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譜めくりの恋  作者: ゆぶ
89/95

第89小節



 とにかく歌った。


 途中、夕食をはさんだけど、お気に入りばかり選んだ80年代アイドルの曲を歌いつくすと、つぎには現代のアイドルポップスへと移った。


 壁掛けの時計は10時近くになっていた。


 つぎに歌う曲をセットして、わたしはイントロが流れはじめるのを待った。


 そのときだった。


 この夏。


 この海辺のホテル。


 ここで起きたあらゆる出来事が脳裏を駆けめぐった。


 学園の掲示板に貼られたアルバイト募集の紙。


 降り立った駅。


 バスの車窓から見えてきたホテル。


 バスから降りてはじめて見た桟橋。


 その桟橋にたたずむ彼。


 老婦人。


 バタフライの少年。


 あのバスのなかでの白昼夢。

 

 おおきな月。


 その月の下、あらわれた彼。


 飛び立たないゆりかもめ。


 クレアの涙。


 音符をみうしなったわたしをふり向いて見た、彼……


 わたしはマイクをソファーに放ってカラオケルームを飛びだした。


 わたしははや足で通路を歩いた。


 フロントのまえでは怪しまれないようにゆっくりと歩いた。


 心臓の鼓動のリズムが変になってて転びそうだった。


 ホテルの玄関をでてから走った。


 道路から外灯が照らす木立ちのなかの遊歩道を抜けて、ビーチから桟橋へといそいだ。


 月明かりのビーチには誰もいなかった。


 桟橋の外灯が照らす範囲のわずかなそのさき。


 わたしは桟橋の先端に人影を確認した。


 間違いなく、それは彼だった。


 桟橋に上がって彼に近づこうとすると、暗闇から手をつかまれた。


 驚いてふり向くと、そこには老婦人がいた。


「いかせてあげなさい」

 と老婦人はいった。

「でも」

 といってわたしは老婦人のつかんだ手をふりはらった。


 わたしは何度かふり返りながら、彼に近づいていった。


 老婦人は追いかけてはこなかった。


 彼は静かな微笑みを浮かべて海面を見下ろしていた。


 そこには上半身裸の女性がゆったりと立ち泳ぎをして、彼を見つめていた。


 その女性の顔には見覚えがあった。


 見覚えは、しだいに消えたと思っていた記憶へとつながった。


 その顔は、あの日バスのなかで、わたしに話しかけてきた女性の顔だった。


 

 

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