第7小節
頬を赤らめたような夕陽があたり一面を染めていた。
ボートハウスへのスロープからデッキを通って桟橋へとでれた。
桟橋の向こう側は砂浜ではなく岩場だった。
わたしは桟橋の先端のほうで海を見つめている男性に近づいていった。
男性は気づいて、ゆっくりとふり返った。
わたしは男性がふり向いたので、そこで立ち止まった。
桟橋の上、わたしと彼が向かい合っていた。
「きみだね」
と彼はいった。
「譜めくりの相手は野崎さんだったんですね」
とわたしはいった。
「みたいだね」
「はじめまして」
「はじめまして」
「さっき演奏会のチラシもらったから」
「ああ、もうできてるんだ」
「まさか野崎さんだなんて」
「がっかりかな」
「まさか」
「なら、よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
わたしは微笑む彼に、どきりとしていた。
「あっ、何か、わたしって知ってたみたいですね」
「ぼくが選んだからね」
あの野崎京介に選ばれた。
わたしが!
脳内にある鍵盤が判別のつかない和音を鳴らした。
わたしがその残響にぼうっとしていると、そこに彼の声が入ってきた。
「よかったら、座らない?」
わたしは、はいとうなずいた。
ホテルの方に向いた木製のベンチがそばにあった。
彼が座ったとなりに、わたしも座った。
「あらためまして、野崎京介です」
「牧野美風です」
「うわさはかねがね」
「誰のですか?」
「もちろんきみにきまってる」
「ほんとですか?」
「ピアニストできみの名前知らない人いないでしょう」
「そうですかね」
「あれだけ優勝してて」
「過去の話です」
「それをいうならぼくだって過去の人かもよ」
「いえいえ」
「まあ、そういったところは共通点があるかもね」
彼はときおりこちらに顔を傾ける程度で、それ以外はずっと海を見ながら話した。
「あの、わたしアルバム全部持ってます」
「それはどうも」
「ほんとですよ」
「おかげで暮らせてるよ、ありがとう」
「いえ」
「しかしきみの経歴は優勝か第2位しかないよね」
「2位も書いてました?」
「書いてたね」
わたしは、書かなくていいのにとつぶやいた。
「ん?」
彼が耳を寄せた。
「あ、何でもないです」
「そう」
「でもわたしもコンクールよりもはやく野崎さんみたいにアルバムだせるようになりたいです」
「だせるよ、きみなら」
「無理ですよ」
「そんなこといったらそれでいいんだってからだのほうががっかりしちゃうよ」
「えっ」
「きみのからだなんだから、きみがちゃんと号令かけないと細胞は働かないよ」
「ですね」
「うん」
「だします」
「それでいい。近いうちだせるといいね」
彼はそういうとわたしの目を見て微笑み、それからまた海を見つめた。
その横顔を、わたしはジーンとなったまま見ていた。