第34小節
彼が近づいてくると彼女は立ちあがった。
わたしはクレアのとなりにならんだ。
彼はいつものようにピアノに楽譜を置くと、わたしたちに向かって笑顔を浮かべていった。
「へえ~。すごい眺めだね」
「はい?」
とクレア。
「だって、ワンツーだもの」
「わたしがワンで」
とクレアがいって、勝ち誇ったようにわたしを見た。
「ツーです」
とわたしは間違ってはいないのでボソボソっといった。
ボソボソっといったけど、彼なら2位様といわれようが、ツーといわれようが何とも思わなかった。
ううん。
むしろ1位様って、ワンっていわれるようにならなきゃと、そうゆう気持ちになってくる。
そっか。
彼はそもそも順位なんかをどうとも思ってないってことなのかもしれない。
そんなふうにいえる彼は。
それとも、2位という順位に敬意を持つべきだとわたしに伝えてくれてるのかな。
ああ。
その通り。
そうですね。
ほんとにその通り。
「おもしろい紹介だね」
と彼はわたしに向かっていった。
「まあ」
とわたしはカムフラージュの苦笑いをする。
「だってそうでいなきゃ、彼女アイドルになっちゃうから」
とすかさずクレアがいう。
「そうなの?」
と彼。
「えっ」
とわたしは頭がクレッションマークになる。
「どうゆうこと?」
と彼。
クレアは答えた。
「彼女ね、わたしに勝ったらそれでいったんピアノからはなれてアイドルになろうと思ってるふしがあるの。負けたままでアイドルになるのがいやなんじゃないかしら。わたしにはわかるの。ずっとそばにいるから。この人そうゆうひとだから。だからわたしはワンでいなきゃいけないのよ。彼女がそれをあきらめる、しばらくのあいだはね」
「そうなの?」
と彼はわたしに聞いた。
わたしは何だかいろんなことが錯綜して顔が真っ赤になりはじめていた。
クレアがずばりお見通しなことにびっくりしたのと同時に、ここまでわたしのことをわかってることに感激もしていた。
確かに、そのふしはあった。
ふしどころか、もうアイドルの世界に飛び込む寸前だった。
彼女に勝ったらもう飛び込もうと思っていた。
それほどわたしはピアノに自信をうしなっていた。
ピアノを恋しいと思うたびに、その自信のなさが頭をもたげてきてまた落ち込んでいた。
そうなってしまうじぶんがどうしようもなく嫌だった。
だからそんなふうになるじぶんを無視しようとした。
そうなるじぶんを見たくなかった。
かつての自信にみちあふれていたじぶんのままでいまもいると思い込むことで、そこに目をつぶっていた。
しかし完全に無視することは不可能だった。
無視できていないことは、ときおり胸をチクチクとさす痛みでわかった。
そんなとき、わたしはアイドルのことを思った。
そうなったじぶんを、想像した。
そうすると、胸の傷みはいつしか消えていた。
自信をなくして飛べないじぶんを完全に無視するには、ピアノから逃げてアイドルになればいいんだとそのことが教えてくれていた。
でも、クレアに負けたままでアイドルになるのはアイドルに失礼だと思っていた。
だから、もういちどだけ勝てばよかった。
その1勝が精いっぱいだとも感じていた。
わたしには、たとえ勝利してもそれが最後で、その余力しかのこされてなくて、その先もないと。
そうしたことを彼のまえで暴露されて、わたしはただただ穴があったら入りたい気分だった。
「ほらっ、彼女恥ずかしがってるよ」
と彼。
「あっ、ごめんね美風。つい話の流れで」
とクレアはぜんぜん悪く思ってない顔でいった。
「あのう」
とわたしはいってつづけた。「ふたりは知り合い……」
「そうよ」
「何だ、話してくれたらよかったのに」
「それだと何か自慢になるじゃない」
「昨日話したのがずいぶんひさしぶりだったけどね」
と彼。
「そうね」
とクレアはつき合ってる彼女のようにいった。
「そうなんですか」
とわたしはそれがえらくしゃくにさわりつついう。
「彼のCDね。うちの系列のレーベルからだしているの。それでちょっとね」
とクレアは大発表する。
「あなたのうちの系列でないってところが知りたいわ」
とわたしはよくわからない感情でいう。
彼が声をあげて笑った。
彼はいった。
「会長はぼくを救ってくれた恩人だからね。アルバムをださないかって声をかけてくれてね」
「そうでしたか」
とわたしは優しくうなずく。
クレアがつづく。
「彼のアルバムのおかげで赤字続きだったレコード会社はいまでは新社屋が建ってるんだから、彼こそ大恩人なのよ」
「へえ~」
とわたしは抑揚なくいった。
クレアの自慢げはさらにつづく。
「もともとは祖父の趣味みたいなクラシック専門のレーベルだったんだけどね。ほんとにしゃれにならないくらいの赤字出してて祖父の立場もあやうくなるほどで、しめしがつかないからってレコード会社のすべての社員の人たちも路頭に迷うところだったのね。それが彼のアルバムの大ヒットで、新しいアイドル専門のレーベルまでできて。そのレーベルがいまではあのアイドルグループもかかえているんだからね。まっ、本気でアイドルになりたいのなら遠慮しないでいつでもそういってくれていいのよ。まっ、条件はわたしに勝ったらだけどね。まっ、負けないけどね」
「あのアイドルグループってまさか」
とわたしは血の気がひく。
「あなたが最終審査までいって、けっきょく辞退したところよ」
「どうりで知ってるわけね。でもいいの? 本気でアイドルになりたいっていっても」
「だから、わたしに勝ってからいってって」
「ふたりで組んでデビューしたら?」
と彼がすごい提案をする。
「あっ、それいいかも」
とクレアは指さして同意した。「それも条件にするから」
「ならいい」
とわたしは断固とした態度でそれを拒否する。
「何でよ」
「わたしのほうが人気がでて申し訳ないから」
「ねっ、顔に似合わず気が強いでしょ」
「どうりで馬が合うわけだ」
と彼は微笑む。
「ひどい」
とクレアは腰に両手をあてていう。「わたしは違う」
「なるほど」
とわたしはものすごく合点がいく。
「ちょっと」
とクレアは少し語気を強めていった。
彼が割って入る。
「まあまあ、じゃあ時間もないし、とりあえずはじめよっか。そのつづきはまたあとでってことでね」
クレアのひじがわたしを軽く突いた。
わたしは即座にやり返した。




