第75小節
クレアの2回目が終わった。
彼女も弾く曲を変えてこなかった。
着実に、精度をあげていた。
わたしも変えないし、クレアも変えないだろう。
クレアはまるでわたしを鼓舞しているようだった。
浮かびあがってくるテーマはより明確なオーラを放っていた。
ピアノが彼女の気持ちに応えているように感じた。
クレアがいま、ピアノに向かう、そのうそ偽りのないまっすぐな気持ち。
信頼。
その言葉が、わたしのなかに浮かんだ。
ピアノも信頼されて、彼女の、彼女だけの音を奏でていた。
わたしはピアノを全面的に信頼していただろうか?
わたしはこころの片隅で、ただの楽器、ただの装置としてしか思ってなかったのではないか?
ピアノはわたしの期待以上には応えてくれないと、こころを閉ざしていたのではないだろか?
そうしたことをクレアはわたしに教えてくれているようにも感じたクレアの2回目だった。
わたしとクレアは2回ずつの演奏を終え、のこりはわたしが2回で、クレアは1回となった。
その段階でクレアから提案があった。
それはわたしの最終日、つまりこの演奏会のラストの日、ラストの曲は、彼がクレアに提供した曲の連弾をしないかというものだった。
その曲はもともと一緒にレコーディングする予定の曲だからいい練習になるとクレアはいい、それにそれはこの演奏会のラストを飾るにもっともふさわしい曲だと主張した。
そうよね。
3人がひとつになる曲。
わたしもその通りだと思った。
練習はクレアのマンションで行うことになった。
翌朝、わたしはクレアがメモに書いた超かんたんな地図をもとに彼女のマンションへと向かった。
修学旅行で信じられない方向音痴ぶりを発揮したわたしのために、ホテルをでてからの三叉路をどちかに行くかに重点が置かれた地図だった。
そこさえ間違わなければ、そこからは一本道だから、とクレアはいった。
マンションはホテルから歩いて十数分の距離にあった。
ホテルをでて、何度も確認してから、その道を進んだ。
森のなかの、いわばホテルからつづく浜辺のまえに、そのどこかヨーロッパの湖畔に建つ古城のようなマンションはあった。
浜辺をそのまま歩いて行ったほうが間違わないしはやいんじゃないかなってわたしは思った。
古城のようなマンションだから見ればすぐにわかるとクレアはいった。
ほんとうに見ればそのマンションだとすぐにわかった。
彼もここのどこかの部屋に住んでいるんだなと、わたしはマンションの玄関まえでその外観を見上げながら思っていた。
練習するためにクレアのマンションに泊まると支配人に告げたとき、さりげなく彼の容態を尋ねてみた。
意識はすでに回復しているが、退院するにはまだ時間はかかるとのことだった。
クレアの部屋は最上階にあった。
その部屋のボタンを押すと、クレアの声で、いまいく、と聞こえた。
オートロックの入口のまえで待っていると、クレアが奥のエレベーターから降りてきた。
最上階に行くにはセキュリティー上いろいろ面倒な操作があるらしいのできてくれた。
最上階には3つ部屋があり、のこりふたつは空き部屋になっているとクレアはわたしを部屋に案内しながら話した。
そのうちのひとつをわたしが使っていいといった。
相変わらずの対応のはやさにわたしはもうおおげさに驚きこそはしなくなったが、それでも小さく驚いてみせた。
クレアから部屋の鍵を受け取った。
あらためてクレアが最上階に行くための操作をわたしが理解するまで教えてくれた。
練習できるのは当日をのぞけば3日間。
それだけあれば何とかなりそうだった。
クレアにみちびかれて部屋に入った。
その外観からある程度は想像はしていた。
しかし部屋のつくりは王朝のそれふうではあったが、いたってシンプルで、いつか見たシャガールの絵を展示した美術館の室内のような印象をうけた。
淡いブルーの壁と白い壁とのコントラストが爽やかだった。
この色合い。
このデザイン。
どこかで見たような。
ああ、彼のCDラベルの写真。
この壁?
ああ、あれは彼の部屋の壁の写真だったのね。
彼のピアノの音が染み込んだ壁。
何か特別な、彼のCDの秘密を知った気分だった。
あらためて部屋を見渡してみた。
家具は最小必要限度のものしか置かれてなかった。
そこにクレアのストイックさを垣間見たような気がした。
そこで休んでてとクレアにいわれて、わたしはおおきなソファーに座った。
無重力かと思うほどのふかふかのソファーだった。
あなたの部屋は淡いピンクと白で統一してあるからね、とクレアはいった。
淡いピンク好きでしょ、と。
確かに淡いピンクが好きだけど、そうなるとやっぱりこの展開はあらかじめ決められていたことのようにますます思えてくるのだった。
でも予測の範囲とはいえ、なぜわたしのためにそこまでしてくれるのだろうか。
それを思うとこれは単なる偶然で、たまたまそこはもとから淡いピンクの部屋だったってことのようにも思えてきたりもする。
だってわたしはそれほどのわたしじゃないから。
クレアがジュースを運んできてくれた。
りんごジュースだった。
お手伝いさんは朝にきて、その日の食事を用意し、用事やらなんやらを聞いて手配してから帰ってゆくとのことだった。
向かいのソファーに座りながら、お手伝いさんはちょうど帰ったところだとクレアはいった。
淡いブルーの壁のまえの白いピアノが目をひいた。
そこだけ淡いブルーなのは、ピアノを引き立てるためのように思えた。
その一部のブルーの壁が、この部屋の印象を決定づけていた。
カーテンが開けられた窓の向こうに、入道雲を乗っけた水平線が見えていた。
もちろん業務用じゃないかと思うようなクーラーはよく効いていた。
クレアがまずどんな曲か弾いて見せましょうかと、ピアノのほうへと歩いていった。
ピアノのまえに座り、蓋をあけ、楽譜はなしでクレアは弾きはじめた。
出だしからのあまりの美しいメロディーにわたしの胸は高鳴った。
連弾バージョン用のオープニングのために新しく作られたメロディーだった。
聴いていると、その出だしのメロディーは連弾バージョンの新たなテーマであって、さらにそのあとは、少しずつ姿を変えながらあらわれてきては彩りをあざやかにしてゆくといった彼のスタイルがより明確に色濃くにじんだものになっていた。
彼の最高級メロディーだ。
わたしはそう思った。
新しいそのメロディーがクレアの曲に加わることにより、さらにドラマチックになっているように感じた。
でもメインテーマはクレアそのものでそれは変わりなかった。
美麗で、しなやかで、それでいて飾りっ気がなくて、わたしといるとき以外は借りてきた猫のように気品高く上品なたたずまいでいる、そんなチャーミングなクレア。
そうゆう曲だった。
そこにわたしが参加して、その世界観を崩してしまうのではないかと弾き終えたクレアに率直に聞いてみた。
そうしたらクレアはいった。
これは彼の見たクレア自身の印象なのだと。
彼がそういったのだという。
もしそうなら、彼にそうゆうふうに見えるのなら、それはあなたと出逢ったからだと思う、とクレアはピアノに向かったまま真顔でいった。
さらにつづけてクレアはいった。
この連弾用の楽譜とともにハーモニーの部分だけを彼が弾いたCDが送られてきたとき、彼女はそう確信したのだと。
そもそものクレアという曲もあなたに出逢ったクレア自身の曲なんだって。
だからこの連弾バージョンで弾ける相手は世界でただひとりしかいない。
これはあなたと弾くためだけに存在するものなの、と。
ときどきクレアは直球を投げてくる。
わたしはいままでそれをファールにしたり、チップにしたりしてかわしてきたのが大半だった。
だけどもこれはきちんと真芯にあてて打ち返さないといけないと思った。
わたしは立ち上がり、ピアノのところまでいった。
クレアは微笑み、連弾用の長椅子に換えた。
クレアは端に座り、横の空いた部分をとんとんと軽くたたいた。
わたしはうなずいて、そこに座った。
譜面台には、おそらく彼から送られたままのサイズの使い古したの楽譜があった。




