのか支配人は気になっていたようだった。
わたしは察して、あ~あこれから練習の日々かいやだなあ、とかつぶやいてみたりした。
それを聞いて支配人は、特にわたしがこれから妙な行動に向かわないことにほっとしたのか、どこか安心したように見えた。
それから支配人の話は森のなかに造る新しいコンサートホール&ホテルの話題になり、従業員も希望者はそちらに行くこともできるそうで、いまや彼らの話題はそれと演奏会のことばかりとのことで、その流れで演奏会のスタッフのなかでわたしとクレアのファンがまったくの半分ずつになっていることを明らかにした。
従業員的には全員お嬢様派にならないといけないんですけどねと支配人はバツが悪そうにいったけれど、少し間があって、つまりいいたいことはあなたのピアノを好きな人はいるってことです、わたしを含めて、と恥ずかしそうにそういった。
それだけは伝えてたくて、と。
わたしはそれを聞けただけでもこのホテルにきてほんとうによかったです、と感激してそういった。
乗り場に着いた。
そこにはマイクロバスが一台停まっていた。
牧野様専用のバスです、と支配人はいった。
いいんですか、とわたしは聞いた。
もちろんです、と支配人は答えた。
お世話になりました、とわたしは頭を下げた。
ありがとうございました、と支配人も頭を下げた。
何だか申し訳ないといった感じでわたしは乗り込んだ。
席に着いて外を見ると支配人は頭を下げたままでいた。
バスが動きはじめた。
あっ、と思った。
専用……そうだ、洗濯用専用袋の呼び方何ていいましたっけ?
そう窓をあけて聞こうとしたけれど、支配人はいつまでも頭を下げたままだった。
わたしはもういちど、支配人に、頭を下げた。




