第40小節
今夜もなかなか眠りにつけなかった。
あの瞬間、涙がにじんだ。
あの瞬間の、その感情を言葉にしようとしても見つけることができなかった。
それが何ともいえずもどかしかった。
弾きわすれたままの、たったひとつの音符があるような。
それこそが、わたしに聴こえていなかった音のような気がした。
夢のなかで、わたしはその音の鍵盤を鳴らそうとしていた。
鳴らそうとするのだけれど、それがどの鍵盤なのかわからないのだ。
音がわからないのだから、どの鍵盤なのかわかるはずがなかった。
それでもわたしは必死にその音をさがしていた。
わからないのに、聴いたことがないのに、順番に鳴らしていた。
しかし、どの音も、わたしは違うと感じた。
そこは、変に確信があった。
もしかしたら、その音は鍵盤上には存在しないのではないかと思いはじめるしまつだった。
そんなことがあるのだろうか?
いや、あるはずがない。
たったひとつの音。
聴いたら、それだとわかる音。
その音はきっと、置き去りにしてしまってしくしく泣いているんだ。
胸がきゅっとなった。
わたしは泣きそうになりながら、もういちど順番に鍵盤を鳴らしはじめた……
朝、目覚めたときに、何かに反射した朝陽が、枕に添えた手もとまで近寄ってきていた。
わたしはじっと、その光を見つめていた。
光が指先にふれた瞬間、わたしはピアノが弾きたい衝動にかられ、飛び起きた。
身支度をすませ、部屋をでた。
宿泊している人たちがチェックアウトしているフロントの人に会釈をして、わたしはホールに向かった。
ホールの扉の鍵はかかっていなかった。
夜中は鍵がかけられていると聞いていた。
朝いちばんで、誰かがわたしのために開けておいてくれているんだろうか。
そう思ったら、こころが跳ねた。
扉をあけて、わたしはホールに入った。
正面の全面ガラス張りの窓の上から、光がホールをななめはんぶんに区切るように差し込んでいた。
その光が歩くはやさで、わたしを足もとからスキャンするみたいに移動していった。
わたしは影のほうにあるピアノのまえに座り、蓋をあけた。
深呼吸をして、弾きはじめた。
前回のコンクールの課題曲。
無心で弾いた。
ガラス窓から差し込む光の変化が雲のありかを教えてくれていた。
時間がふわふわしててやわらかかった。
いつもピアノのまえでは、時間というのは正確なテンポでしかなかった。
規則正しく、まるで校則のように窮屈だった。
時間をこんなふうに感じたのははじめてだった。
それは校則をやぶるある種の快感でなく、校則のなかで工夫するおもしろさのほうに似ていた。
罪悪感ではなく、安心感。
その安心感が、音符に、ほんのわずかな自由があることを気づかせてくれた。
ほんのちょっと、自由の意味が顔をのぞかせてくれたようだった。
窮屈さがなくなって、身体が軽かった。
意識も、流れている時間も、ふわりとしていた。
たまらなく弾きたかった衝動はこれだったんだ。
わたしがいちばん心地よいテンポが目覚めて、むずむずしていたんだ。
わたしのテンポ。
目覚めの光が、ホールの光が、わたしを誘う前奏曲だった。
最後の一音がホールに消えてゆくそのときまで、わたしは鳴らしてはなした指をそのままにして、その余韻を全身で感じていた。




