第89小節
とにかく歌った。
途中、夕食をはさんだけど、お気に入りばかり選んだ80年代アイドルの曲を歌いつくすと、つぎには現代のアイドルポップスへと移った。
壁掛けの時計は10時近くになっていた。
つぎに歌う曲をセットして、わたしはイントロが流れはじめるのを待った。
そのときだった。
この夏。
この海辺のホテル。
ここで起きたあらゆる出来事が脳裏を駆けめぐった。
学園の掲示板に貼られたアルバイト募集の紙。
降り立った駅。
バスの車窓から見えてきたホテル。
バスから降りてはじめて見た桟橋。
その桟橋にたたずむ彼。
老婦人。
バタフライの少年。
あのバスのなかでの白昼夢。
おおきな月。
その月の下、あらわれた彼。
飛び立たないゆりかもめ。
クレアの涙。
音符をみうしなったわたしをふり向いて見た、彼……
わたしはマイクをソファーに放ってカラオケルームを飛びだした。
わたしははや足で通路を歩いた。
フロントのまえでは怪しまれないようにゆっくりと歩いた。
心臓の鼓動のリズムが変になってて転びそうだった。
ホテルの玄関をでてから走った。
道路から外灯が照らす木立ちのなかの遊歩道を抜けて、ビーチから桟橋へといそいだ。
月明かりのビーチには誰もいなかった。
桟橋の外灯が照らす範囲のわずかなそのさき。
わたしは桟橋の先端に人影を確認した。
間違いなく、それは彼だった。
桟橋に上がって彼に近づこうとすると、暗闇から手をつかまれた。
驚いてふり向くと、そこには老婦人がいた。
「いかせてあげなさい」
と老婦人はいった。
「でも」
といってわたしは老婦人のつかんだ手をふりはらった。
わたしは何度かふり返りながら、彼に近づいていった。
老婦人は追いかけてはこなかった。
彼は静かな微笑みを浮かべて海面を見下ろしていた。
そこには上半身裸の女性がゆったりと立ち泳ぎをして、彼を見つめていた。
その女性の顔には見覚えがあった。
見覚えは、しだいに消えたと思っていた記憶へとつながった。
その顔は、あの日バスのなかで、わたしに話しかけてきた女性の顔だった。




