第9小節
演奏会が行われる会場は、海とは反対側のホテルとは少しはなれた森のなかにあった。
フロント横の通路を歩いていって、そのさきの階段を下りて、長くつづく等間隔のランタンに照らされたレンガ造りの地下通路を通ってから階段を上がると、そこはもう会場の建物のなかといったぐわいになっていた。
階段を上った正面の中央にホールの重厚な扉があった。
その両サイドにはそれぞれドアがいくつかならんでいた。
ホールまえの広いロビーの全面ガラス張りの向こうには森が見えた。
ホテルとホールのあいだにある森。
そのなかに、白い花を咲かせた木があった。
白い花を咲かせた木は1列に海のほうへとつづいているように見えた。
それは自然がそうさせているのか、それとも人工的につくられたものなのかわからなかった。
いずれにしてもその風景は、おとぎ話のなかに出てくるメルヘンチックな森を思わせた。
いつまでもしあわせに暮らしましたというおとぎ話の結末を女のコなら感じとる、そんな森だった。
ロビーにはカウンターバーのようなところもあった。
棚にはまだ何も置かれてなかった。
ロビーの両方の壁際にはカバーが掛けられたソファーがいくつも置かれてあった。
重厚な扉をあけると、室内は白で統一されたチャペルだった。
室内の両サイドの小さな窓はすべてステンドグラスになっていた。
床は真新しい濃紺の絨毯が敷き詰められ、座席もコンサートホールに設置されているようなタイプになっていた。
いまは結婚式場ではないということがわかるのは、祭壇のかわりにそこに漆黒のピアノがあるからだった。
ピアノの向こうも全面ガラス張りで、その向こうには、森のなかを1本の細くまっすぐな道がどこまでもつづいているのが見えた。
わたしはピアノに近づいていった。
ピアノの左側には丸椅子が置かれてあった。
支配人の話では午前中なら練習に使ってよいとのことだった。
彼も、それはかまわないといっているとのことだった。
そうしたいだろうからとも。
練習の件はわたしのほうから聞いたことではなかった。
彼はわたしのことをどれくらい知っているのだろう。
身辺調査とか、学園への成績照会とかしたのかな。
いやそこまでしなくても、たぶんおなじピアニストとして理解してくれているんだろうなと思った。
わたしはピアノからいったんはなれたいと思ってこの譜めくりのアルバイトを選んだ。
それは、朝から晩までの練習に意味をみうしなっているからであって、けっしてピアノに指一本もふれたくないといったことではなかった。
しかしいまは午後だし、これから打ち合わせだからわたしはふれてみることもがまんした。
スマホを見ると、まだ約束の時間の20分まえだった。
わたしはこれから座りつづけるであろう丸椅子に座った。
少し、緊張してきていた。