第91小節
クレアがわたしが泊まっている部屋にきてくれた。
クレアはクレアで胸騒ぎがしてまだマンションにいたらしい。
状況は少年から支配人へと伝えられただろう。
支配人は最初に理事長へと連絡しているはず。
クレアがきてくれたのは恐らくそのルートなんだと思う。
窓の外はいつものように静かで、警察や救助隊などがきている様子はなかった。
わたしは壁側のベッドの上で壁に背をくっつけて座っていた。
クレアは、おなじベッドに腰かけていた。
「無茶して」
とクレアがいった。
「そうね」
「あなた泳げなかったんじゃなかった?」
「忘れてた」
「忘れることじゃないでしょ」
「そうね」
「まったく」
「ねえ」
「うん」
「変なこというようけど信じてくれる?」
とわたしはいった。
「いつも変なことしかいわないじゃない」
「じゃあだいじょうぶね」
「どうゆう理解なのよ」
「ふっふっふっ」
わたしは顔がひきつっていて笑えなかった。
「……変なことって?」
とクレアが聞いた。
「彼の婚約者、人魚だったの」
「そうね、知ってる」
「えっ」
「知ってるっていったの」
「どういうこと」
「わたし見たのよ、一瞬だったけど。わたしを助けてくれた彼女、裸になってた。それからわたしを桟橋のテラスのところに上げてくれて、そしてすぐにもぐって消えてしまったの」
「うん」
「そのときほんの一瞬だったけど、尾びれみたいなものが見えたのね」
「わたしも、見た」
「そう」
「どういうことなの」
「わたし、あの出来事から、じぶんが見たものが真実なのかどうか知りたくて、いろいろ調べたりしてたの。まえに話したでしょ? 人魚返りの話」
「うん」
「ずっと夢だと思ってた、あなたが最初いったように。この部屋から桟橋は見えないもの。でもそれが、ある日、確信に変わった」
わたしにはいまも、この部屋から桟橋が見えることはいわなかった。
クレアにこれ以上、心配をかけたくはなかった。
「それがバタフライの少年の、あのキックにつながるわけね」
とわたしはいった。
「そう」
とクレアはうなずいた。
クレアは姿勢をなおしてから話しはじめた。
「人間になった人魚自身は、全身が海のなかに入ると、ふたたび人魚にもどってしまうっていういい伝えがこの町に残っていてね。学者の先生によると、むかし人間か人魚か確かめるために、毎年ある時期に、例外をなくすために全員が海に入る儀式があったそうなのね」
「何か怖いね」
「そうね」
「彼女は、あなたを助けるか、彼と結ばれるか、それを一瞬で決めたってこと?」
「……わたしが、引き裂いた。わたしが、ふたりを」
そういって、クレアは絶句した。
「クレア……」
わたしはそのあとのことばをさがしたが、浮かぶことばはどれも違うようで、それらを口にすることはできなかった。
クレアは黙って、うつむいたままだった。
クレアの沈んだ横顔。
彼女の痛みは、けっして消えることはないのだ。
「クレア」
「うん」
「どうすべきだと思う?」
「彼?」
「うん」
「さがすべき?」
「そう、ね」
「まずあなたに相談すべきだと思ったの」
「そう」
「騒ぎ立てたら、彼を傷つけるんじゃないかって」
「うん」
「こんな話、誰も信じてくれないだろうし。わたしが頭がおかしくなったって思われるだろうし。ううん。それはべつにそう思われたってかまわないんだけど。でも彼がみずからって……そういうふうな話にけっきょくはなっちゃうと思うのね。先日の薬の件もあるし、それで入院もしているし」
「そうだね……」
「あなたのいうとおりにする」
「おじいさまと相談させて」
「うん、わかった」
「あなたにもつらい思いさせてごめんね」
「クレアはわるくないでしょ?」
「ううん、すべてはわたしからはじまったことだから」
「わたしはだいじょうぶだから」
「いまは眠って。そばにいるから」
「ありがとう」
わたしは横になって、左腕で両目をふさいだ。
クレアがわたしの足をだいじょうぶだいじょうぶとさすりつづけてくれた。
理事長はわたしがどんな状態か、どうすべきだと思っているのかクレアに確かめるようにいったのかもしれない。
それから対応をするべきだと。
それがわかるクレアの言葉だった。
それと、彼がいつかいなくなってしまうことも覚悟していたようにも見えた。
胸がはりさけるような時間の痕跡としての、彼女の落ち着きに。
あるいまた、想像を絶する熱情の果ての青い炎として。
クレア、あなたは……
そうなってほしくないから、そばにいたかったんだよね。
必死で、祈りながら。
彼が向かいつつあるその先を、絶えず否定しながら……




