第65小節
ホテルのロビーはこんな時間だったのに、子どもたちがえらくはしゃいでいて何だかにぎやかだった。
わたしは桟橋の真ん中あたりにきた。
外灯のちょうど下あたり。
誰もいないので安心した。
あれは不吉さが見せたまぼろしだったのだろう。
だいたい昼間のうたた寝の夢を信じるなんてどうかしている。
そもそもクレアがあんな人魚の話なんかするからいけなかったのだとそのとき思った。
すると、声がした。
聞きおぼえのある優しい声。
まぎれもなく彼の声だった。
わたしはふり向いた。
もういちどおなじトーンで聞こえて、それがじぶんの名前だとわかった。
「牧野くん」
暗闇からあらわれたのは、やはり彼だった。
めずらしく、白いTシャツにジーンズ姿だった。
彼にいつも感じていた波長がなかった。
「こ、こんばんは」
わたしは驚きながらいった。
彼はいつもよりやや生気のない微笑みで近づいてきて、わたしのまえで立ち止まると、海のほうにからだを向けた。
「きょうはゆっくり休めたかい」
と彼がいった。
「はい」
「それはよかった」
沈黙が、しばらくつづいた。
「ああ、となり町まで行って、パンケーキを食べてきました」
「へえ」
「どうしても食べたくて」
「わかるよ」
「わかりますか?」
「うん。どうしても食べたくてしかたがないものは、からだからのサインみたいなものかもしれないからね。栄養以外に必要なものとして、という意味においてね」
「そうなんです、まさしくそうです」
「食べすぎたのかな」
「えっ」
「こんな時間に、ここにいるから」
「あっ、いえ。あの、何だか、ただ眠れなくて」
「そう」
「野崎さんは?」
「ぼく?」
「はい」
「どうしてかな」
「やっぱり、眠れなかったからですか」
「そうだね。眠れないのはいつものことなんだけれど、何となく、今日のような気がしてね」
「何がですか?」
「ん?」
「今日のような気がしてって」
「ああ。いまそんなこといったかな」
「ええ」
「ごめん。いいたかったのは、何ていうのかな、曲が作れるのは今日のような気がしてっていう意味だったんだけどね」
「そうなんですね」
「いつもそうなんだ。つかんだメロディーのしっぽをずっとはなさないでいると、呼ばれているような気がして海にくる。そうして海のそばをうろうろと歩いていると、ふしぎと一気に曲ができあがってしまう。まあジンクスみたいなものだって思っているんだけどね。そうゆうことってきみはないかな」
「ジンクスならあります」
「うん」
「月がおおきく見える夜10時に、その月の光を全身に浴びると翌日にはかならずいいことが起こるんです」
「へえ~」
わたしはあきれるほどヘタなうそをついた。
「そうだ。明日の10時でよかったよね、連弾の練習」
「はい」
「うん。何だか邪魔して悪かったね」
「こちらのほうこそ」
「眠れそうかい?」
「とっても」
わたしは思わず恋人のようにそういってしまった。
「それはよかった」
「あ、あの」
「うん」
「あの、わたし、がんばります……その、がんばらなくていいって、そう……でも、がんばりたいんです、最後まで。そうしたら、何か変われそうな気がするんです」
「それはぼくも。ぼくもそう思ってはじめたことだから。海がきっと味方してくれるってね」
彼はそういって、海を見つめた。
「それです。海が味方してくれそうな気がしたんです、わたしもなぜか」
わたしのその言葉に彼の横顔は少し悲しそうに見えた。
ひさしぶりの演奏会で彼も疲れているんだと、わたしは思った。
奇異なことに、星空のなかであんなにおおきく見えていた位置に月の姿はなく、そのかわりにそこには渦を巻いた銀河が煌々と輝いていた。




