第72小節
熟睡した。
部屋にもどってからの記憶がまるでなかった。
起きたときの安堵感や脱力感や不安感といったさまざまな感情が、ペロペロキャンディーのうずまきのようにまじりあった何ともいえない気分をかかえたまま、わたしは身支度もそこそこにして朝食をとりにレストランへと急いだ。
ぎりぎり朝食が終わる時間だった。
何とかぎりぎり間に合った。
異様なほどの空腹で異常なほどおなかがキリキリと痛かった。
とりあえずババッとお皿にパンやサラダやソーセージやらをのせて席に着いた。
そのタイミングで、バタフライの少年(自分的にそう呼ぶことにしていた)が同時に向かいの席に座った。
少年はわたしのまえにパック入りのトマトジュースをポンと置くと、いった。
「おはようございます」
「ああ、おはよ」
「これ、どうぞ」
と少年はトマトジュースを指さした。
「ありがとう。気がきくね」
「好きですよね」
「大好き」
なぜか少年はポカ~ンとなっていた。
「朝練?」
「あ、朝練です」
「がんばるね」
「あなたも」
「わたしも?」
とわたしはもぐもぐと食べながらいった。
「ええ」
「どうして?」
「昨日はあなたが演奏したんでしょ?」
「何で知ってるの?」
「朝食にきたお客さんがしゃべってましたよ。ていうか、耳をすませばその話ばかりでしたよ」
「ほんとに?」
「ほんとですよ。よっぽど感動したんでしょうね」
「へえ~」
「ぼく、耳もすごくいいんです。だから今朝はずっと耳をすまして、肝心なところにきたらそれとなくそばに座ったりして聞いていたんです」
「わたしの話を?」
「あなたの演奏の話を」
「もの好きなの? 暇なの?」
「えー、だってうれしいじゃないですか」
「ふ~ん」
少年はパンフレットをテーブルに置いた。
「これ、さっきフロントでもらっちゃいました」
「ほんともの好きなのね」
少年は楽しそうにアハハッと笑った。
「めちゃくちゃかわいいじゃないですか」
「クレアが?」
「あなたがですよ」
「やめてよ」
「ごめんなさい。でもほんと同一人物ですか? この写真と」
「そんないまひどい顔してる?」
「試合が終わった翌朝のボクサーみたいな顔ですよ」
こんどはわたしが爆笑気味にアッハハッと笑った。
ほかのお客さんたちがふり向いた。
わたしはからだを低くしてテーブルの下に隠れようとした。
この人は何をしてるんだろうという目で少年はわたしを見てた。
ざわつきがおさまると、わたしは姿勢をただしてふたたび食べはじめた。
「泣いたのかな」
といってわたしは首をかしげた。
「がんばったんですね」
「がんばったがんばった」
「よかったですね、うまくいって」
「ほんと。伝えてくれてありがとう。またチカラでた」
「なら、何よりです」
「おかわりしよっかな」
そういった瞬間、案の定、支配人がやってきた。
もう慣れた。
何かもう免疫ができた。
少年は、じゃあぼくはといってパンフレットを手にし、すれ違う支配人とあいさつを交わして去っていった。
「おはようございます」
と支配人はいった。
「おはようございます」
「昨日はたいへんお疲れさまでした」
「いいえ」
「ものすごく評判がいいです」
「そうなんですか」
「お帰りになるお客様から、たくさんのお褒めのお言葉をちょうだいしております」
「それはよかったです」
「クリスマスシーズンにもやってほしいとのご要望もいただいているほどです」
「気がはやいですね」
「ホテルとはそういうところですので」
「まあそうですね」
「やられますか?」
「クリスマスシーズンにですか?」
「はい」
「とりあえずこの演奏会が終わってから考えます」
「わかりました。おかわりお持ちしますか?」
「あっ、じぶんでそれは」
「そうですか。それではわたしはこれで」
「どうもです」
「では」
支配人はそういうと、いつもはすぐに裏に消えるのに、まだ食べているお客様のところをつぎつぎとまわって声をかけはじめた。
なごやかな雰囲気があちこちに咲いていった。
うまく1日目を乗り越えられたことに、わたしは胸をなでおろしていた。




