第85小節
目覚めはすこぶるよかった。
昨夜はいつまでもおさまらない高揚感がつづいていたので、結局何も食べることができなかった。
いや、こんな気分のいいからだの状態を、からだの別の活動のためなんかにそのエネルギーをさきたくはなかったから、食べなかったというべきかな。
だからふつうの状態にもどったわたしのおなかが、もういいよねとキュルキュルと鳴った。
時間はちょうど朝食時間の終わり頃だったので、わたしはささっと身支度をしてレストランに向かった。
時間的に違和感なくお客さんたちはまばらだった。
慣れた手つきでパンとソーセージとサラダをお皿にのせて、わたしは席をさがした。
そしていつものようにお客さんたちからははなれた席に座った。
それから、飲み物を取りにいき、パック入りのトマトジュースが残っていたのでそれと、紙コップにミネラルウォーターをマシンからそそいだそのふたつを持って席にもどってきた。
席に座るやいなやがこれもパターンの、バタフライの少年が目のまえの席に同時に座った。
「大評判ですよ」
と少年はいった。
「また聞いてたの?」
「だって気になるじゃないですか」
「ふ~ん」
わたしは色気もへったくれもありゃしないといった感じでかまわずにむしゃむしゃと朝食を食べた。
「最後の連弾がすごくよかったってみんないってましたよ」
「そう。よかった」
「聴きたかったな」
「ああ、今度アルバムがでるから、そのなかに入ってるからよかったら買ってね」
「買います買います。えっ、アルバムだすんですか?」
「連弾相手の彼女がね。わたしは参加するだけ」
「へえ~。でもすごいじゃないですか」
「ありがと」
「いつ頃でるんですか?」
「ん~、レコーディングはまだだから、年明けか、まあ春になるかもしれないけど、そのあたりじゃないかな。わたしも聞いてないからよくわからないんだけどね。はっきりしなくてごめんね」
「いえいえ。そっか。いやでも楽しみだな」
「ねえ、ところでおばあさんは、まだ病院?」
「ああ、もう退院して、すっかり元気になりましたよ」
「わあ、よかったね」
「はい、ほんとに」
「回復力があるのね。ひょっとしておばさんも水泳の選手だったとか」
「いえ、あなたとおなじカナヅチですよ」
「ほんとに?」
「びっくりするくらい」
「じゃあ違うじゃない」
「えっ?」
「ん?」
「はい?」
「ううん何でもない。うふふ」
「かっ……」
「ん?」
「いや、何でもないです」
「そう」
「はい」
「かっ、て何?」
「聞こえてたんですね」
「耳はいいわよ」
「そうでしょうね」
「ファだった」
「はい?」
「ドレミファのファだった」
「ああ、絶対音感ってやつですか」
「まあ」
「へえ。ややこしそうですね」
「何が?」
「あなたとつきあうのが」
「そんなことないわよ、慣れれば」
「慣れれば、ですね」
「そうそう」
「慣れた人はいるんですか?」
「いまのところはひとりね」
「同性ですか?」
「同性ですね」
「ほら」
「ほらって何よ」
「異性じゃない」
「それは試した人がいないからよ」
「それチャレンジしてもいいですか?」
「オリンピックで金メダル獲ったらね」
「約束ですよ」
「うん約束約束」
そう、わたしはおませな少年にまだはやいとたしなめるつもりでいった。
少年は喜々とした顔をして立ちあがり、じゃあとスキップしながら去っていった。




