第76小節
わたしの3回目。
衣装に着替えたクレアとともにマンションの玄関をでると、そこにはハイヤーが待っていた。
クレアが必要なときに電話をすればすぐにきてくれるらしい。
午後のこの暑さ、歩いて数分でも汗びっしょりになってしまう。
クレアとわたしは後部座席に乗り込み、クレアがホテルまでお願いしますといった。
走りだしたハイヤーは、わたしはそこはこっちだろうと思った道とは違うほうへいった。
そこでちょっとキョロキョロしてしまった。
そしてハイヤーは当たり前だけど迷うことなくまたたく間にホテルに着いた。
わたしはあそこであやうく声にだして方向音痴ぶりをいかんなく発揮してしまいそうだったからあぶなかった。
でもどことなく、クレアの視線が冷たかった。
わたしとクレアは控え室に入った。
テーブルの上にはすでに真新しい連弾用の楽譜が2冊用意されていた。
わたしたちは何気ない話で盛りあがって、いつにもまして笑って開演までの時間をすごした。
まえにも話したけどクレアとはピアノに関する話はほとんどしたことがなかった。
お互いが必要だったのは、ピアノ以外の話だった。
たぶんそうゆうことだと思う。
クレアがあの夏の出来事以来どんなにつらい日々をすごしてきたかを思うと胸が苦しかった。
ピアノに向かっているときが、クレアにとって唯一忘れていられる時間だったのかもしれない。
わたしは思いあがっていた。
クレアの成長はわたしというライバルがいたからだと、そうどこかで誇らしく感じてもいた。
だけどそれはまったくの思い違いだった。
そう思っていたからこそ、負けつづけているじぶんを正当化できたのだ。
クレアの成長の種は彼で、わたしではなかった。
今朝、そのことがわかった。
朝、目覚めたら、わたしは答えを見つけていた。
間違った方向へいきそうだったわたしを、彼が、クレアが、正してくれたように思う。
わたしはいったい何のためにピアノを弾いていたのだろうか。
好きだから?
確かに好きだった。
楽しいから?
確かに楽しかった。
けど、それは勝負に勝つこと、コンクールでいい成績をおさめることによって生まれる好きとか楽しさとかだった。
きっとそういう種類の、そういう範囲の好きとか楽しさとかでしかなかった。
けっきょくわたしは、勝つとか負けるとかといったレベルでのピアノに対する向き合い方だったのだ。




