第90小節
「くると思っていたよ」
と彼はわたしのほうを見ずにいった。「あのときもそうだったからね」
「どうするつもりですか」
とわたしは怒りに似た強い口調でいった。
彼は答えなかった。
「クレアが悲しみます」
「彼女はわかってくれる。それに、きみがいる」
「そうは思いません。新しいコンサートホールで共演するの楽しみにしてました」
「そう」
「わたしも」
「うん」
「わたしにも曲作ってほしいんです」
「ああ」
「作って下さいよ」
「ごめんね」
「だめですよ」
「きみならきっと素晴らしい曲を作れるよ。きみのその美しい命がメロディーになって、それが風にのって世界中の人たちに届く。きみは、その風景そのものなんだから」
彼はそういうと、わたしを見て笑顔になった。
顔はんぶん月に照らされていないほうで、一瞬きらりと光るものがあった。
「あなたに作ってもらえたらそれでいいんです。それだけでいいんです。そしたらわたし、それで生きてゆけますから」
「きみにも、きっとわかるときがくる」
「そんなの、わからないですよ。こなかったどうするんですか。わたしずっと、後悔しつづけることになるんですよ」
彼は、ただ、わたしを見つめていた。
寂しそうに微笑んで、わたしを見つめるだけだった。
「あっ、見つけましたよ、答えを。あなたがなぜあの曲が好きなのか聞いてくれた、その正しい答えが。それ、いまいいますから」
「聞かなくても、わかってる」
「えっ」
「昨日の君のピアノを聴いてわかったよ、そのことが」
わたしは言葉がでてこなかった。
「きみはわかってくれた。昨日のきみのピアノがその答えだった。よく見つけてくれたね。ちゃんと伝わってきたから。ちゃんと届いたから。もうだいじょうぶ。きみを去ることはないから、ずっと。だからだいじょうぶ」
わたしは激しく首をふった。
「やめて!」
とそのとき後ろでそう叫ぶ女性の声がした。
ふり向くと、彼のマネージャーの女性が桟橋の上にいた。
赤い傘をさしていた、あの女性。
女性はハアハアと息を切らしていて取り乱した様子だったが、突然ひざからくずれおちて、その場で気をうしなった。
ハッとして、わたしは彼のほうをふり返った。
そこにはもう、彼の姿はなかった。
海面の女性が尾びれらしきものを海上に一瞬ひらめかせて、そしてもぐっていった。
とっさに、条件反射的に、わたしは駆けだして海に飛び込んだ。
必死になって浮かび上がって、必死に彼をさがした。
どこにもふたりの姿はなかった。
泳げないはずのわたしが、立ち泳ぎができていた。
しかし波が押し寄せてきて、わたしは溺れそうになった。
そこへ、誰かが飛び込んできたのわかった。
バタフライの少年だった。
少年はわたしを抱えて、桟橋中央の階段のあるテラスまで泳いだ。
老婦人がわたしの手をつかんで、引き上げた。
荒い息づかいの少年がつづいて、テラスに上がった。
老婦人が少年に何かいった。
少年はわかった、といってふらつきながらホテルのほうへ走っていった。




