第70小節
わたしは演奏する楽譜をかかえてホールに向かった。
いつもより重く感じる扉をあけて、ホールに入った。
今日はわたしがやるといってみたものの、誰もいないホールにひとり立っていると急にことの重大さをリアルに意識してしまい、心臓があっちこっちへとあばれているように動きだした。
楽譜を置き、ピアノのまえに座り、ふるえる手で蓋をあけた。
何度も深呼吸した。
ピアノにふれれば、落ち着くはず。
いままでのじぶんが、そうさせてくれるばず。
いままでもそう信じて乗りこえてきた。
おまじないの、1音を鳴らした。
その音が消えたとたん……
ふと、支配人が運転する車のなかでクレアが話してくれたことが、よみがえってきた。
彼に何年後かに会ったとき、彼はクレアのことをおぼえていなかったそうだ。
彼がわざとそうしてくれているのか、それともほんとうにクレアのことをおぼえてないのかはクレアにはわからなかったらしい。
それは、いまでも。
あのときの少女だとおぼえているのかどうか。
クレアがそうなんだと知っているのかどうか。
わからなかった。
でもおぼえてないはずはないからと。
知っているにきまっているからと。
だからクレアは彼に合わせているといった。
それがわたしのことをそうだと思っていないようにふるまう彼に対するありかただからと。
支配人は、彼みたいに優しい人間を見たことがないといった。
何という心なんだろう。
彼の曲の本質にふれたような気がした。
わたしは弾きはじめた。
少しでも、その心に近づけるようにと。
それを伝える。
わたしはそれを伝えればいい。
そのありかたを。
そのふるまいを。
その、ありようを。
いまわたしには、わたしにできる精いっぱいで、伝えたいことがある。
そう思うと、やっと、プレッシャーも使命に変えることができた。
わたしは指が舞う、あの感覚をとりもどしつつあった。




