第92小節
目覚めると窓の外はほのかに明るくなっていた。
となりのベッドでクレアが横になってわたしを微笑んで見ていた。
「おはよう」
とクレアがいった。
「おはよう」
「眠れた?」
「うん。ずっと起きてたの?」
「まあね」
「ありがとう」
「ううん。そうそう、あなたが眠ってからおじいさまと話したわ」
「うん」
「あなたのことをとても心配していたわ」
「うん」
「それから、彼のことはすべて任せてほしいって」
「うん」
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ。だいじょうぶって伝えて」
「わかった」
それからクレアは起きあがって、笑顔をのこして、部屋をあとにした。
窓から外を見ると今日も夏でいてくれそうな空だった。
するとあのゆりかもめが目のまえを横切って、桟橋とは逆のほうへと方向転換すると、木立ちが途切れたその向こうに広がる海へと飛び去ってゆくのが見えた。
明日には夏はどこかにいってしまうのかな。
わたしはゆりかもめが点から無になるその瞬間まで見つめていた。
最寄り駅行きの送迎バスの時間は9時30分だった。
あと1時間と少し。
わたしはシャワーを浴びて、髪を乾かし、セットして、軽くメイクすると、クリーニング済みのきたときとおなじ服を着た。
ショルダーバッグを持って、麦わら帽子をかぶって、鏡のまえでチェックした。
あらためて部屋を見渡した。
そして、窓の外の桟橋を見た。
昨夜あんなことがあったなんて信じられないくらい、何も変わってない桟橋が、そこにはあった。
わたしは目を閉じて、あの海に消えた女性の顔を記憶の底からたぐり寄せようとした。
なぜか、まゆ毛のつむじ以外はまったく思い出すことができなかった。
わたしはふたたび、桟橋を眺めた。
あの桟橋の光景に、ワンフレーズのメロディーは生まれてはこなかった。
いや、このホテルでの日々のなかで、新しいメロディーが一度だって思い浮かぶことはなかった。
もう生まれないのかもしれない。
そんな、予感がした。
いままで生まれていたメロディーは、いったい何を意味していたのだろう。
おぼえていたはずのメロディーも、消えてしまった。
音楽が途絶えて止まってしまったメリーゴーラウンド。
そのユニコーンに乗ったままのような気分だった。
消えてしまったメロディーは、もう二度と思い出すことはないのだろうか。
ふたたびわたしはメリーゴーラウンドを動かすことはできるのだろうか。
わたしの遊戯はもう永遠に動きはじめることはないのかな。
もしかしたらそのメロディーでなければ、それは動くことはないのかもしれない。
どこかで、そんな気もした。
ぽっかりあいた穴のような場所があって、そこがそう感じさせていた。
あの桟橋を見て、いつの日か、新しいメロディーが生まれるときがくればいいのに。
わたしはそう願った。
そのときはきっと、そのメロディーは違う感覚から生まれ、違う意味を持ち、そして違う何かを動かしはじめるのだと思う。
わたしはそのときにようやく、名前通りのピアニストになれる。
父が望んだ。
そして母がみちびこうとしている、ピアニストに。
そう思った。
その日までどういうじぶんであるべきなのかを、あの桟橋が、わたしを見てくれているように感じられてならなかった。




